パンチの独り言

(2011年5月16日〜5月22日)
(暗愚、検証、付加、付言、経験、野生、利他)



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5月22日(日)−利他

 被害に遭った人々が画面に現れる。それぞれの困り事を並べ、望みを打ち明ける。弱い立場にある人に手を差し伸べようとする動きには、現状把握は最も重要なことと扱われ、こういった情報は貴重なものと見なされる。しかし、画面は生のものでなく、編集で省かれた事例は、無かったものとして扱われる。
 何かことが起こる度に、映像という情報伝達手法の力を、実感させられる。そこに示された姿は、何の飾りも付けられず、現実のものと受け取られる。これに間違いはないものの、それだけが事実かと問われれば、否と答えるしかない。個々の実情や望みを、どのように取り上げるのか。それぞれの地域や組織で、大きな問題となりつつあるが、解決法は見出せない。法律や規則による縛りが、全ての原因のように扱われても、個別の事例の全てに応えることの難しさは、そんな簡単なものには思えない。小さな集団が集まり、更に大きな集団へと移るとき、それぞれの要望に応えることは、難しさを増すばかりとなる。号令一下、何事も命令通りに動かせるものならいいが、個別を優先する時代には、組織を優先する考え方は排除される。賛否両論である筈が、どうにもならぬ程に、偏った傾向を見せられると、実態はどうなっているのかと思わされる。ただ、こんなことに思いを馳せるのは、ほんの一部の例外であり、殆どの人は、映されている人々の悩みが全てと思わされているのではないか。組織の悩みは、それとは異なり、個々に応えたくとも、できぬ所にありそうだ。我慢という言葉を、彼らに差し出すことは控えられているが、個人と組織の対比が問題となったとき、皆の為が自分の為に繋がることに思いを馳せる必要も出てくる。一時の我慢が、明るい未来に繋がれば、それで良しとする考えも、あり得るのではないか。

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5月21日(土)−野生

 春を告げると言われる鳥は、その声の美しさに比べ、姿は目立たぬと聞く。本物を見かけたことはなく、声を楽しむしかない。ところが、そろそろ初夏になろうとする頃、再び例の鳴き声が聞こえ始めた。おやと思うが、始めの話は町中でのことであり、山が迫っているこの辺りでは、そんなものかも知れない。
 そう言えば、真夏に山歩きを楽しんでいると、春の声が聞こえ始めることがあり、町中で春先しか声が聞こえないのは、彼らがその後山に移り棲んでいるのだ、と気がついたことがある。渡りを繰り返す鳥たちは、季節ごとに棲息場所を変え、その時その時の最適の場所を探し回る。遠く、南の方から渡ってくる鳥も、桜の咲く頃には、早くもその声を聞かせ始めていた。チュルチュルとでも表現するのだろうか、その声が上から聞こえ始めたとき、又その季節が来たのか、と思う人が多いだろう。自然の中での巣作りではなく、人間の生活と密接に結びついた巣作りでは、生活形態が変わるにつれ、困難が増すばかりとなっている。それでも、毎年やってくる鳥たちは、前年の場所とは違う所を見つけ、子育てに入り始めるのだろう。野生だからといって、人工のものと無関係であるとは限らず、こんな調子で本能に基づく行動を維持し続けるのだろうか。人間たちは、自分の苦労を殊更取り上げ、そこにしか思いが及ばないようだが、彼らを発端とする身勝手な変化は、連鎖的に影響を広げ続ける。保護とか、そんなことを言う前に、別のことを考えるべきとの指摘もあるが、自己中心的な考えが改まる気配は見えない。人為的な事故との指摘も、自然との関わりではなく、自分たちの被害との結びつきしか感じられない。まあ、そんな動物が、この星を占拠し続けるということなのだろう。

