車で長距離を移動すると、車窓の風景の変化に目を奪われる。鉄道での移動と違い、そちらに全ての神経を向けるわけにはいかないが、それでも、季節の移り変わりが行きつ戻りつ、何とも不思議な感じがする。 既に、列島を駆け上がった前線も、海を渡るところまで来ていると聞くが。
様々な草花が咲き誇り、樹々が鮮やかな花々をつけるこの季節、それを眺めて心が沈む人は少ないだろう。山の樹々が若葉をつけ、薄緑色の化粧をした中に、一層の白さを示すのは、ヤマザクラなのだろうか。この季節だけ、その存在を誇示するようにさえ見える。深い緑を見せる山の姿も良いものだろうが、この時期の緑の濃淡がくっきりと見える姿も良い。変化を楽しむ人々には、こんな光景は有り難いものに映るのだろうが、さて、それを望まぬ人々には、どんな具合に見えるのだろうか。また新しいことが始まり、それに振り回される季節が来た、とでも思うのだろうか。この辺りのことは、そんな気持ちになったことの無い人間には、全く理解できないものだが、所謂病いの兆候として、この時期に現れるものに対しては、周囲の人間を気遣うことも含めて、考えさせられる部分は大きい。楽しいものを楽しめない、といった感覚も、そこに陥った人々には当然なのだろうが、外の人間には理解不能である。ただ、気遣うといっても、それにばかり心を奪われていたのでは、何事も前に進まない。ある程度の配慮は必要だとしても、全ての神経を向けてしまったのでは、車の運転と同じように、大事故を起こしかねないので、注意しなくては。
花の便りを始め、自然の営みは春を知らせるものとなる。明るい季節という見方もあるが、一方では、大きな変化から不安定を招くとの見方もある。ただでさえ、受け取り方次第で大きく変わるのに、それに被さる形で起きたことから、国中が何だかおかしな調子になっている。楽しんでいけないとは何故か。
自粛という言葉で括られる行為に、どんな意味が込められているのか、すぐには理解できない。人それぞれの解釈で、人それぞれの行動が抑制されているのだろうが、果たしてそれにどんな意味があるのか。発散したい時に、抑え込むことが良くないと、一部には、そんな見方がある。ただ、それがどの程度当てはまるのか、また、一時の思いだけでの行動が、後々別の形で影響を与えるのではないか、といった考え方もあり、一概に言い切れない部分は多い。ただ、一つ気になることがあるとすれば、横並びを優先する考えがある場合で、他がそうだからとか、自分だけだと不安だからといった意見があることだろう。自分の楽しみが他への迷惑になるとすれば、それは控えるべき行動と思うが、花見にせよ、祭りにせよ、楽しむ人々がいる一方で、それを嫌う人々もいる。派手に振る舞うほど、そんな状況は強まるばかりだろう。普段ならそんな空気の中でも、いつものことと実施するのが当たり前で、人それぞれの楽しみとされる。それが良いとか悪いとか、そんな所で論じてみても仕方ない。皆がそれぞれに判断しているとも言え、それは各自の判断基準によるとなるだろう。決して、皆が同じでなければ、というわけではない。折角の季節、他がどうだからというのでなく、それぞれに花などを楽しめば良い。
非難することは簡単そうに見える。皆がやることを真似るだけで良く、悪いとか駄目だとか、そんな言葉を繰り返すだけで良い。何処が駄目かを指摘することも、よく考えると難しくはない。どんな行為にも完璧は無く、どんな計画にも万全は無い。欠点を見つけるのは、何の造作も無いことに違いないのだ。
