拒絶できないと揶揄されたこともあり、議論を積み重ねることが難しいとも言われる。互いの主張に耳を傾け、それぞれの特徴を拾い出し、その上で、妥協点を見出そうとする。書けば、いとも簡単に映るが、自分の主張を活かすことにばかり、心を奪われる人々にとっては、とても難しいこととなる。
ディベートの効用に注目が集まり、盛んに導入された時代があったが、その後の経過を眺めても、期待通りの効果があったとは言い難い。その場で、役を演じるが如くの手法では、真剣に考えた上でのものにならず、前提条件が満たせぬままの進行となり、結果的に、自分のものにはならず、仮の姿で終わったようだ。次に現れたのは、議論に入る前に必要な要素としての、双方向の情報交換、つまりコミュニケーションの重要性だが、発展途上とは言え、大した効果が上がっていないように見える。相手の意見に耳を傾け、自分の考えとの違いを分析し、それを反映させた形で、言葉を返すという遣り取りは、これまた文字にすると、簡単そうに見える。しかし、話し言葉での交換では、瞬間的な理解と判断が必要となり、簡単でないことが解ってくる、その場その場の理解が不足し、判断を誤れば、それを悔やんで、次の行動が起こしにくくなる。失敗をどう扱うかの問題は、こんな所でも重要となるが、一方的な遣り取りに馴染んだ人々には、解決法は中々見出せないようだ。現実には、話し言葉の交換は、様々な形での変化に富み、失敗を取り戻す作業も、さほど難しくなく行える。ただ、これを実行する為には、互いにそのことに対する理解を済ませておく必要があり、準備が整っていないことが障害となる。互いの顔や目を見ながら、話を交わしておれば、異常に気付くことも難しくはない。これだけのことに、何故苦労するのか、濃い線が引かれているようだ。
五年前、養蜂家の悩みについて書いた。蜜の源となる植物の将来に対する心配は、別の角度から見ると関心を呼び覚ますものではなく、無視されているとのことだったが、その後の展開は、何も起きていないように見え、ある意味で杞憂に終わったと言えるのではないか。いつもながら、一時の興味は消し飛んだらしい。
ニセアカシアとか、針槐と呼ばれる植物は、外来種として、国内に元々いた在来種とか固有種と呼ばれる植物の生態を乱すものとして、名を挙げられている。河原の状況は、治水事業の結果として、昔ながらの姿はとどめておらず、小さな植物だけでなく、樹木の姿が目立つようになっている。中でも、この植物はこの時期に目立つ存在として、人の目を引いているようだ。春に白い花を咲かせ、その数が膨大であることから、蜜源としての存在が業界では重視されてきたとの話は、以前にも取り上げたが、花を楽しむだけの人々には、その存在が邪魔なものとはならないだろう。多様性という観点から考えれば、外来だろうが在来だろうが、多種多様な生態が優先されるべき、という論法は、一般の人々の不十分な知識から来るものらしく、生態を保全する立場では、元々の姿こそが維持されるべきで、人間の力によって乱されたものは、人間の力で元に戻すべきとなるらしい。あるがままの姿、という考え方も、人間の存在が関わる限り、無意味なものとされ、調整を図らねばならないとなる。だが、これこそが傲慢さの現れ、とならないのだろうか。自然保護とか、環境保護とか、そんな言葉を好んで使う人々は、自分を中心におく考え方を当然とする。ちっぽけな存在が、巨大化するのは、まさにこんな時だと思うが、ヒトという生き物が特別な存在と思う人々には、何の違和感も無い。
言った、言わない、で始まった論争は、指示を守らず、独自の判断が行われた、という話が伝わり、意外な展開を見せている。憶測に基づいた勝手な判断により、間違った行動が導き出され、それが事故の展開を悪くさせた、という筋書きが、行動が無かったとの情報により成立せず、批判の的が消え失せたのだろうか。