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5月20日(金)−経験

 批判が安易な道であることは、何度も書いた。特に、根拠のない憶測や不安に基づくものは、科学的でも論理的でもないものが多く、考え抜いた末のものとは思えない。そんな中で、言い知れぬ不安から解消された、という話が流されると、どんな根拠が心に響いたのかと興味を抱く。多くは他愛のないものなのだが。
 先日も、史上最悪の事故の現場近くで育った人の訪問を受け、その人が健康で生きていることが安心に繋がった、とする話が流れていた。この話、成る程と思う人もいるのだろうが、何故と思う人もいる。唯一の被爆国として、放射能の危険性を説き続けてきた国の人々が、何故今更、そのような人の訪問に感謝するのか、ということだ。放射線の問題は、確実性の部分にあり、人それぞれで反応が異なることにある。だが、同じように危険性を指摘される事柄でも、確実の二文字が付けられることはなく、可能性の表示に留まっている。健康被害の発生についても、ごく最近の発表では、受動喫煙と同程度とあったから、その程度かと思った人もいるだろう。見えないものへの恐怖とは、心から発せられるものであり、心が抑え込むしかないものだ。感謝の問題については、被爆の被害を病気の発症に絞り込み、その一方で、低線量では殆ど健康的に過ごした人がいることを、ある意味、無視し続けた結果であることに、目を向けるべきではないか。戦後の差別に苦しめられた話を、今回のものと並べることも、重要な見方には違いないが、科学的な根拠という意味では、戦後住み着いた人々の経緯を、改めて見直すことこそ、経験を真の意味で生かすことに繋がる。事故への恐怖から、感情的な話が優先されるのは、仕方のない部分があるものの、それで終始するのでは、解決の糸口が見えてこないことに、そろそろ気付くべき時が来ている。

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5月19日(木)−付言

 ニュースとは、その字の如く、最新の情報を流すことである。報道の姿勢は、新しい情報を如何にして集め、どんな形で伝えるか、という形で示される。次々に報じられる内容について、その多くは情報源に責任があるが、場合によっては、取捨選択の上での伝達となり、必ずしも源だけの問題とはならないこともある。
 日々伝えられることに対して、一喜一憂を繰り返すことは、精神的な不安定を招き、体調を崩すことに繋がりかねない。このような事態においては、冷静な判断が求められる所だが、判断を委ねてきた人々にとって、急に態度を変えることは難しい。迷走を続ける状況においても、自分たちが立つべき所を定めようとする動きは鈍く、準備不足だけでなく、危機に対する感覚も、思ったほど強まっていないように見える。不安という感覚は高まるばかりだが、それを抑制する力に思いを馳せる人は余りにも少なく、一方的な状況から脱するのは難しいようだ。そんな中で、報道からは次々と新事実なるものが流され続ける。新しい情報には、大きく分けて二つの形態がある筈だが、その区別に配慮することなく流されているようで、これも又、不安の煽りに力を貸しているように見える。事故の評価の時も、直後の状態の評価だった筈が、遂にその事態に達したかのように伝えられ、最悪という言葉が飛び交うとともに、悪化という表現も付け加えられた。事実を伝えるだけでなく、どんな一言を足すかで、様相は一変する。こんな状況が、再び起きたように思うのは、偏見だろうか。熔融という言葉の意味する所は、様々にあるようで、発表する側は慎重に言葉を選んでいたが、流れた情報では、そんなことより、状況の悪化を伝えようとする意図が満ち溢れていた。これも直後に起きた事象で、その後の展開の安定は、別の解釈をも可能とするが、そんなことは役立たずかのように無視される。

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5月18日(水)−付加

 落ち着きが取り戻されるに従い、次々と新事実が明らかとなる。その途端に、隠蔽体質が話題になるのは、社会全体にそんな傾向があるからだろう。自らの無識を棚にあげ、単位の変換を糾弾した評論家の無能ぶりも、同業者の中では好評だったらしく、異様な表現が溢れる。そんな土壌で、批判が飛ぶのも無理はない。
 だが、新事実と呼ばれる話の解釈には、舌足らずの感は否めない。情報公開を求め続ける人々は、自らの役割への理解は殆ど無く、ただ、右から左へと送るに過ぎない。その上で、不足する部分だけに光を当て、問題を顕在化し、大騒ぎを繰り返す。レベルの話も、融けていたとの話も、明らかにされた時期と、それが起きた時期とは、大きな隔たりがあった。にも拘らず、最新情報を伝える人々は、今まさにその状態になったかの如くの伝え方をする。そのように提出されたのだから、その通りに伝えるのが、という言い分も、現実には、様々な脚色を施しながら、報道に携わる人々の口から出たとなると、何とも信じ難い話にしかならない。説明は充分になされたのに、その一部だけを取り上げる手法は、これまでに何度も使われてきたから、今更指摘するまでもない。説明責任を、当事者たちだけに求めることは、どれほどの間違いを繰り返すことになるのか、依然として理解できないようだ。融けた話は、レベルと同様に、直後に起きた事象と思われる。その通りに予想されていたのに、今まで隠していたのは、との指摘も、いつも通りの展開だが、何を言っても無駄だろう。ここでの説明として望まれるのは、ほぼ2ヶ月前の出来事で、この状況に陥っていたのに、事態は悪化の一途を辿っている訳ではない、ということではないか。悪化という印象を与えることが、不安を煽る手法の典型だとすれば、何となく思惑が見えてくるが。

