パンチの独り言

(2011年7月18日〜7月24日)
(避暑、自発、賢愚、食物連鎖、自立、不明、向上)



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7月24日(日)−向上

 ほっと一息、といった雰囲気もあるが、後のことを考えると心配になる、という人がいるだろう。猛暑という言葉が溢れていた状況から、急に寒ささえ感じられる日々が続き、ある地域では戸惑う人が沢山出た。季節の移り変わりは、人々の期待を裏切り続け、突然の乱高下があったり、予想外の展開が起きる。
 そんなことが起きても、自然のことでは文句を並べても何にもならない。一時は、そんな変化が災いを招くが如く、何とか思い通りにならないか、そんな話が実しやかに流されていた。人間の驕り、今となればそんな言葉が当てはまりそうだが、科学や技術の発達が著しく、何でも可能となると思われた時代には、全く違う扱いがされていた。夢を抱くことの大切さは、否定してはいけないものだろうが、分相応を見失うことは、危うさを高めるだけなのかも知れない。科学技術に疎い人が多く、何が起きているのか、どんな仕組みがあるのか、さっぱり理解できない中では、興味を抱くことも無いだろう。しかし、そんな人でも、何か便利なものが世に出てくると、すぐに飛びつく傾向にある。そんな経験は、自分では何もしなくても、誰かが何かをしてくれ、それが自分に結びつくといった考えに繋がる。安易と言ってしまえばそれまでだが、そんな考え方が社会の大部分を占めるようになると、何も知らなくても、何かを知ろうとしなくても、世の中は何とかなるし、自分の生活も向上する、という図式が完成する。そんな馬鹿な、という思いは、今は少しずつ出始めているようだが、喉元過ぎれば、また元に戻りそうな気配だ。代替に飛びつく人には、そんな驕りが見える気がする。

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7月23日(土)−不明

 無知を誇るような態度、と指摘したら、恐らく凄い勢いで文句が並ぶだろう。だが、あの震災以降に限らず、それ以前から、この国ではそんな態度を当然のこととして、恥じ入る気配が無くなりつつあった。知らないのは知らされなかったからだ、という言い訳も、当然のこととして受け入れられるくらいになって。
 そんな態度に業を煮やした結果ではないとは言え、その一方で、自己責任なる言葉が濫用されるようになると、全体に馬鹿げた遣り取りが目立ち始め、肝心の無知は無視されることとなった。こんな経過を辿り、今の大人や子供たちの態度が、当然のものとなった結果が、始めに書いた状況に繋がる。知らされなかった、誰も言ってくれなかった、そんな言い回しが前面に出され、本人の責任を問えない雰囲気が漂う。確かに、情報の滞りが様々な問題を招いたことは事実だろうが、それだけか、と思える部分にまで、無責任な発言が飛び交うことには、明らかな事実誤認があるように思えてならない。こんな調子で、自分の仕事に責任が負えるのか、と思わせる発言が続いたり、責任転嫁が横行する社会に、特に若い世代は何を思うのだろう。彼らの意識の違いを、大いに評価する声が上がっていたことは判っているが、そんな一部の例外を取り上げたとしても、今の世の中が抱える問題が、解消されることは無い。教室の中で、知る喜びを覚えること無く、上から降ってくる指示を待つ子供たちが、無知を恥と感じるようになるとは、とても思えないし、周囲に居る若者たちには、その傾向が著しく窺える。大人たちの下らない態度が、そんなことに繋がるかは定かでないが、何の影響も無いとはとても言えそうにない。

