パンチの独り言

(2011年8月8日〜8月14日)
(足下、賭博、欺瞞、信じる、空想、屁理屈、転嫁)



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8月14日(日)−転嫁

 何故、と思うのは、どうしてか。罪を犯したり、異常な行動をする人々に、その原因は本人の中ではなく、周囲の状況にあるのだといった解釈が出される。本人の責任を問わず、別に理由を見出すことは、一部の人間にとっては、救いとなるのだろうが、それが常態化した時、首を傾げざるを得ない事態が訪れる。
 人間は弱いものであり、様々なことが原因で揺らいでしまう、という主張に、強く反対することは難しい。強い衝撃を受けたとき、それに耐え得るかどうかを、事前に知ることは不可能だし、強く見えた人が、脆くも崩れる姿を見ると、自信も喪失してしまうのだろう。だが、そんな存在だから、何か間違ったことをしでかしたとしても、本人には責任は無いとするのは、正しい解釈なのだろうか。全く同じ体験をすることはあり得ないし、様々な背景を調べれば、人それぞれの違いは明確になってくる。だが、そんな中でも、少しくらいならば重なりを見出すことができるし、類似性を確かめることも難しくない。それを数多く集めれば、比較対象を見出し、その中で妥当な行動かどうかを、判断することも可能となる。だが、現状を眺めると、そういった分析よりも、深層心理への影響といった理解しきれない話に、注意を向けた方が適切かのような雰囲気がある。様々な分析からの結論と言えなくもないのだろうが、現実には、責任の所在といった観点が、大きな影響を与えているように思える。様々な外的要因があり、それによって種々の影響が表れるとすれば、当事者の責任は他へ転嫁できるようになる。それにより、救われる人が居るのだから、といった考え方によれば、当然の流れだが、実際には、何の解決も得られていないことに、こういった解釈を施す人は気付いているのだろうか。更に言えば、それが社会に与える影響について、まともに考えられたことがあるのだろうか。

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8月13日(土)−屁理屈

 大人の理不尽さに怒りを覚え、反発を繰り返す。そんな子供たちの行動は、反抗期と称され、自立に向かう為の一歩と見なされていた。ただ、その見方も昔と今では随分と様子が違い、子育ての姿勢の変化として語られる。反発を受けても、強い大人たちが更なる力を振り下ろした昔と異なり、今は理解を示すこととなる。
 物わかりのいい大人の存在は、窮地に追い詰められた子供たちにとって、唯一の救いとなると言われるが、逆の見方をすれば、ほんの一握りで十分とも言える。ところが、最近の風潮を眺めると、理解第一の考え方が浸透し、理不尽な振る舞いをする人の方が、珍しい存在となってしまった。そんな中では、非常識としか思えぬ発言や考え方でさえ、同意を得ることが難しくなくなった。理解のある環境下で、大人しく育つ子供たちは、素直と評される訳だが、混乱や不安が広がる社会では、そんな悠長な構えは通用しない。若者による暴動は、略奪やら放火やら、あらゆる破壊行動を引き起こし、社会全体に更なる不安を広げている。極東の存在から見れば、遥か彼方の出来事でしかないものだが、不安の方向が少しでも変化すれば、あっという間にそんな状態になることは、学校を舞台とした紛争の時代を思い出せば、想像するのは容易いことだろう。そんな不安定に危うさを感じる人が、したり顔をさらしながら、馬鹿げた意見を述べる人を見たら、どんな感想を漏らすだろうか。彼の発言は、虐げられた若年層が、暴走することは仕方の無いことであり、理解できるといった主旨だったが、不満を訴えるだけでなく、犯罪に走ったことが明らかな中で、このような理解は社会秩序の維持を難しくすることに、思いが及ばないほどの非常識さに、呆れるばかりとなった。まさに、下らない人間とはこんなものなのだろう。

