パンチの独り言

(2011年6月20日〜6月26日)
(表現、四散、瀬戸際、人為、変動、共有、安心感)



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6月26日(日)−安心感

 正確なことが理解できないままに、時は流れ続ける。様々な手立てを講じても、その効果の保証は全く無く、暗中模索といった態を否めない。不確実な未来に、不安が募るばかりという人々もいるのに対し、諦めの境地に至った人もいる。どちらが良いのか、誰にも判らないことであり、どうにもならないことなのだろう。
 それにしても、直接的な影響が及ぶかどうかに注目が集まるが、それ以外の要素に関して、余りにも無視し過ぎでは、と思うことがある。科学的根拠が強調され、数値で示せるものに目が集まる。その数値が不確実な推測しか与えないにも拘らず、そんなことばかりに目が向くのは、ある意味、間違った判断を導くことになる。こんな事態に陥っているのは、事象そのものが確率に基づくものであり、人それぞれにその数値が異なることに原因がある。個人差と括ってしまえばそれまでだが、現実には、個人の体の違いだけでなく、精神などの心の違いにもよると言われ、簡単に見分けることができないものとなる。そんな状況で、過去の事象から言えそうなことが大きく取り上げられ、恰もそれがぴたりと当てはまるかの如く紹介される。別の見方からは、全く違った結論が導かれるにも関わらず、立場の違いが論じられることも無く、ただ、一つの見方が絶対かのように。それにしても、心の問題は更に事態を複雑にしている。気の持ち方次第とすると、無責任な発言のように扱われるが、現実には、病は気からという言葉の通り、体調への影響は小さくない。不安ばかりが強調され、それを増長させる情報が選択的に流される。そんな中で、健康を取り戻す為に必要なことは、精神の余裕を取り戻すことにあるのではないか。その為に役立つことは、周囲に幾らでも転がっている。

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6月25日(土)−共有

 情報公開とか情報伝達とか、そんな言葉が飛び交い、その重要性を力説する声が届く。情報を手に入れることが、人を出し抜いたり、人との差を付ける為の第一歩とする向きもあるが、その一方で、ガセネタを掴まされてしまえば、徒労に終わることとなる。正しい情報を受け取る為の要素は、そんな意味で重要となるのだろう。
 情報となると、その源に全ての責任があり、そこからの伝達経路には、ただ伝えるだけの役目しか無いように思われている。しかし、少し見てみれば解るように、次々に出される大量の情報が、伝わる度にその姿を変えることは、珍しいことでもなく、それに振り回された経験を持つ人も多い。情報の質を吟味する力をつけることは、こんな状況では必要不可欠であり、その為の訓練も時に必要となる。末端に位置する一般庶民としては、まずこの点を克服する必要があり、この能力を欠いた人の多さが現代社会の抱える問題の一つとなっている。その一方で、正確な伝達が行われさえすれば、末端で苦労する必要も無い、という考えに基づけば、伝達経路の整備も大切な要素となる。恰も機械的な整備に思える話だが、現実には関わる人間の話であり、最近の流行からすれば、コミュニケーションと呼ばれるもののこととなる。この能力の向上を謳った話は、数多編み出されているものの、現状を鑑みれば、未だに効果が上がっていないことが判る。どうも、特殊な世界の情報を伝える為に、特殊な能力が必要との立場が強く、それにより、的を外す話が多いのが原因のようだが、様々なものが細分化された結果、こんな状況に陥ったようだ。倫理という話でも、恰もそこに様々な倫理観があるような扱いがなされ、それぞれを別々に身につけねばならないとする、摩訶不思議な話が横行しているが、それと酷似した傾向にある。文系理系どころか、それを更に細かくしたものに、どんな特殊性があるというのか。人と人の理解には、共通の論理性が必要なだけで、それがあれば十分なのだ。

