保護という言葉には、弱い者を助けるという意味があるようだ。そんな中から、親の責任を問う声が聞こえるが、そういった感覚が社会全体で薄れているように感じる。責任そのものへの批判からすれば、この変化は当然のことであり、何も親子の関係に限ったものではない。こんな状況で、保護を謳う姿勢には疑問を抱く。
動植物の絶滅や環境の破壊など、様々な要素から自然は変化を余儀なくされる。中でも、最も大きな影響力を有すると考えられる人類の存在は、解決すべき問題を数多く提出しているようだ。その中で、保護という言葉が好んで使われるようになり、人々の意識を変えるものとして、評価される状況にある。だが、その一方で、この言葉自体に、人類が持ち続ける傲慢さが、練り込められていることに、気付く人は少ないようだ。自分たちが破壊した結果を憂い、それを取り戻そうと策を講じる。この連鎖が、自然の破壊を止めることは無く、単に、別の形の人工的なものを作り出すことにしかならない。にも拘らず、自然保護や環境保護と謳う提言には、何か重要な手立てを講じ、弱者を救うかのような印象を与える。その勢いに乗り、様々なものに人の手を入れることが、保護の主題かのように訴えるが、現実には、次々と破壊を繰り返しているだけのことであり、自然をあるがままの姿に保つことにはなっていない。破壊を止めることが第一だが、ここまで来ると最優先すべきは、手を出さないこと、手をつけないことにあるのではないか。そっと見守ると言いつつ、その場に行くことだけでも、何かを変えることになるのかも知れない。
意外なほど早く明けた梅雨に、猛烈な暑さが続いた時には、凄まじい夏を連想した人が居たのではないか。現実には、まるで力尽きたかのように気温が下がり、明けた筈の梅雨が舞い戻ったような天気が続く。豪雨、災害と言葉が踊る中で、例の如く、天候不順とか異常気象とか、そんな話題が浮かび上がる。
四季の移り変わりがこの国の特徴であり、それこそが良さの源泉と見てもよさそうだ。だが、一定の気候が続く地域と異なり、変わり続けることは、その幅が広がれば、極端なことになりかねない。それが嬉しいものとの扱いも、喜ばしいものであるからこそであり、被害が及ぶ事態となれば、一気に感じ方は違ってくるものだろう。毎日の気温予想に一喜一憂する姿も、暑さの中で水遊びに興じる姿も、同じ人間のものであり、その時の気の持ちようで受け取り方が違ってくることを、如実に表しているものと思える。だが、振り回されて迷惑を感じるくらいなら、いっそのこと、その場だけの楽しみと受け取るようにしたらどうだろう。何事も、見方によって、良くも悪くもなる訳で、その人自身がどう思うかが、一番大きな要素となる。日々の変化を楽しみとし、一所に留まらないことを、有り難いことと受け取れば、随分と違った感覚も出てくるのではないか。自然の営みは、野生の鳥や昆虫の行動だけでなく、花や木の変化にも現れる。無視しようとすれば、それはそれで簡単な事だが、一方で、ちょっとした時間を見つけ、目を向けるだけで何かを見出すことができるだろう。楽しみを手に入れようとせず、苦しみや悲しみだけに目を向けるのでは、何とも味気ない人生にしかならないのだから。
中身がどうであれ、十年もの間習得に時間をかけても、何の役にも立たないのはおかしい、という意見は以前から強かった。だが、多人数での学習で、必要性が示されることの無い仕組みに、期待する方がおかしいとの見解もある。他力本願の極みと思えばそうだろうが、餌を待つ雛でも競争があるというのに。
語学力は、重要な武器の一つとして、取り上げられることが多い。だが、喋ることはその言語を母語とする人間にとって、当然のことであり、それを操る力だけでは、何の役にも立たないと言われる。その観点からすれば、多少の問題を抱えても、中身のある話をすれば、相手に伝えることは可能となる。どちらが優先されるか、という問題は、どちらの立場に立つか、にかかっていて、所詮交わる所は無い、とされることも多い。小手先の技術については、何度も取り上げているが、真の実力とは何を示すものか、個人差が大きすぎて、これという形で表すことは難しい。