パンチの独り言

(2011年6月6日〜6月12日)
(もっと、誰でも、双方向、斬奸、代役、極論、遠慮)



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6月12日(日)−遠慮

 公園で鳥たちに餌をやる人が居る。どんな意図があるにせよ、鳥たちはその餌に群がり、大変な騒ぎとなる。何処に行っても沢山居るのはドバトだが、その中に、更に小さな鳥たちが混じることもある。スズメも常連なのだろうが、どうも見かけたことのないものも居る。彼らの態度には、中々興味深いところがある。
 例えば、ドバト同士で餌の奪い合いが起きると、独占を望む個体が不思議な行動をとる。自分だけがその餌を独り占めしようとすれば、他を引き寄せない為の手立てが必要となる。しかし、嘴で餌をとることを常とする生き物の場合、他への攻撃にもその嘴を使わねばならず、結局、餌の独占が解けることとなる。となれば、攻撃された個体は退却するとしても、その他のドバトたちには千載一遇の機会となる。この繰り返しを眺めていると、何だか欲にかられて、無駄なことを繰り返す、何処かの人々を思い浮かべてしまう。人間は確かに愚かな動物だと結論づけても良いのだが、動物の中にも別の行動をとる個体が居る訳で、全てを一つに括ることの愚かしさが強まる。一方、そんな騒ぎの中で、一瞬の隙をついて潜り込む小さな鳥たちにも、面白い行動が見られる。隙をつく様式は、体の大小による不利から、多くのものが選択する筈だが、中には、そんなことはおかまいなしに、激しい争奪戦を数倍も大きいものと繰り広げるものが居る。こちらも、眺めていると中々に興味深く、単純に個体差だけでは計れない部分がありそうに見える。いずれにしても、生き残る為の術である訳で、彼らにとって、その選択肢しか無いという結果に違いない。それでも、流石に、他に譲るような行動は見られない。もし、社会性の強さが影響するとしたら、鳥たちに見られないのは当然かもしれないが、力の強弱だけでなく、別の要素が譲る行動に影響を及ぼすのは、ひょっとしたら人間に限られるものなのかもしれない。

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6月11日(土)−極論

 勢いを増すばかりの情報公開を望む声は、収まる気配を見せない。その理由の一つは、要求が基本となり、自らの関わりが一切顧みられないからだと思われる。もっとという声を上げる人々は、満足という段階に至ることが無く、ただ相手に挑むだけとなる。不満が解消されることは無く、更なる要求が出されるだけだ。
 自制という行動様式に対し注目が集まったのも、直後だけの話だった。その後は、次々に噴出する欲望の塊が、途絶えること無く膨らみ続け、立場が固定されたことから、落とし所を見つける作業にも、目が向かなくなった。情報の不足に不満を訴える声も、こんな状況では落ち着く筈も無い。ただただ、足らない部分に目を向け、不満の声をぶつけるのみだろう。驚くべきは、そんな声の中に、情報伝達に携わる人々の意見が入ることで、彼らの関わりが、一般の人々とは異なることを考えると、何かを棚上げしてしまったかのように感じられる。彼らの配慮の無さが現れていると思うのは、災害直後の混乱期に、死者や行方不明者の数を伝える際、その不確実さを強調し、その後何倍にも膨れ上がる可能性を、何度も強調してきた所にある。全体として、ある意味の落ち着きを取り戻し、数の問題もある程度の確実性を取り戻したようで、確定に近い数字が公開されたが、それを伝える際に、あれほど不確実を問題視し、更なる増加を予測させる背景を訴えてきた人々が、何の感想も意見も無く、この数字を伝える姿勢に、彼らの拠り所が、実際には何の思慮も無く、一時の思いつきに過ぎなかったことを、強く感じさせられるのだ。一体全体、どんな見込みを採り込み、どんな仮定を置いた上での、強い意見だったのか。その時、原稿を書いた人たちは、何の責任も、何の感想も、持っていないのだろうか。それとも、不安を煽る姿勢を貫くことが、全ての背景にあり、その方針に従っただけのことなのか。ふざけた話にしか思えないが。

