パンチの独り言

(2011年7月11日〜7月17日)
(盲目、活字、戸惑い、転換、暗愚、安全、賢者)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



7月17日(日)−賢者

 週末は成る可く自然の営みを、という思いで続けているが、ただ暑いだけの日々では、何も思い浮かばない。生きているのは人間だけでなく、あらゆる動植物も同様だろう。ただ、余りの暑さに動物たちは姿を消し、植物たちは葉を縮めて耐える。少しでも暑さを和らげ、生き長らえる為に、精一杯のことをしている。
 葉が萎れた姿は、真夏の植物を見るとよく判る。樹々の葉は、そんな形に変化しないが、花壇や畑で見かける草花や野菜は、ぐったりと疲れたような姿をさらす。まるで人間を眺めるようだと思うが、日陰に逃げたり、屋内に逃げ込める人間と違い、彼らはそこにそのまま居るしか無いのだ。遥かに苦しい状況に追い込まれているに違いない。ただ、中に不思議なものを見つけた。落花生はその実のなり方からして、不思議なものなのだが、暑い最中の行動に、更なる不思議を見る思いがした。植物が育つ為に光合成が必要となるが、葉に光を受けようにも、この暑さでは葉を広げる訳に行かない。萎れた葉はその現れと思っていたが、落花生の葉は、手の平をあわせたように、閉じてしまう形で、暑さを避けているようなのだ。それにより、光の当たる面積を減らし、体温上昇を抑えているのだろう。何とも賢いやり方だ、と思ったりもするが、これに似たものは、ネムノキの葉が閉じたり、オジギソウの葉に触った時の動きにある。どんな仕組みで、と不思議に思う人がいるが、どうも思ったより単純な仕組みで、こんなことが起きているようだ。落花生もおそらくそれに近いことを行っている。自然とは、こんなもの、なのだろう。

* * * * * * * *

7月16日(土)−安全

 風評を話題にしている時には、恰もそれが自然発生的に出てくるものとして扱う。だが、何やら不穏な情報が流れ始めると、いつの間にか風評のことは棚に上げられ、不確かな情報を垂れ流す。いつでも、その根源が自分たちにあることを隠し、他人事のように素知らぬ顔をしたり、心配そうな表情を作り出す。
 直後の風評被害は大きく扱われ、事実、その問題は今でも続いている。だが、まるで網の目を潜り抜けたように、各地に流通された件の品に、繰り返し伝えられる恐怖感は、風評の恐ろしさを急激に広げるように思える。監督する立場の人への批判を繰り返すが、一方で、すっかり忘れていた存在と、流通の仕組みの不可解さには、誰も目を向けないようだ。風評を避ける為に、産地の偽装が行われた際には、厳しい批判の声が聞こえたが、今回のものはどんな仕組みで流れたのか、単に販売地域を伝えるだけで、恐怖を煽ることが可能なだけに、本質的な問題へ目を向ける必要は無い。規制値の問題も冷静な判断へと向かうこと無く、ただ危険性のみを伝えることが役目かのように、上回るという言葉を繰り返す。都合のいい解釈は、それと判らぬように、事実と抱き合わせて伝え、都合の悪いことには目を向けない。情報操作の基本とされることを、まるで無意識でも実施できるような体制が築けているのは、まさにこれらの仕組みがある目的を持った形に完成していることを思わせる。後手に回ってでも、対策を組まねばならぬ人々と違って、明らかになったことだけに批判を向ければ、自分の立場が保てる人々は、何と気楽なものか。安全を指標にしたら、もう食べるものが無いという事態に、血色のいい表情を見せる人々の言葉は、何を暗示しているのか。

