早朝に鳥の声がうるさい、渡りをするオナガだろうか。何故か、朝方に喧嘩のような声が聞こえる。少し時間が経つと、今度はこの辺りに居着いているカラスの声がした。こちらは、人間の営みにあわせ、その勢いを増している。被災地ではどんなことになっているのか、ふと、そんなことを考えてしまった。
都会では、ゴミ出しの朝、黒い姿が良く見かけられる。飽食の時代の始まりとともに、都会に集まる姿が目立つようになったが、その傍若無人ぶりから嫌われ者になりつつある。賢いとする向きもあるようだが、そんな人間的な見方を動物たちに適用して、どれほどの意味があるのか、とも思う。艶のある羽は、その栄養状態の良さを物語り、人間たちが食べ残したものを漁ることから、その状況は容易に想像できる。だが、人間世界では脂肪の過剰摂取が問題となり、腹回りを気にする人が増えている。そのおこぼれをいただく連中に、そんな症状が現れないのか、と思うけれども、本当のところはどうなのだろう。野生の動物たちが、人間の影響を強く受け始めたのは、プラスチックのゴミを食べて死んだ動物が見つかった頃からか。実際には、公害が話題となった頃には、既に、動物たちにも悪影響が及んでいた。有害な物質は、人間だけでなく、動植物にも影響を与える。同じように考えれば、栄養素として必要なものでも、過剰に摂取すれば問題となるだろう。肥満体が増えるだけでなく、循環器系統への悪影響など、様々な問題を生じる。野生動物とは言え、これ程人間の生活に依存する生き物たちは、そんな影響を強く受けるのではないか。そのうち、飛行中に発作を起こし、堕ちてしまうカラスが出てくるのだろうか。
自粛という判断や行為の不思議さをどう思うだろうか。自らの判断が不可欠な筈が、横並びに論じられることに、関係する人々は違和感を抱かないのか。外から見る限り、何ら根拠無く、単なる思いつきが並んでいるだけに思える。個人の思いつきが、何故、いつの間に、横並びになってしまうのか、不思議に思う。
一人一人の判断を尊重するだけ、という考え方は、この場合にも当然適用されるだろう。だが、「金」という冠を付けられるほど、皆が挙って楽しむ時期を前に、このような話が出てきたことに、危機感を抱く人は沢山いただろう。観光地と呼ばれる地域では、この時期にかなりの収益を上げることが知られている。もし、自粛の名の下に、移動が止まってしまっては、大変なことになる。既に、以前からこの問題が表面化し、被災地域以外の場所においても、予約の取り消しが殺到したとされる。この時点で、予想できたこととは言え、このような展開に対する策は容易には見出せない。そのような状況で、依然として続く自粛の合唱に、付け焼き刃的に出された対応の多くは、無料とか、値下げとか、特別価格とか、そんな類いのものだった。結果、客の戻りはある程度あったとある。この話に、再び違和感を抱くのは、おかしなことだろうか。市場原理なるものからすれば、価格は需要と供給の均衡から導き出されるとある。需要が無くなれば、価格が落ち続けるのもやむを得ない、となるのだろう。だから、その結果として需要が回復するのも、当然ということにされる。これが正しいとする向きもあろうが、やはり解せない部分が大きい。回復は何故起きたのか、市場とはこんなに杜撰な仕組みで成立するものなのか。そして、この話全体に、何故という疑問符が数限りなく付けられそうだ。
若い世代は、突然の出来事をきっかけに、自立を促されたと感じるらしい。変化を望まぬ声が強い中で、一変した光景に抗う力は無いように思えたが、現実にはそれぞれに変化を始めているようだ。将来を考えれば明るい話題なのだが、その一方で、依存体質を露呈する人々がいることに、晴れ間が広がるとはいかないようだ。
