パンチの独り言

(2011年5月9日〜5月15日)
(冷静、責任転嫁、立案、給餌、保証、色彩、実体験)



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5月15日(日)−実体験

 映像が流される度に、むずむずしてくる。被災地の復興の様子を伝える映像には、既に立ち直りの態勢ができつつあることが見える。自粛やら、不安やら、色々な言葉が飛び交う中で、労働以外にできることと言えば、その場に出かけ、現実を目の当たりにしながら、現地のものを買うことぐらいしか思いつかない。
 悲惨な場面が目の前に現れた、あの直後から、こんなことを思い描きながら、しかし、まだ実現するには至っていない。何だ口先だけか、と実現するまでは、言われてしまう。それは仕方の無いことだし、それを悪いこととは思わない。ただ、目の前に現れる光景に、何度もそんな気持ちが起きるだけのことだ。時間ができれば、近い所から順に出かけてみたい。そんな思いを抱きながら、毎週末を過ごす。何やらよく判らないが、どうにも時間の工面ができないだけのこと。もう暫くの辛抱と思うことにしている。風評被害など、様々な問題が一部の被災地には降り掛かっている。そんなことも、現状からすれば、遠くからでは何もできない。その地に出向き、実際にものを見てこそ、できることが出てくるだろう。出かける前でも、この程度の考えはまとまるが、さて、現実を目にして、同じことが言えるか、それは判らない。やってみることの重要性を論じる人もいるが、やはり、やってみなければ判らないことばかりと思う。やるぞやるぞと掛け声ばかりに終わってしまうかも知れないが、今の所、その気は失われていない。後少し、なのだと思うのだが。

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5月14日(土)−色彩

 春の訪れを告げる花々が咲き、気温の上昇に従って、次々に姿を現してくる。前線の北上も、人間社会の混乱には目もくれず、例年通りに進んだ。そろそろ初夏とも思える気候となり、棚から下がる花々や水辺に咲く花々の話題へと移りつつある。少し不安定な部分もあるが、季節の移ろいはいつもと同じままのようだ。
 人間の手が入った所では、棚からぶら下がる花も、新緑の山を眺めてみると、樹々に絡んだ蔓からぶら下がる姿が見える。これもこの時期に限ったものであり、緑の背景に薄紫の色が映えている。意外な数に驚かされるが、人の世話にならずとも、これらの植物は生き抜いていけるようだ。一方、観賞の対象として、公園などで棚が設けられており、その楽しみも中々のものだろう。この時期、沼のような水辺にすくっと立つ植物にも、色とりどりの花が付くようになる。ハナショウブ、アヤメ、カキツバタと呼び名だけが違っているように思うが、違う植物として分類されている。漢字で書くと、花菖蒲、菖蒲、杜若となり、更に区別がつかないように感じられる。最近は、水辺でない所や庭に、同じような花を見かけることがあり、何だろうと思うことがある。こちらは、ジャーマンアイリスと呼ばれ、欧州から入ってきた園芸種とのことだ。水辺にあるのが普通と考える人々には、乾燥地に生えているのを見るのは不思議にしか思えないが、そういう性質なのだそうで、庭や鉢植えという形で育てられることが、その範囲を広げる一番の要因となったようだ。人為的に品種改良されたのは、在来種と同様だろうが、様々な色を示す姿に人気が集まる。病気に強い部分も栽培を容易にし、繁殖力の強さはそれぞれの庭での数の増え方から容易に想像がつく。いずれにしても、緑だけでなく、様々な色を楽しめる季節になってきた。