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5月17日(火)−検証

 何事にも検証が重要とされる。正しく行われたか、間違いは無かったか等々、調べ上げるべき事柄は数多ある。何時の頃からか、この手順が資金対効果とか、妥当性の問題に結びつけられることが増えたが、実際には、多くの検証が繰り返しの防止に繋がるものとされる。同じ愚を繰り返さないように、と。
 機械の動作や操作に関することであれば、その状況の変化を振り返ることで、様々なことが見えてくる。これにより、その時その時の動作や判断が、正常なものであったかどうかが判る。もし、誤作動が起きていたのだとしたら、それを改善する必要がある訳だ。だが、一つの機械を相手にした判断ではなく、多くの要素が入り組む中での判断が、検証の対象となった時には、ことはそう簡単には終わらない。こうすれば良かった、ということは簡単だし、それは間違いで、この方が良かった、とするのも難しくはない。何故なら、検証時には、その後の展開が明らかとなっているからで、それを参考にして、別の選択肢を拾い上げることは、誰にでもできることだからだ。だが、別のものの妥当性は、試してもいないことなのだから、何の保証もないものとなる。こうすれば良かっただろうか、とその行動を起こした人間が、反省の念をこめて考えることには、大きな意義があると思うが、検証という作業には、他人事としての関わりが強くなる。結局、岡目八目という有利点だけでなく、無責任とも言うべき立場の違いばかりが、強まる結果となるだろう。未だに解決しない問題が山積する中で、糾弾に力を注ぐ人々には、信頼を勝ち取ろうとする気持ちばかりが目立ち、現実には、問題の本質を見ようとする姿勢が見られない。所詮その程度の人間たちと言うのも、外からの身勝手な発言だろうが。

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5月16日(月)−暗愚

 早急に、という声がある一方で、長期に堪え得る計画を、という声が出てくる。確かに、少しずつ時間的な余裕が出てきているが、問題が表面化した個別の事例に関しては、待ったなしといった感は変わらずじまいだろう。時間的な見通しからしても、これ程極端なものに対応するのは、容易なことではない。
 この状況は、責任ある立場にある人間にとって、厳しさが増すばかりに見えるが、それにも増して、責める役割のみを負う人間にとって、まさに千載一遇の機会となっているようだ。こちらを立てればあちらが立たず、という図式は、まさに天秤にかけることばかりとなるが、片方だけを見るようにすれば、批判の的は容易に見つかる。そんな中で、攻撃目標を見出した人々は、更なる攻勢に出ようとするが、後先考えぬ行動は、すぐに綻びを表すことだろう。交代を目する人々の言動には、責任の一言が付いて回るが、現実には、それを回避する行為と見なされても致し方ない。時間的な余裕を持てた時代に多用された手法を、毎度の馴染みのように繰り返す姿勢には、物事を真剣に考えた跡が見えない。従来の手法を、そのままに適用するという考えは、前例通りということから、今まで散々批判されたやり方だろう。逆の立場に立った時のことを考えられず、ただ、目の前のことに心を奪われる人間に、場当たり的も何も、何らかの提案を期待すること自体、無駄としか思えない。困難な問題を片付けなければならない時に、自分たちの問題にしか目を向けないのでは、無能を露見させただけのことであり、そんな輩に任せる気持ちは微塵も起きない。更に言えば、こんなことに時間を奪われることを、許すほどの余裕は何処にも存在しないことに、気がつかないほどの感性に、何を期待するのか。唾棄すべき提案が取沙汰される事態に、この国の窮状ははっきりと現れている。

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