パンチの独り言

(2011年6月27日〜7月3日)
(要、節電、埒外、上塗り、お家、訪問、復旧)



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7月3日(日)−復旧

 被災地として報じられる映像は、何処も悲惨なものばかりである。効果を上げる為とは言い過ぎだろうが、強い印象を与え、助けが必要なことを訴える為には、こういった演出も必要と言われる。だが、カメラの後ろに広がる光景は、全く異なるものであり、そこに復旧を目指す人の手が入れば、何の変哲も無いものとなる。
 実態を見ることの大切さは、こんな時にもよく触れられる。他人の目を通した見解は、その人のものとはならず、誤解や曲解が混じるものとなり得る。そんなことをするくらいなら、自らの目で眺めてみれば良い。野次馬のように出かけるのはどうかと思うが、見ておくことの大切さは、十分にあるだろう。出かけた場所は、近海で獲られた魚介類を直売する所として、震災前にはかなりの人を集めていた。しかし、津波の被害を受け、岸壁が壊れたり、店舗が水に浸かるなど、人を集めることは難しくなった。更に、それに追い討ちをかけたのは、その海域の汚染の状況であり、風評被害と呼ばれるものは、かなりの影響を及ぼす。その場所までの道筋は、河口付近の洪水を防ぐ為の土嚢が積み上げられ、工事の知らせなど元通りにはなっていないことを実感させられる。その上、渋滞が起こると示されていた道路は、交通量も少なく、いやな予感を抱かせた。予想通り、店舗が建ち並ぶ前に広くとられた駐車場は、一部しか使われず、店でも売り子の数が客を上回る様子、復旧がなっていないことを思い知らされる。売られる商品も、鮮魚の多くは他県のもので、貝類も何処か別の所といった様子。新鮮な地物を、といった雰囲気は感じられない。それでもやってきた客たちは、冷蔵用の箱に生魚を詰めてもらい、抱えて、慌てて帰るようだ。目的を果たすだけの旅なのかも知れないが、長居は無用といった雰囲気も漂う。一方で、一夜干しのイカを買う姿には、風評など微塵も感じられない。

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7月2日(土)−訪問

 地震と津波による被害があれほど大きかったにも拘らず、その話はその後に起きた別の事象により、脇に追いやられてしまったようだ。ただ、被災地は大きく広がり、それぞれの地域の状況は大きく違う。事情の違いは、対応の違いに現れ、辿る経過も大きく異なってくる。一つのことしか見えない人には、それだけで難解か。
 色眼鏡を通して紹介される光景では、こちらの見たいものが見える訳でもなく、筋書き通りの展開が広がるだけだろう。直接現場に行ってこそ、真実を見ることができる筈、という意見も、現実を目の当たりにした時、どんな感想へと繋がるのか、その場に臨んでみないことには、判らないのだろう。物見遊山に出かけると言っては、現地の人々に失礼だという意見もあるが、出かけないことには何も判らない。そんな光景を自分の目で確かめることで、何かが見えてくるのかも知れない。それだけじゃなく、物見と言っても、そこでの活動に何かできることがある。毎週末、出かけてみたいと思いつつも、中々時間が取れないことに、苛立ちを覚えていた。それでも、機会を掴むことさえできれば、と思いつつ、いざ出かけてみようと思う。一人の人間にできることは、本当に小さいものに過ぎないが、それが沢山集まれば、と信じて動くことしかできない。諦めるのは簡単だが、そんなことをしても始まらない。何かを続けることで、何かが始まることもある。始めることで続くこともある。そんなことを思いつつ、まずは目の前のことから、といったところだろうか。