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7月22日(金)−自立

 何処を眺めても愚かな行動ばかり、と書いてしまうと、上から眺める振りばかりして、と批判されることとなる。だが、少し冷静に周囲を見回して欲しい。事の軽重に関わらず、何でも騒ぐ人々に、どんな賢慮があるというのか。静かに全体を見つめる事無く、目立つ部分ばかりに目を向け、誰かの話に乗せられる人々に。
 こんな事を書いても、本当に騒いでいる人々や、それを招く事に躍起になる人たちに、響く事は全く無い。このようなメディアは、不特定多数の人々に、漏れなく声を届けるのに、大いに役立つ筈なのだが、玉石混淆の状態は、件の騒ぎに巻き込まれる人々には、吟味力不足から、肝心なものへの接触を、不可能なものへとするだけの事だ。そんな状況を改善する為には、何が必要となるのか。すぐに、仕組みのことに思いを馳せる人がいるだろうが、これこそが、あの連中の思う壷といった所か。個々の人々の判断力を奪い取り、判断力を失った人たちに、ろくでもない情報を流し続けることは、彼らの主目的に違いないからだ。その為には、関わる人間の改善は論外であり、恰も何の努力も無く、簡単に手に入る仕組みを提供することこそが、思い通りに事を運ぶ為の必須の条件となる訳だ。一人一人の判断こそが、全てを解決する為に欠くことのできないものだけに、そこに話が向かわないようにすることが、仕掛人たちの目論みに違いない。まともにものを考えることができる人々には、こんなことは全て関係ない。ただ、世の中に垂れ流される情報は、作為に満ちたものだけに、馬鹿げたものばかりとなり、それに振り回される愚かさは、顧みられることが無い。自分が肝心、という思いは、全く別の方に向いているようだ。

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7月21日(木)−食物連鎖

 不安を煽るのが目的であったとすれば、所期の目論見は果たせたと言える。しかし、姿の見えない相手に、どんな対処があるのか、何の見込みも無く始められたものだけに、収束の兆しは見えてこない。例の如く、無意味な叫び声をあげる人々については、殆どの人が無視する姿勢を見せているから、問題は無いようだが。
 汚染されたと伝えられる食品について、自分たちの口に入る時点での問題ばかりが、注目されてきたのに対し、それらに与える飼料への配慮が行き届かなかったとする分析に、首を傾げる人が多いだろう。食物連鎖の頂点に立つ以上、その流れは当然と見なされたが、現場ではそんなことは思いもよらないと扱われる。想像力の欠如が、様々な所で問題視されたのは、もう何十年も続く事象なのだが、根深さがこんな所にまで広がったのかと思わされる。別の言い方をすれば、単なる責任転嫁に違いないのだが、被害者への特別な思いを優先することから、それ以外に盥回しする姿勢には、問題解決が程遠いことを垣間見る思いがする。どう考えても、想像力の欠如、責任感の喪失、そういった言葉でしか語れないものだが、どんな解決策があるのか、その辺りへの言及は殆ど無い。煽り続けることが務めならば、それで構わぬことだが、過剰反応を招くばかりでは、自らの立場さえ苦しくなるだろう。摂取量の大部分が急速に排出されるのが事実なら、今からでも追加飼料を与えることで、排出を促すことも可能と思われるが、可能性だけの問題だろう。また、問題無しとされるもので、どのくらい含まれるかの調査は、不安を拡大することになるかも知れないが、そろそろ避けられない手立てのように思えてくる。

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7月20日(水)−賢愚

 混乱の最中、全ての情報を流せとの声が高まった。都合のいい情報ばかりが流れ、悪い話を伝えないのは片手落ち、ということだが、果たしてどうだろうか。多くの人は、混乱の中での悪い話は、更なる悪化を招くと考え、全てを流すことに反対するようだ。自らの判断に委ねられた時、冷静が保てるかにも不安が残る。
 末端が全ての情報を何の操作も施されぬままに受け取るとき、そこでの判断は個々に大きく異なるだろう。声を上げた人々は、そんなことを意図したのかも知れないが、彼らが仲介する立場にあるとしたら、その意図をそのままに受け取ることは難しい。混乱の最中だけでなく、その前後でも、あらゆる情報に選別や操作を施し、自らの主張を強めてきた人々が、情報の良し悪しによる流され方の違いを論じることに、首を傾げる人は多い。全てを流してもらえば、その中から自分たちに都合のいいものだけを選び出し、意のままに操ることができる、と受け取る向きもあるのではないか。工程表なるものへの評価は、まさにその状況を如実に表すものであり、一段階の終わりを迎え、そこへの評価に触れること無く、次段階の問題点を指摘しようという姿勢も、確定したものへの批判は効果が薄く、不確定なものならば極端な解釈さえ可能であり、効果的な批判が行えるといった考えから来るもののように思える。良悪両者の必要性を強調すればするほど、こういった扱いの偏りが目立つことに、彼らが気付かぬことに首を傾げたくなる。冷静な判断を末端に課すならば、間での悪さは無意味となるが、その愚行に気付かぬ程の知性しか無いのか。愚民が賢者になるのは容易ではないが、こんな事態ではそこにしか望みが無いように見える。