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8月12日(金)−空想

 停滞感とか閉塞感とか、様々な場面でそんな言葉が飛び交うようになると、人々の高揚感は消し飛び、下降の道を辿ることとなる。何処に向かっているのか定かでない状況では、この傾向を変える方法は簡単には見つからない。何でもいいから手をつけて、打開策を見つけ出そうとする動きも、長期化により萎えてきたようだ。
 現実の数字がどうなっているのかとは無関係に、心理的なものばかりが紹介され、姿のないものに悩まされることになる。一時の苦しみなら、気を紛らすことでやり過ごせるだろうが、これ程長い間、自分たちの頭で作り出した苦しみに押し潰されることとなると、容易に抜け出すことは難しいように思える。だが、本当にそうなのだろうか。仮想敵を作り出し、その大きさに恐れ戦くのは、よく考えてみると、何とも馬鹿らしいことなのではないか。頭で描いた怪物は、真の存在ではなく、単なる空想に過ぎない。にも拘らず、こんなやり方に慣れてしまった人々には、空想の産物が現実化し、それらに苦しめられることが、当然と思えてくる。少し考え方を変えるだけで、奇怪な姿をした想像物は雲散霧消し、全く別の道筋が見えてくる。そんな転換には、少しの勇気が必要なのだろうが、現時点では、その思いを描く人は少ない。不安に流される人々の中で、同じ流れに留まることの重要性は、それほどのものなのか、明確ではない。それでもどうしても動きたくない、と思う人を外からの力で動かすことは難しい。精々、自分たちだけでも抜け出そうとすることが重要なのではないか。裏切りとは違う、正気の沙汰として。

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8月11日(木)−信じる

 信用とか信頼とか、そんな言葉が安易に使われるのは、逆に言えば、真の意味でのそれらが存在しないからではないだろうか。互いの認識から始まる思いについては、意識せずとも感じられるのが当たり前の筈が、意識してもなお不安が過る状況にある。身近な存在でさえそんな状態が、より大きな存在で急に確かとなる筈も無い。
 そんな中で、信頼の回復とか信用保証とか、様々な言葉が飛び交えば、そこには更なる不安を抱かせる力がかかる。確固たる理由を基に、信じるという行為に踏み出せば、そこに不安が過る筈も無い。ところが、現状を眺めていると、信用、信頼といった言葉が激しく交換される割に、それに必要となる理由は脆弱なままで、過信に繋がったり、裏切られることが繰り返され、悪化の一途を辿る道筋は、より明確になりつつある。上辺の言葉を発することに専心し、その為に必要な要素を揃えるのが二の次となれば、こんな状態に陥るのは当然ではないだろうか。金融の危機がそろそろ真実味を帯び始めているが、そこにあるものの大部分は、単なる不安感であり、安心が得られないが為の、そういう結果に過ぎない。あれこれ手立てを講じているように見えても、それが付け焼き刃的な措置に過ぎず、根本解決に繋がらないものであることは明らかだから、誰も信頼を傾けられない。そんな繰り返しがここ十年ほど継続した結果、根拠の無い話ばかりが押し出され、何かしらの光明に導く話は、全くと言っていいほど出てこない。それぞれの国や組織を引っ張る人々の責任を問うのは、何の苦もなくできることに違いないが、様々な制約に縛られる人々に、できることは余りに少ない。彼らに対する信頼が失墜したならまだしも、頼る気持ちが残っているのなら、拘束を解く動きも必要なのではないだろうか。

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8月10日(水)−欺瞞

 危険だから止める、との主張が当然のように扱われるが、冷静さを欠く判断に、今後の迷走を垣間見るような気がするのは、こちらの心配のし過ぎだろうか。少なくとも、論理性の無さはこれまでの経緯から明らかで、危ないなら無ければ良い、といった話に過ぎないことは明らかだろう。まあ、いつものことなのだが。
 危険性が話題になる時、人間の判断力の程度が見えることがある。例えば、飛行機事故が起きた時、犠牲者の数ばかりが問題となり、危うさを強調する人々が出る。いくら安全性が高められたとは言え、現実には自動車事故による犠牲者の方が、遥かにその数が多く、危険という意味からすれば、車をこの世から消し去ることの方が重要となる。だが、利便性を知った人々にとって、折角手に入れた利器を手放すことはあり得ず、人の命と雖も天秤にかけることとなる。これまでにも、様々な形でこのようなことは行われ続け、天秤が並べられてきた。ところが、無知な人間ほど想像力に乏しく、現実を目の当たりにして初めて反応する。その為、議論は冷静な雰囲気に欠け、感情に基づくものとなる。大衆を相手にした議論では、こんなことが度々起こるが、事が起きる前と後での反応の違いは、彼らの参加が殆ど意味のないことを表しているのではないか。近年の問題は、その無知さが大衆だけでなく、彼らに選ばれた人々にまで及んでいることで、迎合が極まるに従い、同類を装うことの重要性ばかりに目が向く。人を導くべき人間にとって、彼らを理解することは必要だが、同じことをすることは逆効果となる。そんな指導者を好む傾向にある大衆を、どう騙すかが重要だが、正直者でなければならない人間には、できる筈も無いことなのだろう。