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5月13日(金)−保証

 補償は、される立場にとっては、すぐにして欲しいものだろうし、十分な額であることも必要だろう。だが、する立場にとっては、別の要素が関わってくる。その正当性や妥当性に関して、何の指標も無く決めることは、あってはならないことだろうし、その一方で、一時的な措置の準備を進めねばならない。
 当事者間の議論は、多くの場合、平行線を辿り、解決の糸口さえ見出せない。その為、仲介役が立つことになり、客観的な見解を含め、基本となる線を引く作業に携わる。それですぐに解決するのであれば良いが、大体の場合、双方の要求を聞くだけでは結論に至らず、その中で、妥協という考え方を促す必要が出てくる。裁判沙汰になってしまうようなことでも、判決という決断ではなく、和解という道筋を辿る場合が多いのも、単純に白黒付けることより、互いの利害を見渡した上で、妥協点を見出すことが重要と見られているからだろう。今は、こんなことを論じている場合でなく、すぐに必要な手当と、今後の展開への見通しを示す必要がある。だが、総額で考えれば、可能かどうかの検討から始めなければならず、多くの要素を見渡すことが欠かせない。ところが、現状はどのようなことになっているのだろう。一人一人の問題を検証することは、ある部分必要とも思えるが、横並びでの処理となれば、そこに言及する必要は感じられない。もし、その必要性があれば、将来の検討項目に入れるという形で、先送りするしか無いだろう。一方、今早速に必要となるものに付いては、額の妥当性が検討されるにせよ、ある程度の額を補償するしか無い。その後で、残りの分をという形になるが、そこに関しては、少し長い時間が必要となるだろう。方針の決定は素早く、その上で、検討をしっかりととするしか、こんな事態での対応はあり得ないように見える。

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5月12日(木)−給餌

 直後の混乱において、様々な解説を施した情報提供に、好感を抱いた人が多いと思う。ただ、その一方で、冷静な解説よりも、自らの感情に寄り添うような行為を望んだ人も多いだろう。大丈夫という一言が、何よりも大切との意見もあるが、根拠も無しにそれを言われたのでは、やがて疑惑が膨らむことになる。
 説明の重要性が強調される度に、その意味を考えることになる。日々の生活を送る上で、殆どの専門的知識は不要であり、ただ単に、浮き沈みの無い生活を送れれば良いとなる。便利な機械や仕組みを利用することは、楽とか愉しみといった感覚から、当然の権利と受け取られるが、それがどのように実現されたのかは、興味の対象とはならない。利用する為に必要な最低限の知識以外は、不要なものとして捨て去られるのが、当たり前のことだったのだ。だが、何かが起きると、そんな態度はとれなくなる。理解できないことも、知識を持ち合わせていないことも、全く無視される形で、情報の氾濫が押し寄せることになる。受け手にとって、意味不明とも思える情報が、次々に流されたとき、その情報の意味する所を理解し、要点をつかめたら、それほど有り難いことは無い。そんな状況が続いていたとき、その情報から推測される展開に関して、各自が判断を下すことができた。ところが、手間暇かけて説明したとしても、正誤などの判断しか気にしない人間には、伝わる所は殆ど無く、無駄との批判が出始めた。理解の上での判断より、ただ単に賛否を論じた方が、遥かに無駄が少なく、誰もが参加できる為に、再びそんな状況に戻ったようだ。ただ、説明の必要性が無くなった訳ではないので、こんな時、情報発信者に、全ての手間を押し付けることとなる。これでは、口を開けて待つ雛鳥であり、何の責任も無い状態ではないか。

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5月11日(水)−立案

 対応や対処に追われただけの頃から、少し落ち着きを取り戻し、今この時だけでなく、これから先のことを考える余裕が出てきたようだ。それはそれで悪いことではないのだが、その途端に、計画という言葉を振りかざすのには、強い反発を感じる。所詮他人事としか感じない人からの発言となれば、一層に、だ。
 次々に起こる変化や、明らかになる事実に対して、最善の策を講じることは、皆が思っているほど簡単ではない。そこへの理解は、こういった状況で最も重要な要素の一つだが、自分のことしか考えられない人々には、その余裕さえ感じられない。選択を迫られた時に、どんな心境に陥るかは、経験した人にしか判らないし、現時点では、未経験者ばかりが当たっていることにしかならない。そんな中で、理解を示したり、建設的な意見を出すことは、誰にでもできることである筈だが、現実には、全く逆方向の反応ばかりに注目が集まる。平時でも、十分な情報を収集し、十分な議論を重ねた上で、綿密な計画が練られる訳だが、少し落ち着きを取り戻したとは言え、情報や議論の不足は否めない。その中で、批判的なことばかりが取り上げられ、個人的な要求ばかりに注目することは、何の役にも立たないばかりか、まともな進め方を妨げるものにしかならない。一見、弱者保護を優先し、人類愛に結びつくように見える動きも、後になって検証すれば、偏りだけが目立つばかりで、結果的には、一部のみを取り上げる姿勢でしかなかった、ということになる。様々なことを、色々な見地から取り上げることの重要性を否定しても、意味が無いことは確かだろうが、一方で、全体を考えること無く、個々の事例を追いかけることは、計画の構築において、無駄となることも多い。対処と計画が全く違ったものであることに、気付かぬままに訴えるだけでは、事を難しくするだけではないか。