中断との報告が何処から出されたのかさえ、こういう混乱の中では見えなくなってくる。情報の錯綜は、それに振り回される人々にとっては迷惑なものだろうが、それを基に想像を膨らませ、勝手な筋書きを立てる人々には、どうでもいいことなのだろう。彼らにとっての次の標的は、錯綜そのものとなり、状況把握の不完全を攻撃すればいいだけのことなのだから。だが、この話題の中で、関係者の話に違和感を覚えた人もいるのではないか。言った、言わないの応酬もさることながら、記録をひっくり返すより、記憶を頼みにする態度に、各人の気構えに不信感を抱かされる。件の発言をしたとされた人も、話す度に内容が変貌し、科学に関わる人間への不信を強めただけのように見える。ある質問に対し、何らかの受け答えをしたことだけは確かなようだが、その内容に対して、責任を持った説明は無い。その場での言葉遣いにおいて、何らかの誤解を産んだ可能性があるとしたら、その責任は何処にあるのか。受け手の問題だけを捉えたとしたら、それは明らかな片手落ちだろう。舌足らずの説明が、誤解を招いたという可能性が常にあるからだ。学者の多くが、そういった批判に対し、反論の構えを見せるのは、自尊心の現れかも知れぬが、正しいことを言ったとしても、それが一般の受け取りにおいて、異なる解釈に繋がるとしたら、拙いことだろう。「可能性がゼロではない」という話は、学界では当然の表現としても、一般には「可能性がある」と受け取られかねない。ただ、舌足らずを謝れば済むことではないか。まあ、無かったことなら、私は何だったのか、と話す程度の人間では、長の資格も全く無いのだろうが。
仮の話に対する反応は人それぞれだろう。何か事を始めるにあたり、仮定を積み重ね、道筋を定めていく作業は、普段から日常的に行われる。自分でおいたものに振り回される事は無いが、誰かから、仮定の話を聞かされた時には、結果のみに心を奪われ、仮の部分に思いを及ばせる事は少なくなる。
自と他で、極端な反応が出てくるのは、こんな事情によるものだろう。だが、仮の話を外に出すにあたって、このことに注意しないと、予想外の反応に驚かされることとなる。シミュレーションと呼ばれる作業は、あくまでも様々な仮定の下に行われるが、結果として得られた数値や結論には、そのような但し書きはついてこない。始めの時点で、仮という事柄をどんなに強調したとしても、その後の展開で、数値や結論だけが独り歩きを始めると、恰も確実なもののように扱われ、煽りに利用されることとなる。巨額の開発費用を注ぎ込み、鳴り物入りで公開された仕組みも、その能力の高さより、基礎数値としておかれた仮定が、どのくらい確実なものかを検証する暇は見出せなかったようだ。批判の的となるべき運命は、結果を出そうが出すまいが、表面上は同じ結末を迎えることとなったが、実際には、躊躇したことは別の効果を産んだのではないか。冷静さを失った人々にとって、たとえ仮の話としても、強烈な印象がもたらされた時に、どんな反応が導き出されるか、正直に言えば、考えたくないと思う。情報開示の観点から言えば、手に入ったものを次々に選別すること無く、知らせることが重要だと言われるが、冷静な受け止めと行動が引き起こされるか、自信は全く無い。右往左往する姿が流される一方で、何の選別もせずに、各自の判断に任せるのは、責任の意味を見失っていることにならないだろうか。
一般大衆にとって、情報とはどんな意味を持つのか、そろそろ判り始めているのではないか。次々に繰り出される雑多な内容になす術も無く、呆然と見送るのみということも少なくない。一時の解説の嵐は、ある部分で理解を深める助けになったとは言え、溢れるほどの量となれば、役立たずに終わることもある。
人々の情報に対する感覚は、このように様々に変化してきた。ところが、その一方で情報開示を求める人々の声は、静まる兆しを見せない。この矛盾は何処から来るのか。末端に居る人々にとっては、ある意味どうでもいいことに違いないが、中間的な位置を占める人たちには、責任の所在も含め、非常に重要な事柄のように扱われる。大衆の代弁者のように振る舞う人々は、情報が操作されているかの如く発言し、発信源の責任を指弾する。当然の図式のように思われるが、現実には、発信源との接触の機会を得られる人々に、何の責任も無いかと言うとそうでない気がする。一番下の場所で流されてくるものを待つ姿勢をとるのは、それ以外に方法が思いつかないからだが、源流の部分で手を出せる立場であれば、何を流すべきかの指摘をすることが、情報の質を変えることにならないか。事故の原因の検証もいつかは行わなければならないことだが、今起きていることや問題となっていることを解決する為に必要なことではないだろう。にも拘らず、移り気な子供のような行動を繰り返す人々は、問題となったことに関しても、すぐさま忘却の彼方へと送り込む。状況の変化を報告することに腐心する人々に、更なる情報開示を求めるだけでは、大したことは起きない。それより、そこまでに流された情報の中で、その後の経過を知ることが重要であるものを選び出し、それに関して、情報を引き出す努力をすべきではないか。会見場での遣り取りは、何か下らぬものに見え、その後の自分たちの場所で、その不足を批判するのでは、役割を果たしているとは言えないことに気付いて欲しい。
