パンチの独り言

(2011年7月4日〜7月10日)
(硬軟、自筆、苦言、無軌道、吟味、愉快、再演)



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7月10日(日)−再演

 科学技術の負の面が際立つことで、それを捨て去る気持ちが強くなるかと思えば、別のものへと目を向ける。現代人には、便利なものを手放すほどの勇気はないらしい。紙面や画面で紹介される話には、かなりの歪曲が見られるから、これが本当の姿とは誰も思わないだろうが、落ち着きの無い内容には、別の面ばかりが目立つ。
 人間の営みの特徴として、科学と共に並び称せられる芸術に関しても、甚大な災害は大きな影響を与えた。日々の生活に追われ、直面する問題から目を逸らせることができない状態では、目も耳もその機能を失ったかのように思われる。だが、突然流れされた音楽に、ふと手を止めて聴き入る姿には、全てを失ったのではないことを気付かされる。受ける側の事情は、様々な要素を加えて、送り手に伝えられるから、それまでの自信にあふれた姿からは、想像ができないくらいに影が薄くなる。そんな悩みの淵から浮き上がる姿に、感動は一層増すこととなるのだろう。そんな時期を過ぎ、表面上は元の生活に戻った人々が、音楽という芸術と接した時、どんな感覚が湧き上がるのだろうか。以前紹介した音楽家が中心的な役割をする楽団が、著名なピアノ弾きを迎えて開かれた会は、期待以上のものとなり、演奏する側も聴く側も大いに楽しんでいるように見えた。満席の会場で、鳴り止まぬ拍手に応え、何度も楽器の前に座り直した彼女の、力強い演奏には、大いに勇気づけられた人が居たのではないか。エッセーでも有名になった人は、最近は特に後進の育成に力を入れているらしく、審査員としての姿が何度も映される。その思いが溢れる演奏は、まるでこんな風に弾くものだと言わんばかりの雰囲気で、気持ちがよかった。やはり、芸術も科学も、人の営みとして必要なものだ。

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7月9日(土)−愉快

 夏本番との声も聞こえるが、例年とは様子が違うとの声が加わる。電力供給の減少は、様々な方面へ影響を及ぼし、快適な暮らしの維持は難しくなる。金さえあれば、という話は何処かに追いやられ、脅迫的な雰囲気さえ漂う社会情勢に、冷や汗が出るどころか、本物の汗が滝のように流れる状態となる。
 そんな中で、人間の営みとは殆ど無関係に、自然の営みは例年の如く流れていく。ジィーという音に、近年数を減らし続けている蝉の声と気付くのに、結構な時間を要したのも、こちらに余裕が無くなっていたせいかも知れない。カナカナカナは、当地ではお馴染みの声だが、時間と時期が少し違うように感じるのは、余計な要素ばかりを思い浮かべるからかも知れない。梅雨の最中の高温に、真夏への不安を抱く声が高まったが、そんな繋がりなどある筈も無い。温暖化の話もその一つだが、どうも人間は悪い方の話を繋げて回ることが得意なようで、何事も悪化の一途を辿るような筋立てとなる。実際には、それぞれが無関係に起きていたとしても、無理矢理に繋げようとすれば、何とでもなることだろう。特に、悪い話は注目を集め易く、それを第一と心掛ける連中にとっては、この所の流れはまさに好都合と言うべきものだ。そんなことより、金も電気も使わずに、涼しさを感じる為の工夫を、広げていくことの方が余程大切なのではないか。気分が落ち込んでしまえば、落ちていく体力を回復する手立ても出てこない。気の持ちようという話も、皆で悪い方に向くばかりでは、成り立たないのではないか。暑さの中でも、自然を楽しむ心を失わず、偶には避暑と称して、涼しい場所の夏を楽しむのも一つだろう。愉しみを失わずが第一となるのでは。