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6月24日(金)−変動

 平均という言葉を聞く度に、無意味な話のように思えてならない。節電が強調される中、それに最も大きな影響を及ぼす天候は、こちらの期待通りには変動せず、急激な変化が襲いかかる。こんなことが起きる度に、平均との差が論じられたり、季節のずれが紹介されたりする。だが、それで今が変わる筈も無いのだ。
 平均値はある現象を現す為の、最も信頼できる値と思う人もいるようだが、現実には、全体の変化を小さくするだけで、大凡の様子を分かり易くするだけのことだろう。にも拘らず、こんなことが論じられる度に、値が紹介され、それが恰も正しい値かのように扱われる。だが、現実は目の前にある訳で、これまでの値の蓄積が、現実に意味を持つ訳ではない。四季の変動を現す為に、これらの値が有用であるのは間違いないが、日々の変動は常に例外的なものであり、偶々平均値と一致したからと言って、それが何かの意味を持つ訳ではない。なのに、そういった報道に一喜一憂したり、異常な暑さや降雨量に、がっかりしたとしても、何か意味を持つようになる訳でもなく、余り揺さぶられないようにした方がいいのではないか。とは言え、突然の暑さに対して、何か備えられることも無く、まして、節電などという大号令の下では、ただ我慢を決め込むしか無い。だが、だからといって、体調を崩すまで、というのでは、何の意味も無い。熱中症という言葉が定着してから、もうかなりの時間が経っているが、依然として、多くの犠牲者が出る。何故、と思うのはおかしいのかも知れないが、基本的には、自分の体の変化に気付くかどうかが鍵となる。それができなかったとしたら、仕方の無いことかも知れない。自分のことは自分で、という立場からすると、僅かな変化にも気を配ることが必要で、我慢している中で、それだけは忘れぬように、ということか。

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6月23日(木)−人為

 甚大な被害を及ぼした事故を受けて、世界的な議論が始まった。その主体となったものは、これまでの状況を一変させ、ある基準に基づく検査の実施と設備の整備に関するもののようだ。しかし、各自の判断に任されていた環境から、突然何らかの束縛が施されるように見える為、新たな負担を嫌う向きから、反対の声が上がっている。
 特殊な施設であるだけに、元々様々な制限が施され、更なる規制の必要性は余り検討されていなかった。その為、世界的な組織の権限は、矮小化され、はりぼてと揶揄されるほどのものだった。この状況を一変させた事故は、従来のものと大きく異なり、施設内部の問題だけでなく、外部との関わりが重大な影響を及ぼすことを示した。人間が作り上げた施設では、全ての制御が人間が編み出した仕組みの下に行われる。その為、作業に当たる人々の判断の誤りが、大事故へと繋がる問題は、これまでに何度も指摘され、従来の重大な事故の殆どは、まさにこの点が端緒となって起きていた。今回のものも、一部には人為的なものと指摘する声があるが、判断の誤りが誤操作に繋がった従来とは異なり、設計上の問題や決断の遅延が取沙汰され、そこに関係者の誤りがあるものとされているようだ。人災という言葉で括ってしまえば、同じ部類に分けられてしまうものの、その内容は大きく異なり、その言葉を好んで使う人々には、別の思惑があるようにしか思えない。危険性を指摘した話についても、事故後の解釈は様々であり、そこにも思惑が見え隠れしている。こんな状況で、人が関わったものへの人の関与の大きさを議論しても、殆ど無意味にしか思えない。人為的とか人災とか、そんなことが問題なのではなく、これが今後の教訓として活かせるかどうかが、最大の問題だろう。その意味で、大国で起きた人為的な事故では、馬鹿げた誤りと片付けられたことが、何処でもあり得るとされる部分に、今回のものの意義が見出される。世界とは、国内も含めた意味で。

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6月22日(水)−瀬戸際

 若い人々が社会に出るにあたって、最も気になっていることは、何処に就職できるかということだろう。経済の停滞が長引き、好転の兆しが見られないことは、将来を考える上で、大きな障害を感じさせられる。自分なりの努力は欠かせないとしても、状況の悪化は如何ともし難く、悲観する声ばかりが大きくなる。
 メディアが伝えるものをそのままに受け取れば、上に書いたような状況が巷に溢れている筈だが、大多数の若者は何らかの職に就いており、それ自体にはある情報操作が施されているようだ。不安の煽りは、常套手段となってから久しいが、個々の人間に関わりのある問題と、就職問題は実感を抱かせるものとして、都合のいい材料を与える。実態がどうであれ、一人一人を取り上げれば、問題は枚挙の遑も無い程となる。それを糧に、様々な問題を指摘するのは、容易いことと言えるだろう。だが、本質的な問題は、此処にある訳ではない。それより、重要な問題の存在を脇に追いやり、目を逸らさせることこそが、彼らの真の目的かも知れないのだ。それにしても、労働問題で以前大きく取り上げられたことが、最近再び表に出てきたにも拘らず、何故、問題として目を向けないのか不思議に思う。終身雇用が忘れ去られたものとなり、一時雇用が当然と受け取られることとなったのは、経済状況の悪化によるものとされるが、不安定な動向の中で、計画が策定できないという事情も、そこにあるのではないか。最近、再び期間従業員なる言葉が紙面に現れてきたのは、生産の拡大という第一の原因があるものの、その一方で、それが一時的にしか見込めないことを示している。あれほど騒がれた問題が、これ程簡単に見過ごされることに、何を考えるべきか、当事者のみの問題なのか。

