パンチの独り言

(2011年4月18日〜4月24日)
(叱咤、増税、試算、除去、停滞、両極端、無責任)



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4月24日(日)−無責任

 怒り心頭に発する、とでも表現しようか。週末の思いつきは、成る可くなら自然の営みを、と思いながら、前日外から帰るのが遅くなり、夕刊を開きもせずに寝てしまったとて、半日遅れの記事を読み進めて、呆れる戯れ言に再び怒りを催した。以前取り上げた、凋落中の国技に関係した人の意見のことである。
 まるで自分には関係ない、といった気持ちが十分に表れているという意味では、流石の文才と言うべきだろうか。指導者の不在を嘆く言葉も、自らの関わりに少しでも思いを馳せれば、違った表現に至った筈が、長年の放言で身に付いた責任回避体質は、枠の外からの意見へと転換させた。そんな不見識の持ち主を、肝心な場面で登用する人間の非常識もさることながら、自らが参加させられた会議の状況を伝える文章には、被災者への思いは込められず、その代わりに、いつもながらの体制批判が続く。乱立した組織への批判が、まるで国民の代表という立場から来るもののような振る舞いには、責任の二文字は存在せず、自らの役割の放棄にしか見えない。こんな人を選んだ人間の非常識は、大いに責められるべきだが、これで辞めさせれば思う壷、更なる放言が続くだろう。被害者代表たる団塊の人々は、こんな振る舞いが当然と思い込み、自らの立場が変わっても、同じことを言い続ける。当然、同世代の人間にとっては、代弁者と映るらしく、応援までが出る始末。大衆の迎合が、職業柄最大の目標だろうが、その嗅覚たるや流石のもの、ここでも我が意を得たりと、悪辣な言葉が噴出する。はっきり言えば、こんな事態で、そんな人は登場する必要は無い。登用する人間の問題は、実はこの戯れ言を掲載する新聞にもあり、どんな意図にせよ、劣悪な文章が掲載されることに、責任を負わねばならないことは確かだろう。実際には、凭れ合う姿勢がこんな事態を招いただけのことだが。

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4月23日(土)−両極端

 喉元過ぎれば、という言葉はまだ早過ぎる、だろう。だが、何事もこの時点で見回しておく必要があるのではないか。天災は忘れた頃にやってくると言われて、その通りになったと思う人々は、忘れぬようにと心掛けているだろう。ただ、その反応ぶりに別の思いを抱く人がいる。忘れる極端から、忘れぬ極端へと。
 千年以上前の出来事を、人々の記憶に残すことの難しさは、かなりのものであろう。三代も経てば、口伝も弱まり、曖昧な情報だけが残される。百年ほど前に起きたことを引き合いに出し、忘れなかったことを強調する声も、一部にしか響かない。どちらにしても、覚えておくことの難しさは、天災に限ったことでなく、一時の興奮状態が霧散するように、喉元過ぎれば、となる。千年という言葉を聞いた時、頭を過ったことは、無駄遣いの話であろう。通常のものでは防ぎきれないものを、強固なものを建てることで、防ごうという試みが起きた時、安全を志す人々は、その推進に力を入れた。だが、それにかかる莫大な工事費に、経費削減を使命とする人々は、無駄の一言でお蔵入りを決めた。この話を思い出したのには、二つの話が関係する。始めに千年のことは書いたが、もう一つは、津波を防ぐ為に築かれていた堤防の話だ。これで安心と思った人々に、二つの反応があったことは余り触れられない。安心だけれど念のため、という行動をした人と、安心だから、という行動をした人。どちらもそれぞれの考えに基づいた行動だろうが、結果は大きく異なったと伝えられる。安全の為とされたものが、安心に繋がるのは当然とは言え、結果が異なるのは何故か。人間の考えとは何か、という所に答えがあるのかも知れない。