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7月8日(金)−吟味

 感情が前に立っている時に、反論を唱えても効果はない。感情を逆撫でするような行為に対し、怒りを露にする態度には、多くの人々が賛同する。だが、こういった場面で、その行為の真意に関して、議論されることは殆ど無い。言葉や行為の汚さばかりに注目が集まり、中身を冷静に眺める余裕は全く無い。
 あっという間に居なくなった人の発言は、確かに礼を失するものであったばかりか、その後の対応でも深慮ある見解は出てこなかった。発言者本人の資質の無さが、根本の問題と受け取る向きが多いが、発言の中身に重要な要素が含まれていたことに、目を向ける話は全く出てこない。辞めてしまった人の言葉には、何の重みも無いという話は当然とは言え、怒りから何も見なくなる経過には、またかと思えてしまう。別種の話だが、再稼働の賛否を問うた話も、「やらせ」なる行為が明らかとなり、罵声にも似た批判の声が上がっている。この行為が正当なものと主張する気は毛頭ないが、果たしてその影響がどれほどのものだったのか、という分析が出てこないことに、相も変わらぬ感情論優先に呆れてしまう。都合のいい数字は大いに利用し、都合良く処理を施した数字を多用し、そんなことを繰り返してきた人々は、数字の真意を読み取る力に大いに劣っているようだ。結果を示す紙面にも、その辺りの議論が加えられる訳でなく、ただ「やらせ」の嫌らしさと誤りのみを論じる。現実には、賛成が反対の約二倍あったようで、賛成の中に「やらせ」と思われるものが一割あったとのこと、となれば、それを排除することで、今回の調査による住民の真意が汲み取れたとすれば、賛成が反対の1.8倍ほどだったとなる。だとすれば、何が言えるのか、愚民に囲まれた中では、とても言える状態に無いということか。

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7月7日(木)−無軌道

 意味不明なことが繰り返され、その度に振り回されることに不服の勢いが増す。権力を持つ側に対して厳しい態度を取る人々は、この時ばかりと一貫性の無さを糾弾するが、意味不明に対しては、何の理解も無いのだから、的を射る勢いは無い。迷走に振り回されて、それに付き合う人々を、眺める気はこちらには無い。
 本当に迷走だと思うのなら、その悪影響を減らす工夫をすればよく、一つ一つの事柄に一々つきあう必要などある筈も無い。にも拘らず、この付き合いの良さは、迷走そのものが、実際には、本当の意味での方針転換の連続なのか、はたまた、真意が理解できぬことへの不満の現れなのか、明確な答えの無いままに対応している為ではないかと思える。答えが見えないのであれば、暫く様子を見た上で、真意を探る必要が出てくるのが当然だが、当たり前のことさえしないことには、あちらの批判を繰り返す為に、この機に乗じてといった目論見がありそうに思える。唾棄すべき行為と思うのなら、批判の価値さえ無く、黙殺すれば済むように思う。それをしないことに、どれほどの意味があるのか見えてこないが、これについても、劣悪な水準にしかない人々には、手近な玩具の程度のものなのかも知れぬ。他人の批判をするのは楽なもので、自らの考えを披露する必要も無い。反体制という立場は、何も実施しなくていいのだから、気楽な商売であるとは、昔、野党を揶揄する言葉として、頻繁に使われた。使った立場の人が下野した結果、同じことを更に劣化した形で繰り返すとなると、外野に居る人間には観戦の価値無しと見なさざるを得ない。無責任は難詰すべきだが、後ろから叫ぶだけでは、同じ無責任に陥るだけのことだ。

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7月6日(水)−苦言

 言葉の重さを実感させられたのではないか、と思える話が伝わってきたが、流れる情報を見る限り、関係者たちにはその実感が無いのかも知れない。言葉の遣り取りは、一方的なものである筈も無く、何か失敗をしでかしたとしても、揚げ足を取られて失脚することもあれば、相手によっては救われることもある。
 話し合いという場での重要な要素が、ある時代から大きく変化したのではないか、と思うのは特にこんな時だろう。論争を避け、静かに相手の主張を聞き、その場を丸くおさめる。こんな気持ちが重視されたのは、言い争いを避ける心理が強く働くからなのだろうが、それにしても、と思うことが度々ある。売り言葉に買い言葉、となれば、単なる喧嘩にしかならず、話し合いそのものが成立しない。確かに、不遜な言葉や乱暴な言い回しに、怒りを抑えるのが精一杯ということもあるだろうが、それが果たしていい大人の対応なのか、と思ったりする。最近の流行は、その場では口を噤み、我慢を決め込んでおき、自分だけが発言できる場を設けて、不平不満を打ちまけるという手法だ。喧嘩をしなかったということで評価する向きもあるが、互いに言葉を交換するという大切な要素を抜きにして、一体どんな効果があるというのだろう。一方的な罵倒に耐えたのだから、此処での反撃は当然とでも言いたげな表情に、どちらも身勝手な行動だと思うのは、今時の考え方ではないのかも知れない。だが、話をすることの真の意味を考えれば、こんなやり方は明らかな間違いであり、意見の交換など叶わぬ夢に過ぎない。確かに、きっかけを作った人間の責任は大きいが、それを全てとする動きには、大人の対応は感じられない。上下とは無関係に、窘め方を知らぬ人々に、呆れるのみとなる。