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7月1日(金)−お家

 国の財政が破綻しかかってもなお、それを回避しようとする動きは機敏とは言えない。ぎりぎりの過半数で支援を得る条件を通したとは言え、国内の事情は何も変わっていない。逆に、これをきっかけに、外圧に負けたことを発端とし、反発が更に高まれば、自律回復の可能性は殆ど無くなってしまいそうだ。
 対岸の火事としか映らない他国の窮状も、社会状況、経済状況などを比べれば、全く違った状況だけに、遠くから眺めるだけとなる。だが、毎度お馴染みのように繰り返される、多額の借金の話や大災害からの回復の難しさなど、悲観的な要素が山積する中で、他人事のように振る舞うのも、そろそろ難しくなっている。支出が収入を上回り、それを補う為に借金を繰り返す。一般大衆がこれを行えば、あっという間に破綻となるが、国のやることには別の原理が働くらしい。ただ、あの国の事情を見ると、何処かに限界があることは明白で、いつまでものんびりしていられないように思える。収入を増やす為の方策は、緊急時と無関係に編み出す必要があり、その大部分が税収となれば、率の上昇が手っ取り早い。ただ、今の議論でも厳しいように見えるが、消費を冷やすことが直接的に起きる話はどうかと思う。それより、所得そのものや法人の収益にかかるものへの検討を進めた方が、余程まともに思えるが、その気配さえ無いようだ。特に後者は、他国に比して既に高率と批判される中では、壁が高そうに見える。外資の撤退が時に話題となるが、これを機に逃げられては、という声もある。だが、既にその気配があるようで、ある外資は撤退を決めているとの噂がある。鎖国的経済と揶揄されるようだが、何処に問題があるのか。自国との違いを主張されるだけでは、何も見えない。標準と呼ばれるものも、根拠が異なれば、違うのは当たり前となる。金儲けにならないから、という理由は分かり易いものだけれども。

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6月30日(木)−上塗り

 身近な存在が俄仕立ての知識をひけらかせば、その浅薄さを糾弾するに違いない。だが、マスメディアの世界では、こんな人間を重用する仕組みが働いているようだ。一部の良識ある人々を除けば、自らの主張を通す為に、あらゆる偏重を仕掛け、思惑通りの展開を広げてみせる。浅はかとしか思えぬ行状だ。
 経済が全てであるかの如く振る舞う人々は、寄生虫のように混乱する社会に巣食っている。不安定が彼らの栄養となり、人々の心の安定は、忌み嫌うべき対象となる。薄っぺらな知識と論理は、冷静な判断を下せば、苦もなく退けられるものだが、苦境に陥った人々には、救いの声の如く響くのだから驚きだ。得体の知れぬ提言が出される度に、その価値を見極めなければならないのは、単なる時間の無駄としか思えぬが、情報の流れを司る人々が、仲介を買って出るような状況では、無視や黙りを決め込む訳にも行かぬ。新たな事象が明らかになる度に、次々と繰り出される新提言には、浅薄さだけが目立ち、確固たる考えは見えてこない。電力供給の問題にしても、経済効果だけでは十分な分析ができないことが明らかになりつつあるが、相も変わらぬ姿勢には、その能力の低さを実感させられるのみだろう。まさか、以前には気付かなかった数値を、新たに採り入れたのだから、新機軸を編み出したとでも思っているのだろうか。視野の狭さばかりが目立つ中では、様々な可能性を検討することは不可能としか思えぬ。それぞれに一長一短があり、単純に一つに頼ることを避けるべきなのは、彼らの得意とする分散投資の話からは、明白である筈なのに、こんな時には、問題となったものの欠点を強調し、得体の知れないものへの期待を膨らませる。目を覆うばかりの論法には、鍍金の剥げかけた安物を見る気がする。

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6月29日(水)−埒外

 It's not your business.とでも言いたくなるようなことが、巷に溢れている。何にでも首を突っ込み、不平不満を並べる姿には、知性の欠片も感じられず、呆れてしまうのだが、彼らの表情には、自らの優位を誇るような、傲慢な姿勢が現れている。直接関係ないからこそ、身勝手な発言ができるだけなのに。
 直接選べない人の去就に口出しするのは、人間の下らなさを見る思いがするが、その一方で、不安を大きく掲げて、感情的な意見を押し通そうとする姿にも、無知の極みを見る思いがする。彼らの一言には、何の重みも感じられないが、それを大層な形で紹介する人々には、どんな思惑があるのだろうか。興奮状態や正気を失った状況で、冷静な判断を下すことは、非常に難しいのだが、その姿を衆目にさらすことについては、何らかの抑制をかけるのが、ある時代までは当然だった。ところが、先んじた人々への羨望からなのか、我も我もと同調する動きに、無知の問題だけでなく、無恥の問題が急拡大していることが判る。思惑の存在は、その話題への導き方を見ればよく判るが、例えば、世論調査においては、設問の仕方によって、如何なる結論へも導くことが可能と言われる。特に、賛否を問う形式では、二者択一が基本となるだけに、両極端な意見に集約することが可能であろう。その手法の危険性を和らげる目的で、中間的な答えを用意したとする向きもあるが、「どちらかといえば」と括ってみたとしても、最終的に賛否に纏めるのだから、結果は同じとなる。実際には、回答者の意図と違う方向にさえ誘導することが可能となる訳で、危険性は更に増したと言うべきだろう。尻切れとんぼの調査においては、回答の根拠も準備されたものとなり、思惑は満たされる。そんなものを信じるかどうかは、受け手の問題と開き直られては、無視するしか無いということか。

