パンチの独り言

(2011年5月30日〜6月5日)
(翻訳、同類、性急、混迷、絆、戸惑い、不変)



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6月5日(日)−不変

 初めて被災地と呼ばれる地域に足を踏み入れた。遊びとか観光ではなく、仕事の上でのことだったが、何か特別なことがあった訳ではない。道中、一部に違いがあったものの、殆ど変わらぬ光景に、肩透かしを食わされた感覚が残ったが、画面からの情報が極端に限られていたのを考えれば、当然のことだろう。
 道路上の変化は、そんな中でも著しいと言えるのかも知れない。路肩が崩れかけた場所には、注意を促す措置が施され、橋の部分で目立つ段差は、舗装によって応急措置がとられていた。走り易いとはとても言えない状態だが、速度さえ保てば危険を感じるほどではない。それでも雨中の運転では、危険の度合いが増すらしく、事故が幾つか起きていた。段差は衝撃の問題に注意が向くが、雨の中では水たまりの方が問題となる。それが運転を誤らせるのは、想像に難くない。一方、仕事を済ませての帰路で気になったのは、照明の不足だろう。どの高速道路も、あの後は照明を減らし、電力不足への対応を思わされる。元々自動車には前照灯があるのだから、困る筈は無いと思われるが、前を見るだけでなく、横を流れる光景を眺めることは、速度感覚を確かなものとする。暗いことがどう響くのか、と思いつつ走ってみると、結局速度に対する幻惑が引き起こされることとなった。安全の為に、悪いことが起きる訳ではないだろうが、急に恐怖感を抱いたとしたら、周囲への悪影響が生じるかも知れない。そんな変化の中で、地域一の大都市の姿は、殆ど変わらないように見えた。被害の少ない地域しか見なかったのは確かだが、交通量や人々の姿には、既に以前と変わらぬ勢いが感じられた。

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6月4日(土)−戸惑い

 震災直後、自粛という表現が流れ、様々な催し物が開かれなかった。安全を考えてのこと、の場合もあったのだろうが、そんなこととは無関係に、横並びの姿勢が現れたものも多かったようだ。主催者の判断からのものでは、こんな傾向があったと思うが、全く別の理由で中止を決めたものがある。
 ある音楽の催しは震災直後に予定されていたが、施設の問題から中止を余儀なくされた。ある程度の落ち着きを取り戻した時点で、施設の使用にも問題が無いことが確認され、改めて開催されたのだが、そこに現れた演奏家の口からは、予期せぬ言葉が溢れてきた。大災害により、国中が混乱していたことは、まだ記憶に新しい所だが、彼らの混乱は少し違った形で現れてきたようだ。自分たちにできることは何か、こんな問題を考えた人も多かったのだろうが、労働という形や義援金によって、と思ったのではないか。では、音楽家にとっては何があるのか。そんなことが悩みの種となり、暫く動きがとれなかったと苦しい胸の内を明かす人にとって、答えを見出すのにかなり時間がかかったらしい。演奏を、と簡単に思いつくのは、一般的な考え方に違いないが、職業とする人々にとっては、それによって、何を伝えるべきかが重要となる。その答えには、相手が何を望んでいるかが大きく影響を及ぼし、日々変化する状況下では、定まらぬ的に決断ができない状態が続いた。結果的に、答えが出たからこそ、演奏にこぎ着けたのだろうが、心の苦しみを吐露し、困惑の経緯を説明する姿には、芸術に関わる人々の感性の違いが現れていたように思う。