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7月5日(火)−自筆

 文字の力などと書くと、人気ドラマの話と片付けられてしまいそうだが、怪奇現象に近い話ではなく、ごく日常的な話となればどうだろう。電子メディアの上の文字は、一瞥の価値しかないだけに、力といった展開は望めないものの、自筆の手紙や出版物となると、そこに何かしらの力が潜んでいそうな気がしてくる。
 とは言え、自分で書いたものを眺めていても、そこに力を感じることは殆ど無い。それを受け取った人や読んだ人に影響を与えるかどうかが、大きな問題となる訳で、出す側に居るだけでは、何の実感も起きないだろう。そんな経験が無いからと、こういった意見に反対する人もいるようだが、感覚を持たない人を優先する必要は無いだろう。社会全体として、こういった思いの遣り取りが成立していれば、それだけで十分なのではないか。評判に振り回されるばかりで、自らの判断を入れる気もなく、感動に浸る人々には、このような感覚が芽生えることは期待できない。外から受けるばかりで、外に影響を与えることの無い人々には、これが当然のことなのかも知れないが、いずれにしても、同じ人間なのだ。文字や言葉に影響されると言っても、その受け手になってばかりで、それも他人からの感化となれば、そこには一人の人間の存在も無い。自分自身の存在を意識することも無く、ただ漫然と暮らし、日々の生活に追われるのでは、社会の一員としての資格も無いのではなかろうか。少しずつでも良いから、自分なりの考えを広めようと努め、文字を通すことでその力を得る。大層なことと言う人々には、何が難しいのかと問い質してみたい。綺麗な文字を書くのでもなく、重みのある言葉を書く訳でもない。ただ書いてみることが、始まりなのだと思う。

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7月4日(月)−硬軟

 悲惨な状況を示す画像に、心を痛めた人も多い。だが、それが全てであるかの如く振る舞うに至っては、今更ながら考えさせられる。情報を正確に伝えることとは、あれ以来何度も強調されたことだが、源への批判に比べ、仲介者に対する批判が、驚くほど少ないのは何故だろう。乗せられていることに気付かぬからだろうか。
 大きな被害を受けたことは事実であり、直後の映像にはその様子が映されていた。しかし、人々はその状態に甘んじること無く、少しずつでも元に戻そうと努力を続けた。偶に流される光景には、そんな中で笑顔を取り戻しつつある人々が居たが、その他大勢の関心を呼ぶものではなかったらしい。より多くの支援を望む声には、明るい情報より暗い情報の方が歓迎されるようで、その通りの編集が行われることも多い。だが、心配を募らせて現場に向かった人々からは、安堵の声が漏れ、杞憂に終わったことに喜びを隠せない。それでも批判が出ないのは、悪くなる方向でなく、良くなる方に話が展開したからだろう。期待を裏切るにしても、それがどちらに向かうかで反応が一変する。不思議に思えるのは、こちらが冷たい反応を繰り返すからか。情報の受け手にとっては、感情の起伏が大きな問題となるが、送り手がそればかりを考えていては、正しい伝達は望めない。折角、源で全ての事柄が送出されたとしても、それを篩にかけた上で皆に伝えられたのでは、元も子もなくなる。悪化を恐れて、嘘八百を繰り返した戦時の伝達は、逆の典型として知られるが、今の状況は、正反対の方針に則り、安心させないような操作が繰り返される。経過報告とは、上手くいっても障害が起きても、良いも悪いも全てを含むものであって欲しいものだ。

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