パンチの独り言

(2011年7月25日〜7月31日)
(推知、笑止、一位、異変、掩蔽、目安箱、誤報)



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7月31日(日)−誤報

 自然の営みは、人間の思いとは関係なく、見方によっては、非情に思えるほどに進む。営々と築いてきたものを押し流し、一気に破壊された残骸を見る度に、自然の脅威を思わされるが、人間が関わるものと違い、何の意図も無いことだけに、不平不満を向ける先も見えてこない。ただ、押し黙るしか無いのだろう。
 そんな光景が画面に映され、状況を何度も伝える声が聞こえる。しかし、それは同じことの繰り返しで、新しい情報がもたらされる訳でもない。偶々その時覗いた人に、情報を伝える為に、という考え方もあるのだろうが、状況の変化を知ろうと、見続けている人には、何の配慮も無い。一回限りの印刷物と違い、電波に乗せて経時的に流され続ける媒体では、同じことの反復は無意味に思えてくる。その一方で、急激な変化が筋書き通りに起きる筈も無く、伝え続けることの難しさは、様々にあるように思える。と同時に、ふと思い当たったのは、言葉の乱れについてである。「決壊」という言葉が使われた場面は、画面から察するに水が溢れただけのことであり、壊れたとは思えなかったが、何度も同じ表現が使われた。現実に崩れた場所もあり、それに限れば適正な用法と言えるだろうが、注目を集める為の言葉遣い、とも思える雰囲気に溢れていた。別の場面では、訓練を受けた筈の人間が、「水が浸る」と繰り返し喋っていて、乱れの及ぶ範囲の拡大に驚かされた。最近の言葉の乱れに対し、様々な人々が苦言を呈しているが、一部の専門家は、色々な問題が浸透した結果、乱れが無い人は居ない、といった分析を施す。何が本当かは定かにならないが、言語が意思の疎通に不可欠と思えば、共通理解の必要性が重要であり、違和感が障害となる。垂れ流される間違いには、そんな意味で気になる所がある。

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7月30日(土)−目安箱

 民主主義では民意が何にもまして重要なもの、といった表現が巷に溢れたのは、ついこの間のことではないか。その後、自分たちに有利に働く言葉として、頻繁に使われてきたが、その本当の意味に話が及ぶことは無かった。そんな中で濫用が続き、都合のいい形での解釈は、急速に拡大し続け、歪みが増していた。
 極端な動きに対し、違和感を覚える人が増えても、「民意」という切り札は使われ続け、捻れと評される状態に陥ってもなお、後生大事に持ち続ける。首を傾げることが多くなった最中、天罰という暴言まで使われた天災が起き、その後の展開から、様々な問題が噴出する事態となった。まるで初めてそれが明らかになったように振る舞う嘘吐きはさておき、民意というものへの認識は、明らかに誤った形で使われてきたことが、この展開で少しずつ明らかになりつつある。だが、市民を集めて意見を聞く会は、依然として人気を集める「あの人」の時に挙って開かれただけでなく、その場での不正とも思える行為が批判を集めていたことに思いを馳せる人は無く、民意を集めるという行為に、常につきまとう怪しさに、話題を向ける人も居ない。民意に問うという形で行われる決定も、それに参加した人の中での話にしかならず、無関心は何の意味も持たない。今突然、反対派が増えたかのように扱われることも、現実には、ついこの間まで、何の関心も示さなかった人々の心変わりが大半であり、そこに大きな意味を持たせる動きには、例の如くの企てが露骨に現れている。ほんの一握りの民意で、民主主義が保てるとする動きこそが、それを裏切る行為になることは、既に明らかとなっているのではないか。