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4月22日(金)−停滞

 ここに書いていることを読んだ人は、多分、こんなことを思うのではないか。何故、これ程、評価を重視し、批判を忌み嫌うのかと。どちらの行動を起こすにしても、そこに正当な理由があり、正確な情報分析と判断から起きているのであれば、こんな異論を並べる必要は無い。事前に設定した筋書き通りの行動に、苦言を呈しているのだ。
 復旧計画の必要性が強調され、早急な対応を迫られたから、と提示の理由が示される通り、不確定要素が数多ある中で、「工程表」なるものが発表された。直前まで、無計画との非難轟々だった空気は、すぐに澄み渡る筈も無く、別の攻撃目標を設けただけにも見える。策定への評価が主体とはならず、相変わらずの批判の矢が飛び交うのを見ると、矢を番えている人々には、どんなものも気に召さないのだという気がしてくる。その一方で、提示に対する評価の気は毛頭なく、それより、これで心配の種が更に増えたとの訴えが出ているようだ。被害者という括りがどこまで及ぶのか明確でないが、こんな様子を眺めるにつけ、全ての人間がその括りに入ろうとしているように思える。計画とは、ある道筋を示すものであり、その必要性が強調されるのは、見通しの明確さを示すとともに、進捗状況の把握を確実にしたいということから来る。それに対して、希望的観測という文句をつけるのは簡単だし、心配が募るという顔を見せるのも苦もなくできる。状況把握が不十分な中で、こういう要求に応えるのは容易でなく、不十分な点は多々あることだろう。しかし、この提示によって、全てではないにしろ、ある程度の全体把握ができ、展開を見守る為の急所を掴むことができる。この所の流れを見るにつけ、前進が感じられないことに、落胆する気持ちは高まる。相手に対する要求だけでは、何も進まないことに。

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4月21日(木)−除去

 汚染、その一言だけで、何か取り戻せないものが降り掛かる。公害という言葉は、最近殆ど聞かれなくなったが、廃棄物を発端とする土壌汚染の話は、市場の移転、井戸水の汚染、宅地開発、枚挙に遑が無いほどに取り上げられてきた。その多くは、除去の難しさや影響の大きさなど、まるで怪物に挑むような印象を与える。
 今回の事故についても、人災という結論を急ごうとする人々は、この辺りの話に力を注ぐ。確かに、見えない敵を相手にすることは、化学物質特有の問題であり、除去の困難さを強調すれば、怖れは増すばかりとなる。科学技術の発達にも拘らず、この辺りの事情は殆ど変わっておらず、困難の壁が低くなる気配は見えない。そんな中で、一度汚染されたものは、取り除けないとの印象を与えるのは、赤子の手を捻るより容易く思える。不安の重要性は以前も取り上げたが、恐怖という感覚を抑え込むことの難しさは、周知の事実であろう。その中で、難しさを強調すれば、どんな結果を導くかは、容易に予想できるのではないか。だが、こういった主張をする人々の論旨には、何か肝心なものが欠けているようだ。60年以上前に落とされた特殊爆弾の影響を、一部の科学者たちが70年以上の間不毛の地と化すと結論づけたことは、当時よく知られたことのようだが、結果は全く違ったものとなり、今はどちらの都市も県の中心地として栄えている。詳細な計測を繰り返せば、現在の予測と同じような困難さが見えたのかも知れないが、人々の営みは、それとは全く違った経過を辿った。これは単に、ヒトという動物だけのことでなく、あらゆる動植物に共通の事柄であり、無謀な生き物の行為とは結論づけられない。警告の主であるJacobsenという学者も、変化に驚いたとの続報があり、予測の難しさを表すものとされる。今回の例がどうなるのか、結論を急ぐ必要は無く、様々な観点からの議論を進めれば良いのだろう。

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4月20日(水)−試算

 復興資金がどれほどの額になるのか、確定した訳ではない。その中で試算をすることが、どれほどの意味を持つのか、無駄と思う人も多いだろう。だが、他人に責任を押し付けるばかりで、何の策を編み出せぬ人こそ、社会の中での無駄と言うべきであり、数字に弱い人の為に、実態を示す必要があるように思う。
 支出に関する不確定要素についても、様々な憶測が飛び交うが、それにも増して収入に対する怪しげな噂話は、荒唐無稽なものも含めて、無数に湧き出てくる感じさえある。ある時期、ある筋という最も怪しい情報源からのものとして紹介されたものに、公務員の給与カットの話があった。その後、何も出てこない所を見ると、そのまま水面下で進めるだけのことか、あるいは、一部の人間に強いる形に危うさを感じた為か、「情報」が流されないから判らない、とでも言うべきだろうか。数年の期間を持って捻出することを前提とすれば、一年に必要となる収入は10兆位になると言われる。これは国民一人当たり10万程度の負担となるから、平均的な四人家族であれば、年間40万の徴収となり、月に4万程度のこととなる。平均収入が500万程度であれば一割程度となるが、これは異常な額なのだろうか。これまで国民一人当たりの借金の話を、懸命に取り上げていた人々は、これに関する感想を漏らすこと無く、さっさとすり寄る姿勢を見せ始めている。一方で、取り上げられるかも知れないと危惧する人々の中には、寄付などの行為の意味を主張する人がいるだろう。だが、個々の被災者に対する支援とは別に、公的な復興に必要なものがあると思えば、それが思慮に富む考えとは言い難いものにならないだろうか。今一度原点に戻るべきことは、これまで棚上げばかり繰り返していた政策に、震災が光を当てていることにあるように思う。