では、評価することに関してはどうだろう。それぞれの良い点を見出し、欠点との比較において、高い評価を与えることも、たとえ欠陥はあろうとも、それに目をつぶって評価することも、簡単なように見えて、実はとても難しいことのように思う。特に、皆が挙って罵声を浴びせ、悪い所ばかりを強調する時、それに逆らうかの如く、正しい評価を下すことは、難しいだけでなく、別の感覚が必要となる。褒められて育った人々が、何故に他人を褒めないのか、不思議に思う所があるが、それが安易な道となれば、判らぬ訳でもない。だが、本当に安易だからというだけで、そんな道を歩んで良いのだろうか。震災からの復興対策にせよ、事故への対応にせよ、これ程までに批判されるのは、何故だろう。特に、後者においては、待ったなしの対応が必要となり、後からならば何でも言えることでも、その場で決断しなければならなくなった時、批判を浴びせる人々のどれほどが、それなりの思慮と洞察をもって、それを推し進めることができただろう。事故への対応だけでなく、避難の指示、出荷制限など、様々な事柄に適切と思われる判断を下す。欠陥を指摘する人々は、後付けの論理を展開しながら、最良の選択を示しているつもりだろう。だが、その場で得られる情報の範囲で、どの判断が適切だったかは、後での議論とは明らかに異なる状況にある。究極などと言われる場面でも、何かしらの結論を出さねばならぬ時、彼らの判断は全く間違っていたのだろうか。この程度で済んだ、と後で言われるにしても、今でも十分に評価できる点は沢山あるのではないか。
聴衆を前に思うことは何か。ごく一般的な考えから見れば、話を聴いてもらう、あるいは、聞かせる話をする、といったことになるのだろう。街頭演説のように、過ぎ去る人々の注意を引くことは、かなり難しいと言われ、その気の無い人々に聞く気を起こさせるには、全く別の力が必要になるだろう。
こんなことに悩んできた人が、何故他人の話を大人しく聞こうとしないのか、随分前から気になってきた。選ばれし者共が、他人の話を聞くより、下品な野次を飛ばす姿には、人間性も何もあったものではない。人として扱う必然性より、邪魔として追い出すことの方が、優先されるのではとも思う。互いの話が下らないから、という論理がよく使われるが、これとても、肝心な情報を手に入れる機会を、自ら放棄している訳で、目的も何も無いことに繋がる。それに輪をかけた状態は、参考人招致なる手続きを踏んでの場面にあり、わざわざ呼びつけておいて、本人の話に被せるような妄言には、そこにいる資格が無いとしか思えない。毎度思うことだが、情報公開にはこんなに下らないものもあり、馬鹿げた行動を繰り返す人間が誰なのかを、皆に知らせることも重要なのではないか。価値の無い人間の、無軌道な行動を放置することは、何ら意味を持たないことであり、それこそ無駄と言うべきものだろう。話を聞きたくないのに呼びつけたとしたら、時間を割いてまでやってきた人間にとって、どんな意味があると言うのか。弱い立場にある為に、そんな連中に苦言を呈することは難しいとの声もあろうが、毅然とした態度を取るのは、本人の問題であろう。強弱や勝ち負けでしかものを見られない人々が、こんな所にも蔓延っているのは、社会の問題に違いない。
情報の公開を訴える声は、静まる気配を見せない。理解不能な状態が続くから、この状況は容易に理解できるが、問題は本当に情報の量と質にあるのだろうか。以前も触れたことだが、大量の数値をそのまま流すことが、無意味であることはそろそろ明らかになっただろう。情報公開の問題は、そこには無いのだから。
それでも訴える声とそれを取り上げる姿勢に変化は無く、更なる数値の洪水に巻き込まれるばかりとなる。天災の波を何とか乗り越えた人々も、人災とも言える波にのまれ,浮かび上がることが難しい。しかし、的外れな思考が続いた結果、軌道修正ができないままに、同じ訴えを続けるしか道がないようだ。真の問題は、生の情報にあるのではなく、それを理解可能な形に加工する部分にある。特に、思惑を中心とした、極端な解釈や恐怖を煽る筋立てが、巷に溢れている現状は、受け手にとっては最悪の状態と言える。安心に繋がる情報を欲する人々に、更なる不安を煽る話を聞かせることに、どれほどの意味があるのか。その発信源の意図は、通常の思考力では理解できない。損得勘定で動くと言っても、何の利益があるのかが見えず、狂気の沙汰とも思えるからだ。