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6月21日(火)−四散

 優しさという言葉の重さが急激に増しつつある。誰かの為とか、弱者への配慮とか、そんな表現が並ぶ度に、そこにあるべき「優しさ」に思いを馳せるが、どうも収まりが悪い。発言者の表情には、その思いが溢れているように見えるが、目の奥に見える彼らの意思は弱々しく、すぐに心変わりしそうに思える。
 復興の過程で最も重要なこと、という問いに対して、多くの人々が、現地の状況に則した対応の必要性を強調する。的外れの施策は無駄以外の何ものでもないことは明白だが、現地の様々な要求に応えることが唯一最大の課題となってしまっては、国としての存在は意味をなさない。確かに、原状回復が一つの目標であり、その為の方策が優先されるのも、やむを得ないことには違いないが、全てが元通りに戻る筈も無く、それを検証する手立ても無い。そんな中では、個別の要求に応えることより、全体の均衡を念頭に置いた調整の必要性が、特に高くなるに違いない。状況を考えもせずに、困っている人の為と称した方向に走るのは、現実には、誤った選択を迫ることになりかねない。この手の言葉を好んで使う人々に、少しでも思慮深い態度が現れれば、全く違った見解に至るだろうが、そんな能力を望むのは無理というものだろう。同じような状況にあるのは、この役割を負う官庁の新設だが、これについても、現地重視に偏る意見が取り上げられる。この判断基準にしても、浅薄な考えばかりが目立ち、事柄の無理解が産む偏見が、恰も賢慮の如く扱われる。各地の問題解決において、それぞれの現場での役割の重要性は、何よりも優先されなければならない。だが、国としての事業を考えた時、各地に散らばった役所が、状況に則した施策を実施すれば、全体としての調整は棚上げされる。中央との調整ができない状況が、何を意味するのか考えるべきだろう。

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6月20日(月)−表現

 文章力の不足を憂う声が大きい。表現の手段の一つとして、その重要性が強調される一方で、自分の思いを伝えられない人々は、自らに足らない能力をどう獲得すべきかに、悩み続けるようだ。メールという表現手段は、パソコンを使おうが、携帯を使おうが、どちらにしても文章表現とは異なると受け取られている。
 何が違うのか、という点に関しては、人により随分と解釈が異なる。話し言葉の延長だから、という指摘がある一方で、仲間間での情報伝達を問題視する意見もある。どちらにしても、彼らが描く文章表現とは、全く違ったものとの受け取り方だろう。文字が並ぶという意味では、何の違いも無い筈なのに、その周辺の事情により、全く異質のものと見なされるのは、理解し難い部分もある。文章にするものの質を問題とする意見もあり、自らの考えを確立することの大切さが、その為に強調されることがある。この辺りの事情は、鶏が先か卵が先か、といった様相を呈しており、すぐに解決できるものではない。どちらを先にするかが、問題かのような受け取り方もあるが、よく判らないようだ。ものを書く力は、良い文章を読むことで身につけられる、という話は、昔からよく言われるが、その真偽は確かではない。自分の思いを書く練習を重ね、ある水準に達してこそ、他人の文章を味わうことができるという見方もあり、何も無い所への入力は、殆ど無意味ということになる。これについても、どちらが先かという問題になり、愈々悩みが深まるばかりだろう。だが、多くの人が口語にしろ文語にしろ、人に何かを伝えなければならない訳だから、何しろ始めることが第一となるのではないか。躊躇させる話をするばかりでは、何も始まらないし、させないようにしているだけではないか。

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