科学的根拠が強調されている。確かに、不安を煽る感情論や根も葉もない噂話など、大きな出来事がある度に問題となるが、解決する手段は簡単には見出せない。その中で、確固たるデータに基づき、証拠を積み重ねた論理展開を得意とする分野は、信頼できるものとして評価される。ただ、例外もあるようだ。
学校の校庭の扱いに、頭を悩ませる人が多いと聞く。始めに線量の調査が行われた際、地面と地上一メートルの高さの値が公開されたが、その意味に考えを及ばせた人は少ないだろう。本来は、その比率から放射線源を特定できるということなのだ。ところが、土の交換やら何やら、その後の展開を見守っている中で、その頃には地面の数値が消えてしまい、意味は雲散霧消したように感じられる。科学の危うさは、他の力に圧迫された時に現れ、穿った見方をすれば、これも又政治の介入の匂いがする。一方、当初から介入が取沙汰されたものに、校庭の使用基準なるものがあり、その数値への賛否両論は科学的根拠のいい加減さを見せているように感じられる。100という数値が唯一明確な値として使われてきた中で、特異な例としての子供の扱いには、確実な値は存在しない。そんな事情から、賛否が噴出し、議論を積み重ねたように見えるが、確実なデータの無い中での議論は、科学の最も苦手とする所ではないか。年間20ミリシーベルトという基準に、異論を唱える中で1ミリシーベルトという値が発せられていた。だが、最新の線量データによれば、件の県庁所在地で毎時1マイクロシーベルト以上の値が続くと言う。これを単純に計算すれば、年間では10ミリシーベルト位になる。おやおやと思うが、おそらく室内にいれば、と反論されるだろう。だが、室内の線量がゼロでないことも、そろそろ皆に知られる所となっているのではないか。室外か室内か、0か1かではなく、天秤にかけなければならない。そんな中での数値は、科学的根拠に基づくが、確証とはできないものなのだろう。
経済には国境が無い、と言われる。最近の投資金の流れは、利益率の上下により変動し、世界中を駆け巡るとされる。流行り言葉もこの辺りが源となったようで、恰もそれこそが唯一の策のような扱いを受ける。だが、何時の頃からか、この情勢に変化が起き始めている。落ち着きなく走ることには、利が無いかの如く。
国内外の投資に対して、区別無く扱うことが、こういった考え方の基本となっているようだが、世界そのものが一つの単位になるのならいざ知らず、所詮は小さな単位の集合に過ぎず、どの単位を優先するかが問題となる中では、計画通りに事は進まない。藁をも掴む状況にあった時、外から差し伸べられた手を、破顔で迎えた人々は、その後の展開をどう捉えているのか。経済界に住む人々にとって、それぞれの事例がどんな変遷を辿ったかは、実際には興味なく、単に投資の流れのみが対象となる。困っているのだからと、またぞろ、その動きを見せ始めているのを眺めて、苦々しく思う人もいるだろう。自立を訴える人々がいる一方で、こうした動きが何を意味するのか、もっと考えた方が良いだろう。経済の世界では、救いの手と称せられるものに、騙されてはいけないと言われる。利潤追求を常に考える人々にとって、人間の感情は巧みに利用するものでしかない。外資を、という言葉を連発する人にも、別の思惑があるのではないか。この苦境を、買い叩く為の手段としか思わない人に、何を期待するのか、全く理解できない。確かに、それが全てではなく、優良な事例もあるのだろうが、こんなことが起きる度に、何故か煮え湯を飲まされたような気になるのは、その場では見えなかった目論見が、後々明らかになったことが多いからだ。まあ、儲け第一の人に、そんなことを言っても始まらないのだが。