公の機関が流した情報に関しても、それが全く意図の無いものでないことは明らかだが、更なる加工を施すとなると、首を傾げざるを得ない。線量の積算値を示す数値についても、時間当たりでは計算を要するだけに、その手間を省いただけのことだが、そこには、放出量の減少による、予想値の変更が込められている。その説明は数値そのものには付かないだけに、改めて加える必要が出てくるのだ。もう一つ、同様に公開された数値に、地面と1mの高さの数値を併記し、比率を表示するものがあるが、これもその手続きの必要性の説明が無い。少し考えれば判ることとは言え、説明の必要性こそが強調されるべきなのでは。
そんなに分かり易いのか、と質したくなる。災害復興の話も、財源確保の話も、あれほど焦点を結ばぬ内容に終始し、大局も何も、場当たり的な対応さえ編み出せぬ人々が、突然、政局なる言葉が登壇した途端に、生き生きとしてくる。場違いとも思える話題に、首を傾げるばかりだが、我が意を得たりとの顔は生気を取り戻した。
自らの理解力、思考力の大いなる不足は、兎にも角にも棚にあげたいとの心境か、黙りを決め込んでいた人々が、重い腰を上げ始めた。国を挙げて復興を目指すという言葉には、どんな意味が込められたのか判断に苦しむが、彼らにとっては、何よりも権力者の話題が最優先なのだろう。個々の勝ち負けを議論する報道機関の姿勢には、虫酸が走るのみだが、それに乗る形で発言を取り上げて貰おうと躍起になる人々には、消えてしまえとまで言いたくなる。機械であれば不良品として廃棄できるのに、という思いは行き過ぎとしても、そんな連中が有事には役に立たず、こんなときだけ活躍するのでは、人数を減らす案に賛成する人が増えるに違いない。だが、数が多過ぎることだけが原因なのか。本当で、もっと深い問題は、こんな劣悪な人々が、表舞台で我が物顔に無礼を働くことにあり、その原因を作ったのは、画面のこちら側で、ぶつぶつ文句を言うだけの人々なのである。批判や文句を取り上げる姿勢が悪いと言っても、それを真似るかどうかは個人の判断である。こんな行動に出る人々は、まともな判断ができる筈は無く、結果として、単なる人気取りや嘘吐きに心を奪われる。そんな人々が愚民となって、今の状況が築き上げられた、と言うのでは、あまりにも卑怯かも知れないが、そんな気がするほど現状は窮している。自分たちの荷担に思いを及ばせるべきだろう。
諸葛菜とか、紫花菜とか呼ばれるようだが、はじめの名はオオアラセイトウだったらしい。と言っても、外来種であり、入ってきたのは名付けられたのより、半世紀ほど前だったようだから、それまでは又違った名で呼ばれていたのかも知れない。これらの名前を聞いたことの無い人も、その姿は見たことがあるのでは。
外来種については、これまでも度々取り上げてきたが、在来種の危機という表現で、話題となることが多い。だが、その変遷に関しては様々であり、人の手を介して侵入するにしても、栽培種として意図的に導入されたものが、広がっていった例もあれば、輸入された木材などに付着する形で、偶然入ってきたものもある。この植物に限って言えば、花を楽しむ為に採り入れられたのだろうが、それが野生化したということだろう。不思議なのは、そんなに前に入ってきたものが、ごく最近になって、野原に良く見かけられるようになったことで、その因果関係がどうなっているのかは、全く判らない。ただ、植物の繁茂衰退の推移は、かなり複雑な要素が絡むようだから、何やら肝心な要素が、最近になって急激に変化したということだろう。環境の変化という表現で、様々なことが言い表されるものの、実態は全く未知のままということは多く、この例についても、何かあるのに違いない。それにしても、何が在来で、何が外来か、どう区別をつけるのだろうか。外から入ってこようが、内にいようが、楽しめればそれで良い、という人々にとっては、全く無関心だろう。ただ、最近の多様性への考え方からすれば、人間たちの力が働くことは、環境を乱すだけとなり、騒動の対象となる。