* * * * * * * *

7月15日(金)−暗愚

 我慢しなければならない、という思いが溢れ、皆それぞれに工夫を凝らす。と言っても、何もかもが可能になる訳ではなく、無理は無理という状態も出てくる。節電を強要される一方で、無理は禁物と言われたのでは、さてどうしたら良いものか、全く判らなくなってしまった人もいるのではないだろうか。
 皆の為と、できないことまでやり始めると、流石に状況は苦しくなる。できる範囲で、という話はある程度強調されてきたが、緊急事態と迫られれば、無理もやむを得ないとなる。どうも、全体の流れに押される勢いは強まるばかりで、簡単に逃げおおせるものではない。あれこれと工夫をしても、厳しい状態が強まるとなれば、結果的に無駄と言われるが、それでも何かをしなければ、となっているのが現状ではないか。だが、自分の命を縮めてまで、となってしまうと、首を傾げるべきことではないか。それに気付かぬままに、徐々に状況は厳しくなり、体調が落ちてくる。それが重なると、自らの変化にさえ気付けなくなる。こんなことが伝えられるが、よく考えると、当事者にできることはなさそうに思える。心理的に追い込まれる人々にとって、あれこれと注文が重なれば、徐々に追い込まれることは確実で、逃れる術は無い。となれば、その手の話に耳を貸さず、無視を決め込むのが一番なのではないか。同調することが唯一の選択と、これまではこんな横並びが常識だったのだろうが、このような緊急事態で、そんなことを安易に続けるのは、愚の骨頂となりかねない。無理をせず、自分の調子を保つことが、唯一の選択なのに。

* * * * * * * *

7月14日(木)−転換

 具体策の無いことばかりに注目する人がいるが、本質的なことは方向を定めたことにある。これまでの推進一辺倒の考え方と、存在ありきの姿勢は、この国全体の方針とはなっておらず、施政者たちの決め事として通用してきた。政治の世界での対立は当然だが、交代という事態は、そこにも混乱を招いた。
 本来、従来の立場を維持するのであれば、不要論が前面に出て、すぐにも縮小や廃止の議論が起きて当然なのだが、それが現実的でないことは明らかで、流れに乗るしかないとの判断があったのではないか。そこに起きた大事故に、これまでは場当たり的な対応に終始していたが、ほんの少しの隙に、持論の展開となったようだ。ただ、元々が大した思慮も無しの対立であり、そこに具体的な方策を望む方が間違っているだろう。賛否両論の為の反対には、殆どの場合、理論的な武装は施されておらず、結局、感情や心理に繋がるものにしかならない。では推進側はどうなのか、と問われると、始めの時点での議論ほどの強固さは無く、今ある姿を保持する方向にしか議論が進まない。下野した人々から、大した意見が出てこないのも、既成事実に寄りかかろうとするばかりで、事態の変化に対応できず、将来計画の策定などは、彼方に霞んで見えぬ状態となる。一体全体、どちらの方に舵を切ることが正しいのか、どの国の状況を眺めても、決断が容易でないことだけは判ってくる。何をすべきかという点を一々点検するより前に、方向を定める点にちゃんと目を向けていないと、結局は大局観の欠如ばかりが目立つだけのことではないか。近視眼、視野狭窄が、蔓延しているようだ。

* * * * * * * *

7月13日(水)−戸惑い

 何か新しい情報が流れる度に、それまで順調に見えていたものに、綻びが目立ち始める。それぞれに確固たる意識を持ち、間違いの無いように備えてきたと思ったものに、いとも簡単に問題が噴き出す。意識の問題なのか、はたまた、十分な対処でも起きたことなのか、外の人間には見えてこないから、首を傾げるしか無い。
 識者の説明によれば、短命な家畜では蓄積は問題とならないとの話だが、食物として見た時には、全く違った扱いとなることを、今回の騒動の顛末は表しているようだ。ただ、相変わらずの騒ぎを続ける機関とは別に、責任ある機関からの情報は、数値そのものへの対応に、大きな違いを露呈している。この数値では、問題が表面化することは無い、とする識者の意見や役所の解釈に、異論を唱える人々の根拠は、脆弱も何も、感情に基づくものでしかなく、そんな話題に首を突っ込むことこそが、問題を生じているかのように映る。確かに、基準を設けた限り、それを一つの指標とすることが、最大の目標となる筈であり、それを遵守できないのであれば、何の為の規則なのか、更なる不信を招くだけのことだろう。ただ、基準設定の経緯に関しては、現実には、騒ぎ喚き散らす人々も含め、殆ど触れられることは無く、数値のもつ意味に関しても、言及されることが余りに少ない。こんな中で、果たして、この手の情報を垂れ流すことにどれほどの意味があるのか、真剣に考えておいた方が良いのではないか。悪い情報は確定するまで流さない、という姿勢が不信感を招くとの指摘は、立場を変えれば当たらないこととなるが、だからといって、何も出さない姿勢が歓迎される訳も無い。特に、判らないことを前面に出し、批判を繰り返す報道には、その前に、理解の助けとなる情報を掘り出す努力をすべきと思う。攻撃が最大の防御という図式は、そろそろ崩れてきているのだから。