様々な圧力にさらされ、守りに入るのも止むなしという状況なのだろう。何処か別の所に責任を回そうとするのも、そんな中での出来事に過ぎないだろうが、自分たちができることを始めようとする若者たちに比べ、何とも頼りない存在に見えてくる。頼み事をするのが役目とでも思っているのか、それとも、自分たちが決められることは無いとでも思っているのか、よく判らないけれども、末端にいるならまだしも、何処かで中間的な役割を負っているだけに、ただ単に頼むだけでは、何事も始まらないこととなる。制度や規則も、こういった上下関係に縛られるものが多く、要望に応えようとしても、難しくなる場合が多い。そんな中で、色々と手立てを尽くそうとしたのかも知れないが、制度を決める立場にもある人たちには、自らそれを破ることもできない。抜け道を様々にめぐらせても、所詮応急手当にしかならず、すぐに限界が見え始める。いつものように、一つ一つ段階的に進めようとすること自体に、問題があるように見えるのだが、それ以外に方法が見出せなければ、動きがとれないということだろう。できることから始めるという姿勢はとれないのかも知れないが、型にはめるばかりでは無理がある。折角、変化の兆しが見え始めた人々に対して、こんな状況が蓋をするようになっては、先が見えなくなる。せめて、自ら動き出した人々に、枷をはめることが無いように願うのみだ。
怒りがおさまらないのだろうか。どんな相手にでも、怒りや不満をぶつける。責任ある立場であれば、更にその勢いは増し、留まる所を知らないように見える。外から見るとこんなものかと思うが、当事者達にとってはどんな風に映るのか。集団心理の難しさはここにも現れ、盛り上がるばかりとなる。
建設的な話し合いが第一という意見がある一方で、感情的で一方的な話をする人々が居る。個人の範囲で考えれば、後者を選択するのもやむを得ないのだろう。だが、個人の営みを衆人の目にさらす必要は、何処まであるのだろうか。興奮を抑えきれず、叫びに近い怒声を浴びせる人たちは、それによって何かが解消されるのかもしれない。しかし、何度も繰り返し流される映像に、それを眺める人には何を感じろと言うのだろう。一緒になって叫ぶことや、不平や文句を並べるだけで、建設的な話し合いを拒否することが、この時点で必要なのだろうか。どうも、きれいごとを並べ立てる人々は、こういった矛盾にも気づかず、ただ思いつきを発するのみに思える。困っていることも、悩んでいることも、落ち着きの中から発せれば、随分違ったものに見えるだろうし、相手への伝わり方も格段に違う。怒りが必要な場面も当然あるだろうが、それだけが前面に押し出され、肝心要の計画が前に進まないのでは、却って邪魔をするだけとならないか。一時の混乱状態の中で、考えがまとまらなかった人々も、自らの責任を棚上げにすることで、怒りを露にすることができる。感情に走ることの安易は、その後の展開への悪影響から、うっかり選んではいけないと思うが、本人の中では別の心理が働くのだろう。こんな姿をさらすことの、大いなる間違いに気づいたとしても、記録された姿を消し去ることはできない。そんなものを情報と呼ぶ人がいたら、驚くしかないのだが。
町中を走っていると、老人や介護に関する施設が増えているように感じる。少子高齢化の現れという解釈もあり得るが、高齢化そのものが急増の原因かどうか、判断に苦しむ。以前から話題になっていたように、核家族という括りが一般的となり、親の面倒を見る習慣が減ったことも関係するだろう。
それにしても、この増え方は異常ではないか。社会制度の変化が招いた結果との見方もあるが、それを加えたとしても、これほどまでの数が必要なのか、理解できない部分が多い。家族の助けを必要としない形での自立が、ある時点で破綻を来たし、誰かの世話になる必要が出てきたとしても、家族という選択肢は排除される。そんな背景から起きたこととも言えるだろうし、もう一つには、この手の施設の使い勝手というか、そんな事情にも大きな変化が起きたように思う。以前ならば、かなりの高額を始めに納めた上で、毎月の使用料を払う必要があるから、かなりの資金を要したが、最近の仕組みは、その辺りの部分でかなり違ったものになっているらしい。