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6月10日(金)−代役

 代わりを求める為に、様々な言葉が尽くされる。現状の問題を指摘し、その解決に必要な手立てを紹介する。その場では、論理が成立するように見える訳だが、すぐに馬脚を現し、問題山積の状態に陥る。絵に描いた餅は、その裏側に黴を生やしており、綺麗に見える面だけを取り上げることで、魅力的に見せる。
 恰も政局の話のように聞こえるだろうが、そんな馬鹿げたことをするつもりは毛頭ない。私利私欲に走る人間を取り上げることさえ、汚らわしく思えるからだ。では、何の話か。発電の図式が大きく変貌し、業界が蜂の巣を突ついたような状況になる中、俄評論家たちが思いつきを展開し、現場の混乱を更に高める手助けをしている。代替エネルギーの問題は、何十年も続いており、その中で原子力の推進が行われてきた。安定供給という観点から、最適のものとされたが、今回の事故は、神話が崩れたと言われるまでになった。そうなれば、不安定を指摘されたものには、今更目を向ける訳にもいかず、新参者に注目が集まるのも当然だろう。太陽、風、波といった具合に、次々に登場するものに対して、魅力が紹介されるのは、こんな場面でよくあることだが、これでは欠点が見えてこない。悪者の欠点ばかりを力説するから、代わりのものの欠点には目が向かない。これでは以前と同じではないか、と思う人が居ても、社会の情勢は変わらない。視野が狭く、見識の無い人々にとって、時流に乗ることは必須のようで、底の浅い議論も大目に見てもらえる。経費の計算も、偏った分析に基づけば、ご都合主義が押し通せるし、利点を優先させれば、欠点を覆い隠すこともできる。所詮、同じことの繰り返しと思える話だが、その典型に思えるのは、地熱に関するものだろう。既に何十年も続く議論に、終わりが見えない状態は何の変化も無い。にも拘らず、また魅力が語られる。やれやれと思うのは、こちらの問題なのか。

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6月9日(木)−斬奸

 明らかな間違いと受け取られたものも、その後の経過で正当化されることがある。声の大きい奴の勝ち、などと揶揄されることが多いものも、結果論としてそうなってしまえば、勝負の行方は明らかである。押し切ることの重要性が、こんな時に注目されるが、無理難題を迫られる側からすれば、迷惑千万となる。
 この手の話では、個人的に被害を受けることが多いものの、時には、多数の人々が巻き込まれることがある。少数の恥知らずの人間の、常軌を逸した行動が引き起こす騒動が、一時的な批判にさらされたとしても、その後の声の大きさが様相を一変させてしまえば、まるで無恥な人間が、高潔な人間のように扱われるから、恐ろしいとしか言いようが無い。一体全体、人間の判断力は何処に消し飛んでしまったのか。急激な変化によって、本質に目を向けることとなり、正しい判断を下せる人間が増えるとの期待は、予想通り、裏切られることとなった。予想などというものが的中することが、喜べないのはこういった場合であり、腐敗が奥深くまで浸透していることを表す。馬鹿げた行動と、冷ややかな視線を向ける人が居る一方で、腐りきった業界は挙ってそれを賞賛する。たとえ、下らないという言葉を付け加えたとしても、その後の取り扱いを見れば、興味津々の様子が伝わってくる。こんな状況が伝えられる中で、社会の片隅で、同様に無恥な行動が繰り返されるのを見ると、画面の向こう側だけでなく、社会全体に腐敗が広がっていることが解る。腐った部分を切り捨てる、決心を下さない限り、こんな状況は変わり得ない。外力に期待しても無駄なのは、はっきりしてきただけに、そろそろ筋を通す大鉈を振るう時が来ている。

