パンチの独り言

(2011年6月13日〜6月19日)
(内外、交代、関係者、人気、逆戻り、作り、変転)



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6月19日(日)−変転

 平静を取り戻しつつある社会は、どんな風に映るのだろう。一時の喧噪も、著しい混乱も、次々と繰り出される方策によって、というより、遥かに効果を持つ人々の忘却により、あっという間に、それらの力が萎えさせられたかの如く、落ち着き場所を探し始めた。皆の心のざわめきは、そのままだというにも拘らず。
 だが、この平静の中身を眺めてみると、悪い部分ばかりが目につくのは何故だろう。社会の平穏は、つい先日まで待ち望んだ筈のものだが、それと同時に現れた、経済などの停滞は、これまでに堆積した問題の数々によるものだろうか。一時の混乱は、それを目の前から取り除いてくれたように見えたが、現実には、ほんの一瞬覆いを掛けたに過ぎず、根本解決も、激変による解消も、何も起きていなかった。人々の心に残る不安は、それを更なる苦境へと導くように思える。難しい問題を、棚上げしていた間と違い、暫くの間に、一気にその腐敗が進んだような状態には、折角の平静が、暗雲立ち籠めた中に追い込まれる感覚を覚える。単純に、被災に遭った場所だけに限らず、それ以外の場所にも拡散する事態は、まるで全体が一つであるかのように見えるし、それだけでなく、皆が抱える問題を改めて提示しているように見える。では、あれ以前の状態と変わらぬのか、と問われれば、おそらく、何かが違っていると答えるだろう。その何が何なのかについては、もう少し時間が経たないと見えてこないだろうが、あの変化が人に起こした何かは、必ず表に出てくるに違いない。そんな期待を持ちながら、相も変わらぬ社会情勢に、遠くを眺めたくなる気分となる。無駄な期待という人々の声には、耳を貸さぬように。

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6月18日(土)−作り

 新書を読んでいると、ブームに触れた話題が散見される。確かに、新書を発刊する出版社の数は、ある時期から急増し、此処彼処に平積みにされた、本の山が築かれる。だが、これが本当の流行かと問われれば、多くの読書家は否と答えるに違いない。数と量で勝負をしても、売れ行きの伸びは殆ど見られない。
 そんな状況にも関わらず、次々と参入する業者たちの戦略は、何処にあるというのだろうか。発売直後に在庫が底を尽き、二度と供給されることの無い本たち、こんな状態は、数打ちゃ当たるという図式にしか思えない。更に言えば、現実はそれほど甘くはなく、どれだけ新発売を繰り返しても、当たりが出ることは無く、まるで紙の回収を繰り返しているような状態にある。以前からこんな状態にあったという見方もあるが、最近購入する新書は、その多くが何処か的外れを思わせるものが、異常に多い気がする。こちらの読み方が捻曲がっているのかも知れないが、読み手として、どんな層を対象とおいているのか、さっぱり見えてこないものが多いし、あまりに多種多様な対象を想定し、焦点の絞れない内容に陥る場合も多い。折角の企画力も、作者の文章能力も、この状況で活かされることはまれだろう。活字離れした人々を呼び戻す為、とする策も、その多くは空振りに終わった。更に深刻化しているのは、数少ない読者をも、離れさせる方に向かっていることではないか。中身の薄さや、論点のあやふやさについて、何も明確なことは見えてこない。その中で、何かしらの方策を講じなければ、その勢いに拍車がかかり、一気に、業界が縮小するというのだろうか。もっと腰を据えた作り方をすれば、じっくり読むことのできるものができそうに思えるが、そんなに簡単な事ではないのかも知れない。