ただ、今までの流れをもう一度眺め回すと、そこに重要な要素があることに、改めて気付かされる。中身とは何か、人それぞれに得意分野や伝えるべき事柄に、大きな違いがあるにしても、そこにある本質的なものについては、かなりの共通点がありそうに思える。それは、対象を論理的に伝達することであり、対象そのものの論理性ではなく、それを伝達する際の論理性こそが、重要となるという点にある。良いものは必ず伝わるとか、魅力的な商品は必ず受け入れられる、といった話は、単なる傲慢の現れに過ぎず、種々雑多なものに溢れる社会では、その魅力を正確に、そして理解できるように伝える手段が必要という訳だ。魅力的な言葉を並べるだけで十分という誤解には、今の停滞は大きな影響を与え、厳しい状態にあることを示した。相互理解に必要なのは、共通理念だけでなく、互いの理解を促す論理性にあることは、ここまで来ると明白になったのだが、依然としてそれさえも見ようとしない人は、沢山居るようだ。
この国の言葉の特徴として、複数の表記を挙げる人がいる。遥か昔に輸入された文字とは別に、自らが編み出した単純な文字にも、二つの別表記がある為に、その使い分けが便利さを産み出したと言われる。だが、便利さが問題を生じ、意味不明な新語や誤解を産む表現などが氾濫し、短命となったものも多い。
便利さは手軽さにも繋がるようで、安易な用法が乱立することとなる。そこから誤解が生じれば、問題は更に膨らみ、留まる所を知らないこととなる。最近も、一国の標準を一般化する為に、この言葉を悪用する例が取沙汰され、国内の事情に拠らないものとして、用法の問題の複雑さを考えさせられる。だが、本当の問題は、用法よりもその言葉の誤解とそこから生まれる勝手な解釈にあるようだ。この言葉は、グローバル化というものだが、世界的な広がりを表すものとして、便利に使われてきた。内向的と揶揄される若年層に、何を押し付けたいのか不明だが、そんな所にも頻用され、意味あるものとして扱われてきた。だが、広がる為の媒体を身に付けさせることが、教育現場での課題とされた時に、大きな矛盾が生じ始めた。広がりに制限は無く、学生たちの行き先には国籍による区別は馴染まない。国策として導入された際に、自国の企業の協力を得たことは、此処に大きな制限を運び入れることとなる。人間が国際化したから、受け入れる方も国際化する、という考え方を否定するつもりは無いが、国際化した人間を国内に縛る意図が、何故当然のことのように出てくるのか、不思議というしかない。共通語を扱える人間にとって、この国に縛られる理由は、何処にも無いように映るのではないか。そんな方に向かわせながら、何処かに紐がつくのは、狭量さの現れに思えてならない。逆に見れば、小手先の技術を身に付けさせるという提案にこそ、大きな問題があることであり、本質的な能力の養成を忘れさせれば、この帰結は当然のものかも知れない。
日常が破られ、何か特別なことが続いている感がある。様々な災害に襲われ、見えない敵に攻められる状況では、不安が募るのもやむを得ないが、そんな時だからこそ、という話題も多く現れる。中でも、安心に関する話が数多く出され、それに縋る人々が群がる様相を呈する。それがたとえ空ろなものだとしても。
不安を解消する為に、安心安全を保証する。そんな動きが社会に広がるに従い、それが当然のものと受け取られ、当たり前に慣れる人々が増える。その向かう先に何があるのか、まだ見えていないというのが現実だが、既にその影が見え隠れしているような気がする。安全を謳う表示が店頭に掲げられ、安心を広げようと努力する人々の姿に、頷く人々には何が届いているのだろうか。そこには、大切な言葉が光り輝いているように感じられる。だが、ほんの一瞬の油断が、その輝きに影を落とし、一気にくすんだ姿へと変貌させる。その理由は、人々の作為や思惑にあると言われるが、本当にそうなのか、と思えてしまう。現時点で、検査済みと謳う表示に、数字が現れないことに、違和感を覚える人は少ない。まずは、安心であり、安全であることが、第一となる時には、その言葉の重要性に目や心を奪われ、根拠に思いが及ぶことは少ない。信頼が、何度も裏切られても、そんな態度を変えないのが主な原因だが、その心情を変えるのは難しいのだろう。だが、根拠を確かめないままに信用するのは、所謂盲信と変わらず、それが裏切られた時の衝撃は大きい。それを和らげる為にも、数値の必要性は大きいのではないか。基準がここにあり、この数字はそれより小さいから安全であるとすることこそが、本当の安心に繋がるに違いない。ただ、数字に惑わされる人々には、別の意味が出るから、それを避ける為のものとして、言葉だけの掲示になっているのだろう。