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7月19日(火)−自発

 以前何度も書いたことだが、人生の歩み方に関して、自らの経験を子供たちに押し付ける人々が増えている。社会に出る直前の段階として、大学という名の資格獲得機関に入る為に、何をすべきかという点に関しては、ある手法が絶対的なものとなっている。その通りにすれば、不可能という文字は浮かばないということだ。
 その結果、努力は報われるという図式が完成したかのように映る。確かに、地道な努力を継続し、示された道筋を歩めば、そこまでの目標は達成できる。巷で噂されるように、入ってしまえば後は遊べる、という話も、それに対する褒美のように扱われるが、始めの頃と異なり、これが形式化されるに従い、徐々に様相は正反対の方に変化してしまったようだ。同じ水準での競争は、参加する人間の質を上げる方に動くのではなく、より低い段階での差別化を招く結果となった。その為、必要不可欠な能力の欠如は、受け入れる機関において大きな問題となり、応急手当てが講じられることとなる。それが無意味だったことは明らかになりつつあるが、では何が適当なのか、まだ見出せない状況が続く。社会的要請などと、言葉だけは掲げられるものの、その実体を見出せないことは、徒労の山積みという現状を放置するしか無い。人間を製品と見なすのは乱暴としても、社会を対象とすれば、最終製品の送り出しが、その機関に課せられた命題となる。素直に育った人間に、自らの考えを促しても何も起きず、盲従の結果を悔いても何もできない。豹変を期待するのは無責任の極みであり、何かしらの端緒を与えることに、責任の果たし方があるように見えるが、環境だけでなく、彼らの発起こそが重要となる。

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7月18日(月)−避暑

 休日だが、この暑さでは、と思ってしまう。何処に出かけたとしても、涼しい場所は大賑わいだろうし、暑さを買いに出かけるのは馬鹿げている。何とも八方塞がりの様相を呈しているが、どうにもならないものはならない。大人しくしておくのも一つだけれど、猛暑は家の中にまで踏み込んでくるから堪らない。
 夏が暑いのは当たり前、のことである。にも拘らず、毎年のようにこんな騒ぎが起こるのは何故か。多くの人が暑さに負けて、病院に担ぎ込まれたり、死んだりするからだろうか。確かに、その一部は何の異常も無く、暑さだけが原因で体調を崩したのかも知れない。しかし、犠牲者の多くは老人であり、そこに何の関連も無い、とは言い切れないだろう。一時的なことであればまだしも、季節的なものとなれば、これが長続きしそうに思えてくるのだろう。このまま行けば、という筋書きを好んで使う人が出るのも、そんな事情によるのかも知れない。だが、平年がどうこうとか、このまま行くとどうなるとか、そんなことを話してどうなるというのか。そんなことより、暑さを避ける工夫や、体調を崩した時の対処などに、もっと力を入れるべきだろう。悪くなる話に飛びつきたい人は、そうしておけばいいと思うが、それで気落ちしたり、心配が募るようなら、さっさと耳を塞いで、自分に有用な情報を手に入れる算段をした方が余程ましだ。何ができるのか、ということを考える前に、既に悩みに落ち込むようでは、何もできなくするだけのことだろう。如何に生き残るかは、こんな所にも種がありそうに思う。

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