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5月10日(火)−責任転嫁

 政治に対する期待は無かった、と言ってよいと思う。勢力争いやちっぽけな戦いなど、本人たちの熱心さが、庶民の日々の生活には、何の影響も及ぼさないことが明白だからだ。だが、あれ以降の展開を見ると、期待が大きく膨らむには至らぬまでも、何か重大な決断が行われていることが見えてくる。
 そんな思いを抱きながら、成り行きを眺めてみると、そこに二極化が起きているような気もする。責任ある立場を意識し、選択や決断を繰り返す人々は、これまでに無い感覚を持ち始めているのではないか。政治の面白さはこんな所にあるのだ、ということを改めて感じているように見えるが、一方で、以前と変わらぬ態度を取り続け、下らぬ人間性を暴露する人々も、依然として存在する。責任を回避することに躍起となり、上に向かって責任を問う発言を繰り返す。下の人間に対してそんな行為に及べば、糾弾されることは間違いないだろうが、上に向かっての行為は、どういう訳か大目に見られるようだ。だが、首長などの施政者は、それぞれの立場で、誰かの代表者であることは間違いなく、その責任を果たす必要がある。情報が欲しいとか、説明が足りないと、文句や注文を並べるのも、代表者としての役割には違いないが、待つだけの姿勢では、代表者としての説明責任は果たせない。無能ぶりを発揮すると言われれば、少しは態度が変わるのかも知れないが、上に向かって言ってやったとばかり、胸を張るような態度には、自らの無能を意識する気持ちは微塵も無い。馬鹿と言ってしまえばそれまでだが、これ程までに能力の無い人間が、活躍できる場が政治という世界なのだと、何とも下らないことが確認できた。だが、首長を選ぶのが直接的だとすれば、その責任は誰にあるのか。選ぶだけでなく、こんな時に苦言を呈するのも、責任の一つと言えるのではないか。

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5月9日(月)−冷静

 あれから二ヶ月が経とうとしている。ある意味での落ち着きを取り戻しつつある中で、記録を見直す作業が各所で行われているが、その時、その場での行動に、あの時とは違う感覚を抱く人も多いだろう。興奮状態と言えばその通りだろうが、冷静さを欠く言動や行動に、何故と思うことが多くなる。
 次々に流されていた頃と異なり、少し落ち着いてきた時期には、ある思惑をもった編集が施される。それに救われる人もいるだろうが、逆に、異様な行動が際立つ結果となり、人間が窮地に陥った時の行動が、ある意味、極端に走ることが見えてくる。こんな行動を示した人々を批判することも、一つの方法には違いないが、それが次の展開に繋がることは殆ど期待できない。批判することに終始する人々が、窮地に陥ると同様の行動を示すことが、今回のことでよく判った筈だからだ。それより、こんなに劣悪で、先が見えない中でも、冷静で、先を見ようとする行動様式をとった人々に、もっと注目する必要があるのではないか。日々の生活に追われる人々や、不安に苛まれる人々と、このような落ち着きを見せる人々との違いは、何処から出てくるのか。心理学が役に立つとは思えず、それより、一人一人の考え方を見直すきっかけにでもなれば、余程経験を築く為となる。記録の意味は、様々あるのは判っているけれども、そこに劇的なものを求めるだけでなく、そこから何を学び取るかが、最も重要な事柄のように思える。毎回、こんなことが起きる度に思うのだが、喉元過ぎれば、といった行動を繰り返す人々に、目を向けることを止めるべきであり、人それぞれに、その立場からできることをやる、といった行動にこそ、もっと目を向けるべきだろう。

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