ネット上の辞書によれば、「事実らしく見せながら、実際には演技されたもの」という意味とあり、メディアで専ら用いられた手法とのことだ。それを恰も自分たちと無関係なものにしようとする意図があるのか、様々な場面で盛んに使われ、自らの行動と同様の思惑に満ちたもののように扱い続けている。
特に下らないと思えるのは、この一連の動きにおいて、本質的な分析は皆無と思え、表面的な騒動に終始する部分にある。政治家連中は、今話題の的となる組織の出自が、下野した政党の関わる時代に遡るものであり、その後の変遷で偶々標的にされる現政権は、その扱いに苦慮している。野党時代なら、いとも簡単に廃止を迫れるものが、責任ある立場では、様々な柵が絡み付き、動きがとれなくなる。この辺にも捻れ状態が覆い被さり、自ら招いた苦境に渋い顔を示すくらいしかできないようだ。その一方で、批判に終始する「やらせ」を得意技とする人々は、この時ばかりと攻撃の勢いを増す。だが、現実には的外ればかりで、下らない言葉の連鎖が続く。賛否両論の必要性は、議論の場では当然のものの筈だが、知らぬ振りを続ける人々は、自らの生活に直接関係なければ、無関心なままに居座り、何の繋がりも作らない。それだけでなく、この国の人々の心情の異常さは、賛否を良悪と同様に区別しようとする点にある。自分の意見に同調する人は良い人で、反対は悪い人、といった感覚は、当然のように受け入れられる。しかし、何が良くて、何が悪いかは、様々な事情によるものであり、簡単に区別できるものではない。そんな雰囲気の中で、果たして、賛否両論が成立するのか、怪しいものである。議論を盛んにする為のお膳立てが「やらせ」となれば、番組編集はまさにその典型となる。
機を見るに敏なりとは、好機を逃さず、素早く対応することを言い、商売の極意の如く扱われる。良い方の意味に使われることが多いが、此処では悪い方の意味で取り上げたい。自分たちに有利に働くという判断から、あることに乗じて行動する場合、直接的な関連より、そこでの屁理屈を優先させる人々がいる。
この手の人は、以前から永田町に多く住みつくと言われてきたが、既にこの悪疫は社会全体に蔓延している。政治的な活動は、ほんの一部に限られており、一般の人たちにとって、選挙の時以外にはまるで関係ないものに思われてきた。しかし、自分の活動を社会に認めさせたいと思う人は、様々な機会を捉えて、その認知度の拡大を図る。これはまさに政治との重なりを連想させ、そこでの行動様式もよく似たものになる。こんな形で一般化されてきたものを、本来が政治的な活動を行う人々が実施したとしても、ごく当然と受け取られるのかも知れない。だが、それが昔から問題視されてきた団体のこととなると、彼らの考え方の歪みや行動の異常さに、何となく目が向いてしまう。被害に遭った唯一の国として、夏が来る度にその声が高まる中で、その活動母体は政治的な考え方の違いから、分裂してしまったとされる。時間の経過とともに記憶が薄れることや実験自体の形態の変化から、人々の関心は下がるばかりとなり、注目が集められないことに、苛立ちを隠せない雰囲気があった。そんな中で、同じ原理とは言え、全く異なる目的を持って推進されてきたものに対し、此処で声を上げるのは、どんな意図から来るものなのだろうか。被害の地を訪れ、そこで気勢を上げることに、意味を持たせる人々の行動には、以前から抱いてきた、政治的としか受け取れないものがある。政治が清廉潔白なものとするなら、真剣な思いに基づくものと見なせるだろうが、現状と同様に腐敗の極みにあるものと見れば、何の為の好機なのか、疑いの目を向けるしか無い。