それらの点は、利用者の拡大が大きく関係するのだろうが、それにしても、そんな変更が可能となるには、何か別の要因があるとしか思えない。詳しいことは判らないが、社会の仕組みの中でその存在が大きくなるにつれ、知らぬふりを続けることも難しい。特に、自分の年齢がそちらの方に近づくこととなれば、いつかは自らに直接関係することになる。そんなことを考えるにつけ、この状態は今後どのように変貌するのか、気にならないと言ったら嘘になる。どちらにしても、この調子で増え続けることには無理があり、いつか頂点に達し、そこから下り坂に移るのだろうが、その頃には、どんなことになっているのやら。
そろそろ万策尽きたといった感じだろうか。これは窮地に追い込まれたという意味ではなく、単に、思いつく限りのことを並べた挙げ句、次の案が浮かばなくなったという意味で、である。情報不足を嘆き、場当たり的対策を憂い、将来への不安を募らせたけれど、そこから生まれたものは殆ど無いように見える。
多くの批判は、それを受けた人々によって消化されて初めて役に立つ。しかし、矢鱈に並べるだけで、思慮が欠けたものでは、その効果は期待できない。先々の心配をするのは当然のことだが、それを解決する為の手立てが浮かばないと、ただ叫んでいるだけのことにしかならない。こういった反論が役に立たないことも承知しているが、一方的な要望や偏った応援などを見るにつけ、この国が進むべき道は、定かではなくなるように思う。結局、こういう形で戯れ言を繰り返すのを眺めても、何の解決も得られないことは、一部では明白になっており、ただ放置しているだけのことかもしれぬ。それが良いか悪いか、それに接する人々にとっては、精神力を試されているということではないか。常に、目の前のことを片付けるのに精一杯であれば、他に耳を貸す余裕もない。そんな状況にある人々が、この国を支えているのだとしたら、こんな事態を眺めて心配する必要はないだろう。なんだかんだと言っても、こんな中から解決の方法を見出し、一つ一つだが、着実に整理して行くことこそが、こんな時に必要なことなのだろう。たとえ、それらの人々が、大きく取り上げられることもなく、目立たぬ存在だったとしても、彼らにとっては、何も変わらぬのだろうから。
何事も楽観的に観る人と、悲観的に観る人、どちらが得になるのかを論じても始まらない。不安の要素については以前も取り上げたことだが、本来身に付いたことのように思える。それに対して、楽観や悲観は、不安とは異なる次元で扱われ、人それぞれの行動様式を定めるものとなる。
災害時の行動には、そんな要素が強く影響する場合がある。それは確かなのだろうが、その場でどのような行動をとるかは、なってみないと判らないものだろう。津波が来るかもしれないという心配に対し、自分のことではなく、家族や他人のことに思いを至らすのも、それぞれの判断から来る。これに良し悪しを結びつけても仕方のないことだが、教育の場で、まずは自分のことを最優先に、と教えていた話を聞くと、なるほどと思う。人を助ける立場にある人は別として、子供を含む殆どの人にとっては、まず自分のことを考える癖を付けておかないと、咄嗟の行動ができないだろう。時にこれは、人を押しのけることに繋がるようだが、全体に同じ考えが浸透していれば、また違って来るのではないだろうか。考える猶予が与えられず、多くの選択肢に悩むよりも、その場での選択を唯一のものとしておけば、余計なことを考えずにすむ。楽観とか悲観とか、そんな見方の違いが入り込むのも、そこに時間的余裕があるか、あるいは、多数の選択肢での迷いがあるからだろう。その場での判断が必要なとき、あらかじめ決めておけば悩む必要もない。但し、それが間違ったものだった場合、結果は悲惨なものとなる。考えておけば、とは簡単そうに見えて、その実態が判らない場合、困難を極めることにもなる。後からならば、なんとでも言えることでも。