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8月9日(火)−賭博

 何を賭しているのか、さっぱり判らない世の中となっている。責任を果たすとか、生命を賭けるとか、そんな言葉が踊るばかりで、やっていることと言えば、単に野放図な行動ばかり、無思慮だけならまだしも、身勝手な論理を展開し、都合のいい方へと驀進する。開き直る姿には、反省も自戒も欠片さえもない。
 辞めさせる為に全力を尽くす、という話が流れた時に、拍手を送る人が居たようだが、何を評価したつもりなのだろう。目的が絞られた時には、ろくな結果も得られないのは、これまでの経験から明白に違いないのに、無駄な期待は何処に向いたのか。首を挿げ替えることが、主な目的となった頃から、迷走が続いているが、原因が何処にあるのか、当事者たちには理解するだけの知力が無いらしい。訳も判らぬままに、目標に向かって邁進する姿には、愚者の行進しか見えてこない。辞めさせられない為に、辞める条件を提示したこと自体、正気の沙汰と思えないが、それを受け入れる側にも狂気しか存在しないようだ。目先の利益に心を奪われ、本質を冷静に見通す落ち着きを失った今、この程度の迷走で済んでいること自体、国の仕組みがそれなりに機能していることを表す。それほどに、国などの組織が形を保てている理由は、上に立つ人間の実力ではなく、構成員全ての平均的な力によるものではないか。上から目線が重要との見方は、海の向こうでは尊重されているが、それさえも危うさが見え始めてきた。号令一下、何もかもが思い通りに動くという状態に、組織の理想型のようなものがあるとの意見が台頭し、そこに向かおうとした人が多く居たが、こんな事態に陥ってみると、単なる無い物ねだりに過ぎぬことが判ってきた。踊りたい連中には、別の舞台を与えて、こっちはさっさと正しい方に向かうべきではないか。

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8月8日(月)−足下

 三十年ほど前、預けておくだけで一年に8%の利益があり、複利計算により、十年後には資産が倍に殖える状態にあった。社会全体の成長はそれを上回る勢いで、そこから稼いだ資金のお裾分け程度のものだったのだろうが、兎にも角にも、貧乏からの脱出には地道に働き、預貯金を増やすことが第一と言われた。
 今の人々からすれば、そんな楽なものは無いと思われるだろうが、基本となる経済理念には、殆ど変化がないのではないか。金の行き先が少し変わった程度で、あちらからこちらという移動を繰り返すことで、利鞘を稼ぐ。一見、不可能と見えたり、限界があるように見えるものを、巧みに扱いながら、利益を上げることは、今でも堂々と行われている。ただ、この所の破綻の動きに関しては、一企業に限られたものとは言えず、信用の対象とされる国にさえ、その魔の手が及び始めている。そんな中で、様々な騒ぎが起きるとの噂が絶えず、混乱を招きかねない事態も予想される。確かに、解けそうにも無い問題に取り組む受験生の如く、宙を睨んだまま動けなくなる人もいるだろうが、これまでも生き抜いてきた人々は、その中で、情報収集と操作を繰り返し、損失を減らすどころか、儲けをあげようと企んでいるだろう。格付けに関する報道も、これまでの勢いからすれば、当然の動きと言えなくもないが、空騒ぎの感も否めない。それを発表する分析会社の問題とするつもりは無く、此処での問題は、それの扱いや取り上げ方にあるとする。特に、困難を生き抜いてきた人々の、巧みな操作に乗せられることに、怖れを抱いてきた人が、逆に、こんな情報操作に乗せられていることに、不思議な感覚が起きる。まず、自分の足下を見つめては、どうか。

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