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6月3日(金)−絆

 無駄なことをしない為に、経験を活かすということが度々強調されている。何も情報が無い中で、右往左往した人々は、自らの経験を基に、適切な対応を編み出すとあり、それを適用すれば、無駄な混乱を避けることができると言われる。更に、経験者が現場で加われば、鬼に金棒といった雰囲気まで漂うようだ。
 確かに、現場の混乱の程度は、経験者の参加によって、低減されたと思われる。考えたことの無い人より、幾つかの可能性を検討した人の方が、より多くの手札を持っているからだろう。だが、これが全てに当てはまるかと言えば、そうでも無いように思える。例えば、地域の絆の継続を第一とし、全てがそれに基づいて決められるのを眺めると、何かしら極端なものを見る気がする。根拠は確かにあり、孤独死と呼ばれた現象の原因が、そこにあるとした話が、必ず紹介される。無かったことなどという反論はあり得ないにしても、その確率はどの程度だったのか、確かめたくなる。科学的根拠ばかりが表に出るのも考えものだが、絆を断ち切られた人間のうち、新たな関係を築けずに、孤立感に苛まれた人は、どの位居たのか、紹介されることは無い。にも拘らず、今の風潮は、絶対に外せない制限として、絆が最優先されている。その為に行政は全力を尽くすだけでは及ばず、無理難題に苦しめられつつある。この流れはある意味当然であり、達成できなければ、誰かが死に、その原因は行政にあるという筋書きが、作られているのだ。この手の議論で、常に思うのは、個人差が無視され、平均化された話が全てとなることで、それにより、ある極端から、別の極端に動いたことに気付かないことだ。不安を抱く人に、そんな助言は強く響き、新たな関係構築に対する希望も消え失せる。事例があったことは否定できないが、当てはまらない人がどれほど居るのか、知っておくべきことではないか。

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6月2日(木)−混迷

 何故とか、何の為にとか、そんな声が大きくなる。渦中の人々には、それぞれの事情があるには違いないが、その正体が知れることはない。一部の大きな声だけが、何かしらの化粧を施され、都合良く流される。だが、真意はどうかと言えば、おそらく、何も無いか、捻くれた心理が見えてくるぐらいだろう。
 為すべきことは、こんな形で棚に上げられる。所詮、能力の無い集団なのだから、と言ってしまえばそれまでだが、彼らに期待した人々の心中は如何に。上辺だけを捉え、賛意を示す人々は、あの当時と同様に、何かを考える気持ちも力も無い。こんな状況を眺めると、外から賞賛された行動は、見せかけのものになる。だが、このことについても、よくよく考える必要があるだろう。現場で頑張る人々に対して、こういった言葉が贈られただけで、今騒いでいる人々は、あの時、何もせずに姿を隠していた。その意味では、賞賛の対象は彼らである筈も無く、身勝手な行動は唾棄されるべきものかも知れぬ。自分たちにできることを実行する、という見方では、何の誤りも見出せないだろうが、足下しか見えぬ人々が、その任に当たることに関しては、もっと厳しい見方をしなければならない。だが、その目を画面のこちら側に向けてみると、感情論を好み、私利私欲に走る人々の姿ばかりが目立ち、何が起きたとしても、期待が叶うことはありそうに思えない。自らの行動や言動を棚にあげ、批判を繰り返すばかりの人々に、彼らがどんな立場にあるにしても、期待できるものは皆無だ。この混乱が、後々どんな形で総括されるのか、気にもならないが、震災を機に何かが変わるという話は、影も形も無くなるだろう。

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6月1日(水)−性急

 次々に流される惨状の映像に、大きな衝撃を受けた人は多い。もう二度とこんな目に遭いたくない、と思うのも無理も無いことだが、避ける為の方策となると、随分と考え方が違っていて、不思議な感覚を抱く。全てを想定内に留めようと、あらゆる方策を講じようとするのは、一つの極端な例だろうか。
 想定外という表現に対して、激烈な批判が飛び交ったものだが、その主たちは、以前ならば大いなる無駄遣いと言われたものに、一気に舵を切ろうとしている。予想ができるのであれば、それを防ぐことに力を入れようとするのは、自然な考え方なのかも知れないが、どうも胡散臭さだけが目立つ。杜撰な計画が一方的な批判で潰されたのは、ついこの間のことだが、舌の根も乾かぬうちに、正反対の論理を展開するのは、とても人間業には思えない。興奮状態での思考は、様々な部分に欠陥を残し、偏った論理に満ち溢れている。感情論を得意とする人々にとって、これはごく当たり前の動きに過ぎないが、冷静な判断が必要な場面では、邪魔になるだけのことだろう。最新設備の高性能を謳う話も、机上の空論とばかり、灰燼に帰してしまったが、物的損害を減らすことは難しくとも、人的被害の拡大を止める手立ては、まだありそうに思える。前者が莫大な予算を必要とし、その点を強烈に攻撃されたことは、まだ記憶に新しいものの、大きな衝撃は、記憶喪失に陥らせる力さえ持っているらしい。目の前のことばかりに気持ちが向き、深慮遠謀や計画性などといった言葉が、吹き飛ばされた事態であればこそ、今一度ゆったりと構え、じっくりと戦略を練る必要があるだろう。早速に必要な手当は、拙速と呼ばれてでも動かす必要があるが、次への備えと呼ばれるものに、慌てて馬鹿げた提案を出すことだけは避けたいものだ。