* * * * * * * *

7月12日(火)−活字

 随分昔から問題とされてきたものに、若者の活字離れという話がある。書籍の売り上げが伸び悩み、いつの間にか下降の一途を辿るようになった時、新たに参入してくる年齢層が、問題を抱えているとの指摘が出た。漫画を敵対視し、悪者の排除を謀ったものの、現実には味方との見方が出て、敵は何処にも居なくなった。
 印刷物の流通は、確かに困難な状況にあり、そこに問題が無いという意見には、賛成できない。だが、活字そのものへの感覚は、という問題には、事情の違いが表面化しているように感じられる。メディアの違いから、活字離れが強調されるだけで、文字を介して人との情報交換を行う姿勢には、殆ど変化が無く、特に近年では手軽なメディアの登場で、却って多くの人が参加しているという印象さえある。それを明るい兆しと受け取る向きがある一方、全く異なる対話形式に、戸惑いを覚える向きもある。これで十分な情報交換が可能となるという指摘には、混乱時の「デマ」とも受け取れる情報の流布を、どう扱うべきかという反論が立てられる。不特定多数というメディア独特の事情が、この展開を大いに強める傾向をもつことが、問題の根源と思われるが、仕組みの長所が、同時に短所ともなる訳で、手当てが逆効果を生じかねないことは、簡単に理解できる。新たな仕組みが出てくる度に、こんな問題が起きるのは関係者の戸惑いによるものだが、仕組みそのものの改良に期待するのは、かなり難しいことではないか。所詮、人間の関わりから起こる問題だけに、関わる人間の変化に期待するしか無いだろう。無責任に受け取られるかも知れないが、これまでにも多くのメディアに対し、同じような問題が生じ、人間が変わることでそれを縮小することが行われてきた。今度も、同じことが起きるしかないのだと思う。

* * * * * * * *

7月11日(月)−盲目

 また悪い情報がもたらされた。挙って伝えられる所を見ると、余程重要なものらしい。だが、伝えられる内容は、相変わらず数字のみで、その何処が重大なのかは見えてこない。基準を上回る数値、これまでに何度も流れた話だが、今回も従来通り、そこまでの話としてしか伝えられない。肝心なものは不明なままに。
 食べ物に含まれるものは、それが危険だと判っていれば、成る可く少ない方が良いとなる。これは当然のことだが、では、安全とは何を基準に言えることなのだろうか。基準を下回れば、という安易な考えは、感情的な反論により打ち砕かれる。こちらはとても分かり易い展開だが、危険に関わる方の展開は、それほど単純ではないようだ。騒ぐことを優先する動きからすれば、危険の評価を下げることは、避けて通った方が安心といった雰囲気で、数字の分析も、その意味も、問われることは少なくなる。子供の尿の話にしても、牛の肉の話にしても、それが意味する所を捉える分析は少なく、数値だけが強調されたり、前者に至っては、数値さえも脇にはじかれ、事実という絶対的な表現で、問題となるかどうかの吟味を排除する姿勢が、露骨に現れていた。被曝の状況は、その源となる物質により、大きく異なると言われるが、その話題に関して、その度の取り扱いが全く違ってくることには、不信感を抱かざるを得ない。体内に残留する性質をもつ物質と、速やかに排出される物質と、何の区別も無く解釈されることに、不安に苛まれる人々が、何かを気付くことは少ないだろう。その心理に乗じて、自分たちの主張を通すだけの人々に、どんな信頼が置けるというのだろうか。無理に食べろと流通させる必要は無いが、そこから起きる悪影響を、止める手立てを講じること無く、暴走を続けているようでは、どうにもならない。

(since 2002/4/3)