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6月17日(金)−逆戻り

 電脳社会には国境がない。その為に、グローバル化という趨勢に対して、その役割が必ず強調される。そこに差がない事は、一目瞭然のように感じられるが、現実はほど遠いものになっているのではないか。仕組みが如何に整備されようとも、それに参加する人々の心に、わだかまりのようなものが残る限り、境は消えない。
 一つの単位として、様々な事が論じられる場には、色々な人々が登場する。それが境界線を消す役割を成すと言われるが、現実はそれ程単純ではない。多くの人々が参加すると言っても、実際には数に限度があり、全体から見れば、ほんの一握りに過ぎないからだ。それでも、急速に勢力を増し、その存在は大きくなるばかりだから、それを強調したい人が居るのも当然だろう。ただ、一部の力を持つ人々が、そんな流れに敏感になる一方で、一般大衆に分類される人々は、その多くが無関心なままなのは何故だろうか。新聞にしても、テレビラジオにしても、不特定多数を対象とするメディアは、旧態然とした様式から脱する事ができず、人気取りを第一とする方針を曲げるつもりはない。一時的には、情報の公開や伝達が避けられない事態が声高に伝えられたが、既に外の世界の大衆にとっては、関心の枠外に追いやられたと言えるのではないか。正確な情報への要求は、あらゆるものより優先されるかの如くの扱いも、関心を呼ばなければ無用の長物と化す。これを機会に、大きな変革が訪れるという期待も、頑に方針を変えぬ人々の力が、依然として強い中では、雲散霧消する運命にあるという事なのだろうか。グローバルな社会の動向を、改めて眺めてみると、百日程前の状態に戻りつつある事に、愕然とさせられるに違いない。

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6月16日(木)−人気

 ベストセラーと呼ばれる書物には、何かしらの魅力があるのだろう。そうでもなければ、様々な考えを持った人々が、同じ内容の本に共感を抱く事などあり得ないように思える。いつの間にか人気が鰻上りとなり、押しも押されぬ存在となるのは昔の事で、最近は、少し違った経過を辿る。誰かの推薦が大きな役割を果たすのだ。
 この誰かの存在は昔もあったのだろうが、最近の誰かは以前とは違い、もっと身近な存在となっている。特に注目が集まっているのは、書店に関わる人々からの推薦であり、身近でしかもそのものに深く関わっているという意味で、その傾向の高まりは納得できる部分もある。ただ、その流れに乗り、読み進めた人たちに、どんな感想が残ったのか、推薦者の声が高くなった割に、そちらの声は余り聞こえてこない。面白かったという声が聞こえれば十分、という意見もあるだろうが、本当に楽しめたのなら、そこに別の形の感想があってもよさそうだ。それが聞こえて来ないのは、その流通経路がないからと言われても、最近のネット環境の整備からすれば、すぐには信じられない気がする。人気を博した書物であっても、こんな経過を眺めていると、その勢いが何か上辺だけのものに思えてくる。但し、これらの事は書物やその著者の責任でもないし、推薦者のせいでもないだろう。どちらかと言えば、情報に流される消費者の責任の方が、遥かに大きいように思う。評判に左右され、自分なりの判断基準を持たない人々の増加は、ネットの登場後急激になったように見える。ただ、これの原因は何かの力で人数が増えた事ではなく、元々そんな傾向のあった人が表舞台に立つようになった事かもしれない。越えられない壁があったところに、それを崩す力がかかり、誰もが容易に流行に加わる事ができるようになった。考えなしでもできる事は、その手の人々には有り難い事かもしれない。

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6月15日(水)−関係者

 何が正しい道なのか、今更ながら判らなくなっている。様々な意見が出され、迷走の果てに何処かに向かい始める。ある瞬間に決まった筈の方針が、次の瞬間には全否定される。外から見る限り、どれが正しく、どれが誤りなのか、殆ど明確にならないままに、選別される過程には、信頼という文字は消え失せたような印象がある。
 あの災害以来、様々な人々が登用され、いつの間にか舞台から消えて行った。意見の相違を理由に自ら退場した人も居れば、集中砲火とも思える批判の嵐に耐えきれず消えてしまった人も居る。果ては、不適切な発言や場違いな行動を原因として解任された人も居るようだ。それにしても、それぞれに理由があり、当事者にとっては当然と思える行動が、外から見ると、全く違って見えるのは何故だろう。そこにある理由が、他の人々に理解できないものだとしたら、それを妥当なものとは扱えない。言葉として発せられるものも、一方的な見方から生じたものに過ぎず、多面的な捉え方に堪えるものとは言えないようだ。放射線量の問題一つとっても、見方の違いは歴然としており、立場の違いから来るものと思える。科学的根拠という観点から、こんな矛盾が起きる筈も無いのだが、これまでの流れを見る限り、根拠の前に立場があり、それに基づく解釈は、正反対の根拠を提出するとなると、事は渾沌としてくる。データに基づく解釈も、その取捨選択の余地を排除できず、賛否両論となるのを見ると、冷静な判断より、感情に流されたものの方が、上になるのを実感させられる。両論が対立してこそ、正当な議論が成立しそうだが、どうも、方針決定という過程が後に控える限り、平行線を辿る議論は収束を見ない。妥協という手段も排除されるとなれば、何の結論も出せず、予め決められた線に向かうしかないとなる。互いの矜持を守る為と思える行動も、決裂しては何も残らない。如何に居座りながら関わりを続けるか。そんな考えが無ければ、責任放棄に過ぎない事を、感じるべきなのかもしれない。