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6月28日(火)−節電

 十分な供給のある中で、節約を訴える声は殆ど無視され続けた。将来の為とか、自分たちの為とか、様々に表現されたとしても、直接的な関与が見えない中では、無視とか黙りとか、そんな方に向かうのは当然の帰結なのかも知れない。これまでに無く圧力が増すにつれ、突然起きた大合唱は、これまでと違うのだろうか。
 被災地に限られず、国中に広がった制約に、不満の声が起き始めた。だが、その一方で、必要性を重視する声も起こり、その時期が迫るに従って、せめぎ合いが強まるばかりだ。だが、個人にとって、どれほどの意味を持つのか、現時点で見極めることは難しい。意識の問題と言ってしまえば、以前と同じ状況に向かい、効果が見込めなくなる。身勝手な行動が、社会的な問題へと発展するとすれば、自覚を促すといった生温い対応では、それを防ぐことが難しくなる。それにしても、節電とは何をすることか。電化製品を買い替えるなどといった安易な考えは、不況に苦しむ業界にとって、救世主となるとの解釈もあるが、それ自体が持ち主の意識を転換することには繋がらない。更に、経済停滞が給与に響くとなれば、無い袖は振れないという状態になり、意識の方で何とかするしかない。服装を変える、小さな商品で環境を変える、気分を変えるなど、様々な方策が紹介されるが、気の持ちようなどと言っても、そんなに簡単に片付くものでないことは、明らかだろう。職場の冷房が制限され、出先の環境が厳しくなり、工夫が功を奏するかは、もう暫く時間が経たないと見えてこない。照明が消されて暗い中、冷房も入れられず、気温の上下に一喜一憂する。よく考えれば、そんな時代もあったのだが、さて、思い出すより、文句を並べる方に、頭は動きそうな気配がする。

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6月27日(月)−要

 政治が迷走する姿を見て、落胆の声が起きた頃はまだまともだった。いつの間にか、その話題に引きずり込まれ、同じように馬鹿げた話題に心躍らせる。やはり、愚民政治とはこんな状況なのだろう、と思ってしまうのは、あまりに勝手な見方だろうか。そんな中でも、宰相の任期に関わる話は、愚の骨頂としか思えぬ。
 直接選挙で選ばれぬ人に対して、兎や角文句を並べること自体、現代人の自由と責任に対する無知を現すものに見える。では、これを機会に直接選べるように、と言い始めるに至っては、その代償に対する認識は如何に、と問い質したくなる。海の向こうの大統領制度は、結果としては間接とは言え、手段としては直接的な形で選挙が行われる為、魅力を感じる人は多い。だが、その任期が決められていること、余程でなければ、途中で挿げ替えはできないことに、気付かぬ人が多い。今の大合唱を眺めていると、自分たちの権利でないものを、まるでその力があるかのように振る舞い、その一方で、何の責任も感じていない姿が満ち溢れる。こんな連中が、そんなことを主張したとしても、それに耳を傾ける必要などありはしない。まして、制度改革に話が及ぶとなれば、そこに必要な知識を、まずは身に付けて、と促したくなる。身勝手な投票行動が招いた混乱も、入れさせた人間の落ち度としてしまう、ご都合主義の心理には、こんな説明を聞く気など起きもしない。下らない人間を画面に登場させることで、自らの存在を輝かせ、愚民への安心感を約束する人たちにも、今更何を言っても始まらない。こんな状況を無視することこそが、今一番のことかも知れぬ。

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