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7月29日(金)−掩蔽

 事故の報せがあった時、対岸の火事を思わせる言動は少なかった。これまでの関わりから、それは当然のことと思えるが、別の要素が見え隠れして、相変わらずの思惑ぶりに、何故それほどに知能の無さを曝け出したいのか、理解に苦しむばかりだ。この隣国との関係は、互いの思い込みに基づく、異様なものに違いないが。
 特許申請に代表されるように、彼らの行動には、異常としか思えぬものがある。しかし、自分大事の国民性は、そんな所に如実に現れており、井戸の中の両生類と思えば、当たり前のことではないか。事故が伝えられた瞬間に、誰の首が飛ぶのか、と思った人が沢山いるだろう。これまでの手法を見ても、ごく自然の流れとして、尻尾切りの連鎖が起きることは、簡単に思いつく。それにしても、極端な隠蔽体質に、自国の話ならば声を荒げる連中も、口を開けたまま呆然と眺めるばかりらしい。その馬鹿らしさも流石のものと思うが、それにも増して、こちらから見れば、愚に愚を重ねる思考に思えたのは、これにより、こちらの製品にまで影響が及ぶという論説を、滔々と述べる原稿を書いた人間と、それを報道した組織に対してであり、相変わらずの悲観思考と、悲劇の筋書きを溺愛する無能ぶりには、まさに開いた口が塞がらない。商売の仕方が下手との批判に終始し、安全性担保の為の制御機構との抱き合わせを、無駄と言い兼ねない人々にとって、この事故は、何の意味も伝えなかったらしい。誤った認識は、決して改められることは無く、このようにして、曲解を重ねて、自分に都合のいい形に変えられる。そこには、筋書き通りの展開しかなく、予想外の話は全て隠蔽される。隠滅の為に埋めるなどという思いつきは、無知の現れでしかないが、それを笑えない人々が、こちらでも何かを埋め続けている。

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7月28日(木)−異変

 思惑に満ち溢れた情報操作に、流石に鈍い人々も気付き始めたのではないか。それでも、噂話に耳を傾け、つい引き込まれてしまう習性は、そう簡単には無くならない。それに乗じて、相も変わらぬ馬鹿話を垂れ流し続ける連中に、どんな意図があるのか、普通の感覚ではそれを読み取ることはできそうにも無い。
 根も葉もない噂に、如何にもそれらしく脚色を施し、的を射ているように振る舞う。何度当て損なったとしても、掲げた本人がすっかり忘れてしまうのだから、怖いものなどある筈も無い。放射線の影響はあらゆる生き物に及ぶ、とばかりに、思いつく限りの話を広げるが、大した考えも無しに編み出す作り話に、傾聴の価値は微塵も出てこない。数値の読み方さえ知らぬ人々が、大きな顔を曝け出して、恐怖を煽る話をまくしたてる。彼らには何の責任も無く、そのことを生業とするだけのことで、三流新聞が公共とも思える電波を、乗っ取ったかのような印象さえ受ける。子供たちへの影響もさることながら、自然の中のちょっとした変化に、それまでは関心さえ抱かなかったのに、如何にもそこに重大な発見があったかのように取り上げる。蝉の声は、最盛期には、どんなに鈍い連中でも、五月蝿いと思えるほどの音量となるが、それはほんの一時だけである。それまでの、静けさの中の声には、気付きもしなかった連中が、蝉が消えたと騒ぐに至っては、何のことかと思えてくる。これまでの蓄積と比べれば、今回の放出量は大したことは無い、との見方もそろそろ出始めているが、扇動者たちには、聞こえぬものらしい。観察を思いつきだけでする人々の話には、何の価値も無く、本人でさえ忘れる程度のものなのだ。