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4月19日(火)−増税

 机上の空論、渦中にある人々には、大変失礼な言葉であるけれど、巷で濫用されているようだ。紙の上でだけ通用する論理とか、都合のいい流ればかりで役立たずの論理といった揶揄が聞こえてくるが、その中で実績を謳う姿勢が見られるものがあり、空虚な中身に拘らず、虚飾に満ちたハリボて姿に嘆息が聞こえてくる。
 復旧ではなく復興を目指すとの設定は大いに評価すべきものだが、批判に終始する人々は先立つものに思いを馳せる。早速、補正予算なるものが立てられつつあるが、全体の損失に比べたらたった十分の一程度に過ぎず、焼け石に水という雰囲気さえ漂う。ただ、全体として50兆にも及ぶ経費を、どのようにして調達するかが最大の問題であり、様々な憶測が飛び交うこととなる。中でも、膨大な借金を問題視してきた筋は、ここで更なる上乗せに難色を示すかと思えば、逆方向に動くことに意外な印象を持つ。債券を増発するという方法は、これまで散々攻撃の的にあったのに、何故こんな方針変更が起きるのか。そこには根深い病の巣があり、その恐怖から逃れきれぬ人々の、身勝手な判断があるようだ。学者も交えての議論の中には、景気の冷えが怖れの対象であり、その回避が第一課題となるとある。まことしやかな筋書きに、再びの悪夢を描く人は少なく、文字通りの場当たり的な対応を、正当なものと押し頂く。だが、この手の筋書きは、これまでに何度も使われ、その度に絵に描いた餅を焼き捨てることとなった。公的資金の注入の妥当性を論じる際に、景気の冷えが何度も使われ、それなりの納得を得たように見えたが、その後の展開は閉塞感に満ちたものとなった。それ以外にも、金科玉条の如く「冷え」を強調する動きに、様々な改革は頓挫する結果となった。今、最も勢いがあるのは、被災者への応援の力であり、義援金なるものが毎日のように取り上げられる。だが、協力などという割に、その額が微々たるものであることに触れることは無く、抜本的な解決が導けないという明らかな予想を示すことも無い。国債が早速の手当としても、同時に増税を課さねば何の解決も得られないことは明白であり、熱い心が冷えぬうちに決断することこそが最優先の課題だろう。

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4月18日(月)−叱咤

 何時の頃か、海の向こうから褒めて育てるという育児法が入ってきた。舶来品に弱い国民性は、依然として強く、この際にも双手を挙げて歓迎する風潮が高まり、その手の本の売れ行きは急激に伸びた。だが、その実態は、捩じ曲げられた情報に満ちた、欠陥品ばかりのもので、誤解に基づく手法は害悪そのものとなる。
 褒めることの重要性を否定するつもりは無いが、叱ることを排除する為のものとなると、飴だけを与え、虫歯を増やすだけに過ぎないことは明らかだろう。歯抜けとなった子供たちは、二度と生えることの無い悲劇に見舞われ、醜態をさらすこととなったが、皆がそうであれば安心できる。それが被害を隠蔽し、本質を見失うこととなった。褒めるだけの仕組みは、悪を定義せず、善悪の区別は消失したに等しい。法治国家としての問題も大きいが、ごく普通の人々の、日常生活にまで、悪影響が及ぶこととなる。同じ国から、後を追うように入ってきた評価制度は、こんな中で朽ち果てる結果を見たが、その後遺症は未だに癒えてないのではないか。褒めることに徹する為には、善悪、良悪の区別無く扱うことが必要で、評価の為の資質は、曲がるばかりとなる。不思議なことには、褒められて育った世代ほど、貶すことに終始することで、その大失態を表すものに思えてくる。批判に対する批判が存在しない状況では、この悪癖は増長されるばかりとなり、矯める機会は失われている。勝手気侭な発言を放置し、一方的な罵詈雑言を取り上げるのでは、真に大切なことは失われるばかりである。賢者ぶって難癖を付けるばかりの人や、無学を棚に上げて批判を繰り返す人が、大きな顔ができる社会は、病んでいるとしか思えない。応援や評価が消し飛ぶ雰囲気は、異常と思うべきだろう。

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