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6月8日(水)−双方向

 ネットの整備が進み、ありとあらゆる場所で、時間を気にせずに、情報収集を行える。誠に喜ばしい事態だという声も聞こえるが、その一方で、この仕組みの脆弱さが指摘される。肝心な時に上手く働かなかったことは、記憶に新しいが、この仕組み自体が抱える問題への指摘は、解決の糸口さえ見出せていない。
 誰もが手軽に関わることができる、という仕組みの利点は、同時に、情報の信頼性という点で、悪影響を及ぼすことが問題視される。これ自体を、ネット社会の問題と捉える向きもあるようだが、社会制度の問題とするには、かなりの無理があるように思える。仮想空間における、情報の遣り取りに関して、この問題は大きく取り上げられるが、現実社会との違いは、それほど大きくないのではないか。このことは、社会の構成員という観点から見れば、その差が殆ど無いことが解ってくる。ネットでの問題を起こしているのは、偽情報や嘘を書き込む人々であり、それに乗せられる人である。これは実社会でも全く同じ状況にあり、唯一の違いがあるとすれば、匿名性を伴うかどうかくらいのものだろう。誰もが同じ発言権を得られることは、この危険性を大きく高める。それを覚悟の上での参加ならば、大した被害も受けずに済むが、そうならないのは何故か。匿名性という非現実感が、顔を見せないことだとすれば、現実の社会でも、対面という機会を選ばすに交わることは、問題を生じることになる。電話での会話と異なり、手紙の交換は独特の雰囲気を醸し出す。それが電子メールとなった途端に、更なる問題が表面化したのは、ごく当然のことだろう。ネット上での情報交換に、ある危険が潜むとすれば、一方的という点にその根源がありそうだ。逆に、頻繁な交換に振り回される人が出るのは、こんな部分への不安に原因があるのかも知れない。

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6月7日(火)−誰でも

 繰り返しの言葉が並び、何なのかと思わされる。「こだまでしょうか」と続く詩は、誰もがといった言葉で終わる。子供たちの心情を表す内容にも思えるが、誰でもの意味は、本当に誰にも通用するのかも知れない。この詩自体からは、これといった感慨が芽生える訳ではないが、世の中には同じ話が一杯ある。
 約束を反古にされたと、怒りの声を上げる主に、どれ位の人が同調しただろう。多くの人は、彼のこれまでの行状を思い出し、また棚にあげていることに、怒りを通り越して、呆れたのではなかろうか。下らない人間と言ってしまえばそれまでだが、そんな下劣な人間を無視すればいいものを、挙って取り上げる連中にも、呆れるばかりだ。一時の暇も無い状況の中で、馬鹿げた騒ぎを引き起こした連中は、舞台から降ろすべきだろうし、無価値な騒動に時間を割くこと自体、国中が白痴であることを証明したようなものだ。こんなことを、と批判する一方で、政局だの退陣だのと、嬉しそうに取り上げている態度には、知性の欠片も感じられない。何が重要で、何を優先すべきかは、彼らの頭の中には無く、馬鹿の一つ覚えのようなことを繰り返す。これ程低劣な状況に陥ったのは、誰のせいなのかと批判する声も聞こえてくるが、現実には、自分たちの問題であるのだ。この騒ぎに罵声を浴びせる人々も、自分ではなく、不特定多数を表す言葉を使う。腹を立てているのは、自分自身であるにも拘らず、それに他人を含めようとする姿勢には、どんな心理が働いているのだろう。責任の所在を問題にした時の、あの行き先の見えない議論と、よく似た感覚が見えるような気がする。

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6月6日(月)−もっと

 混乱の中からもたらされる情報は、必ずしも真実を伝えるものではない。この所、その極端な傾向に苦言を呈してきたが、今回の話はどうしたものだろう。情報伝達の問題なのか、それとも、苦境に陥ったと思われた人々の身勝手なのか、流されている内容は、当然ながら後者に偏るが、それも別の思惑からか。
 足らない供給量の中では、選別を施すことはやむを得ない。優先順位をつけるのも一つだろうが、混乱の中では、更なる混沌を招くことになりかねない。一部の例外を除き、単純な抽選が行われたのは、ごく当たり前のことだろう。今回伝えられたのは、その後の経過とでも言うべきものか、当選した人々がその権利を行使しない状況についてだった。要するに、その他の希望者を押し退けて、権利を獲得したにも拘らず、実行に移していないということだ。様々な事情を並べ、条件の悪化を訴える声にも、前提条件の意味を考えると、身勝手さばかりに目が向く。当人にすれば、困り果てた中で、藁をも掴む気持ちだったものが、掴んだ藁が腐っていたとでも言いたいのだろうか。だが、同じ条件で実行に移した人が居ることは、別の意味を浮かび上がらせる。困っているから、という理由は、こういう状況下では通用しにくい。他人との違いを強調したとしても、抽選という手段で選んだ中では、今更何を、という声が起きるだろう。極端な言い方をすれば、困っている中で、様々な手助けを受けてきて、更なる施しを望む、といった態度に受け取られる。落ち着きを取り戻しつつある中で、この混乱は何を意味するのか。行政の責任が常に問題視される中で、この情報が流されるのは、どんな意味を持つのだろう。

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