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7月27日(水)−一位

 自信を失った人々の行動には、一貫性も信念も感じられず、奇行、不規則発言なども相俟って、周囲からの信頼も失われつつある。こう書くと、永田町の話と受け取られるだろうが、実際にはこの国全体の話であり、周囲とは他の国という意味である。真の力を身に付けていなかったから、と思うのは簡単な事だが。
 世界一に称せられるものを、数多く抱えていた時代に、当時一番を誇っていた国では、その問題が大きく取り上げられていた。海の向こうとこちらで、どんな違いがあり、それが成長の具合にどのように影響を及ぼしたかを、詳しく分析した書籍が発刊され、こちら側では凄まじい勢いに酔い痴れる人々が、勝手な意見をまき散らすほどに、奢り高ぶる姿をさらしていた。国内の問題を片付けられずに、停滞を余儀なくされていた国は、国内生産を回復させる為に、愛国心を引っ張りだすほど、策に窮していた。しかし、その後の展開は、舞い上がった国の人々が、分不相応な行動を始め、自己崩壊の道を転げ落ちていき、それまでに築き上げた自信を、自らの手で打ち砕くこととなり、後からやってくる国々に、一位の座を次々に奪われることとなった。成長という形だけで見ていては、本当の位置を見極めることはできないが、伸びを無視したとしても、落ち込みが著しくなり、失われた自信が取り戻される機会は出てきそうにも無い。自信回復を強調する声も、何をしたら良いのか判らなくなった人には届きそうになく、別の見方が必要と思える。そんな時、ふと思うのは、一位の座を奪われそうになった、あの国が、その後何処に居座り続けているか、ということだ。真の力を見極めず、脆弱な自信に縋るのでは、進展は望めない。自らの力を信じることこそが、今必要なことだろう。

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7月26日(火)−笑止

 見えないものへの恐怖が話題となり、落ち着かせる情報より、不安を募らせる情報が優先されている感がある。心配になった人々は、どういう訳か、それを増幅させる話に飛びつき、その度を増す方に動く。分裂する必要は無いが、少なくとも、心配と冷静の二つの面を、心の中に持つ必要があるように見える。
 落ち着いた頃には、以前の喧噪は大いに馬鹿げたものに見えるが、その最中には、皆一緒という状態に居所を求める人が多くいる。暴動が起きるのは、こんな状況にある時なのだろうが、今の状態では、そんな極端に走る力も持ち合わせていないようだ。そんなことを考えると、何故、これ程の無駄を続けるのか、と思えてくるが、当事者たちには思いもよらぬ所だろう。間違った情報を平気で流す連中も、意図的に流す輩も、事実誤認を見過ごす人々も、どんな拠り所を持つのか、普通の考えでは及ばぬものだろう。環境への影響は、どうでもいい状態になりつつあるが、不安感を失わせたくない人には、格好の材料が次々に持ち込まれる。肉の話は、ある意味、笑うしか無い状態にあると思え、茶番の連続に、呆れることも止めてしまった。全ての人々の私利私欲との関係、無知を装う人々の狡猾さ、的外れの指摘を相変わらず続ける人々、下らない時代と後から笑うことはできても、今、それをすることができなければ、同類と見なすしかない。世界中のものを検査し、実態を知らせた上で、改めて考える以外に、この阿鼻叫喚の芝居に幕を降ろすことはできないのではないか。

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7月25日(月)−推知

 勝手なことをやっておいて、誰も言ってくれなかったと開き直る。何も「先生」と呼ばれる人々の専売特許ではなく、今や、何処の誰もがやりそうなことと言われる。少し考えれば判ることを、知らないとしらを切るのは、自らの責任を棚に上げているのだろう。それに対する批判の声も高まるが、標的に中ることはなさそうだ。
 身勝手な行動が、自己中心的な考え方から出てくるのであれば、その人間が駄目だとするしかない。しかし、身勝手とも思える行動が、無知から出ている時には、何か別の手立てがあると考えられることが多い。だからといって、対策は簡単にできるかと言えば、現実は全く逆のようで、ちょっとやそっとでは動きそうにもない。業を煮やした人々は、考えの浅さを表す時、想像力の欠如を強調するのだが、勝手な想像を展開する人を見るにつけ、そこに誤解があるように思えてくる。手軽な想像を思い浮かべてのことと、的確な推測と結びつく想像を思い浮かべてのことでは、結果は大きく違ってくる。推測、推察、推量、おしはかるといった表現に近い形の考え方は、そこに根拠やある程度の論理の必要が出てくるだけに、高い壁を意識せざるを得ない。兎に角、無能のすぐ上程度の人々でも、何とかできることを、といった縛りがあるせいか、簡単であることを第一とするから、こんな事態を招く。少々複雑と思える推測にしても、ちょっとした訓練を経れば、人間として最低限のことくらいはできるようになる。努力無しでできることしか要求できない、という考えが主流となってから、おかしな方に向かい始めたようだが、こんなことを言っているようでは、終わりが見えてくる筈も無い。

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