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5月31日(火)−同類

 政を行うのは誰なのか。こんなことは今更言うまでもない、と思う人は多いと思うが、果たしてそうなのか。多くの人は、中枢にいる人こそ、その任にあると考えるようだが、もしその通りならば、その他の選ばれし人々は何の為にいるのか。枠の外から叫び声をあげるのが、彼らの役割では、決して無いだろう。
 だが、あの直後の不気味な静けさを思い出してみると、声はすれども姿は見えずどころか、姿も何も全てが消えたように見えた。逃げたと揶揄されたとしても、皆が同じように行動していれば、大したことは無い。危機を叫びながらも、画面内に留まった無能な評論家より、余程賢明な判断を下していたのかも知れない。だが、選んだ人々にその論理は通用するのか。混乱の極みにある時、何か策を講じてくれるのでは、と一縷の望みを持った人もいただろうが、姿さえ見えぬのでは話にならない。そんな批判が吹き出し始めた頃、何処からともなくわき出し、口々に文句を並べても、そう簡単に信用は回復しない。騙され易い人々は、少し矛先を変えるだけで、気持ちが揺らぐようだが、これは愚民政治の常だから、避けられようも無いだろう。そんな中、中枢への参加を促されても、貧乏籤を思い浮かべたか、逃げ腰を誤摩化す言動を繰り返し、選ばれた責任を果たす気は毛頭ないらしい。非常事態をも、自らに有利に働くように利用しようとする人々は、果たして、責任者の方か、はたまた、その他の連中か、様々な困難に立ち向かっている人々にとっては、どうでもいいことだろう。決断力や指導力の無さを嘆く声も、この状況での本当の問題を見出せないのでは、遠吠えにしか聞こえない。権力争いにしか目が向かない人に、興味を示す人々は、同じ穴の狢に過ぎない。

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5月30日(月)−翻訳

 人前で話すことを嫌う人は多い。緊張を伴うし、衆人環視は極端としても、全ての視線が自分に集まることは、悦びというより、苦しみを引き起こす。だが、話をする限り、その筋書きや流れは、話す人間の意のままだし、反応を受け取って、何らかの変化を起こすことも可能である。自分が中心となれるのだ。
 それに対して、文字になった話はどうだろう。それを読む人々は、その場にいた訳ではなく、話の全てを受け取ることはできない。その代わり、仲介となった人物が纏めた文章を、全てとして受け取り、内容の理解を進める。的確な編集が施される限り、何の問題も生じないものだが、このごろの揉め事を聞くにつけ、何処かに歪みが生じているように思える。技術の発達により、様々な映像媒体が提供されても、それら全てに目を通すことは不可能であり、何らかの編集が行われるにしても、文字に変換されたものに頼らざるを得ないのが、現状だろう。公的な発言でも同じことであり、それに対する反論や異論も、同じ操作を施される。その為、思惑や意図が持ち込まれることもあるだろうし、真意が伝わらないことも度々生じる。正しい情報の提供こそが全てとの指摘も、こんな状況の下では、そのまま伝わるとの保証は無い。施政者や責任者が、最悪の事態を想定しつつ、作業に当たることは当然であり、その中で最善を尽くすことが重要だろう。だが、状況説明の必要性は、何も、想定された最悪の事態の説明に及ぶものではない。質問に答えての話には、政府の対応に苦言を呈するものがあったが、そこに並んだ言葉には、何か肝心なものが欠けていたように思う。行間を読むことが必要との指摘は、こんなときに当てはまるのかも知れないが、発言者の真意は見えぬままだ。読み方の違いによるものならば、書き方の問題となるが、さてどんなものか。

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