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6月14日(火)−交代

 何とか降ろしは、この国の常套句となりつつある。そのことに気づく人は居るが、それが意味するところに気づく人は少ない。不満が溜まれば、修正液を塗るように名前を消し、新たな名を書き込めば良い。一見当たり前に思える行為に、違和感を覚えることは少なく、数少ない与えられた権利のように受け取っている。
 しかし、この「権利」と呼ばれる代物は、誰が誰に与えたものなのか。主客共に見えてこないものに、何の違和感も覚えないというのは、どんな意味をもつのか。ほんの一握りの人が、そんなことを心配しているのだろうが、騒ぎに加わり、「降ろし」に躍起になる人々には、何の疑問もわかないのだろう。何度も指摘してきたことだが、任せるという行為の真の意味に考えが及ばない人々には、こんなことが当たり前に映る。都合が良ければ持ち上げ、悪くなれば「降ろす」だけのことだ。都合とはどんなものか、形さえはっきりしないものに、振り回される人々には、一時の欲望などと表現されても、思い当たることは一切無い。こんな状況に陥ったのは、平和な時代の継続とその中での経済の崩壊が、大いなる役割を果たした上のことだろうが、現実にはその後登場した宰相の果たした役割が、かなり大きなものに思える。人気を誇った人物は、その数値の割に、何の成果も残さず、単なる混乱の端緒を与えただけだが、極端な言動の一方で、何の仕事も無かったことが幸いし、依然として待望する声が残る。だが、混乱の中での異常な人気は、あの戦争に突入した優秀な民族と自らを呼んだ宰相の例を見るまでもなく、破滅への暴走を想起させ、危うい時代への突入を予感させる。茶番を繰り返す人々には、その力も無いことが幸いなのか、混乱は極まれども、破滅は見えてこない。だからなのか、いつまでも批判を続け、「降ろし」に腐心する人々の地位は、確保されているようだ。

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6月13日(月)−内外

 これほどの騒動でも、内から見るのと外から見るのとでは、大きく異なるに違いない。内側での格差を問題視し、その解消に走り回る人々も、更に視野を広げた時に見えてくる、更なる格差を目にした時、どんな感慨に耽るのだろう。他人の為という気概も、余りに多い対象を眼前に捉えた時、萎えてしまうのかもしれない。
 事故の大きさに注目が集まり、自国民の安全を考えた行動が決定されたとき、内側で不安を感じていない人には、異様な光景や行動が見えていただろう。制限が解除され、ある意味での落ち着きを取り戻すと、そこには何の混乱も見えず、何事も無かったかの如く、以前と同様に、視野から外れてしまうこととなった。設備の不備や回復の困難を伝える情報は、無いなりに多く流れていたと思えるのは、その後の混乱が政治に及ぶに至り、注視の価値さえ見出せない状況に陥ったからに違いない。この先、どんな展開が起こるにしても、既に興味を失った人々に、届く声は無いだろう。あれほど熱狂的に伝えていた世界を繋ぐニュース番組でも、もう殆ど取り上げられることはない。外から見れば、この程度の価値しか無いという意味は、内に居る人間には、全く理解されないだろう。これが、安全とか、安定とか、そんなことを暗示するなどと触れたとしても、不安を煽ることを信条とする人々には、無価値なものにしか見えない。騒ぎがある間だけ、そちらに話題を振り、それが無くなれば、何事も無かったかの如く振る舞う。こういった手法は、既に使い古されたものになりつつあるが、その割には、依然として好まれているのではないか、と思える節がある。内外共に、同じような人種が携わっていることは確かで、彼らにとっての利点は共有されている。その意味で、情報の共有は必ずしも必須ではなく、単に一時の気の迷いに過ぎないのかもしれない。

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