パンチの独り言

(2011年8月15日〜8月21日)
(祟り、後付け、不定、消耗、空手形、兆し、商い)



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8月21日(日)−商い

 将来への不安や期待が入り混じり、道を決めかねている子供たちがいる。人を集めることに躍起になっている人々には、彼らの行動は魅力的な対象となり、あらゆる手立てを講じてでも、自分たちの方を向けさせようと、更なる努力を積み重ねる。何もかもが商売の種になるという図式が、こんな所にも現れている。
 何度も書いてきたことだが、ある意味の安定が約束されている社会や時代では、将来の設計は苦もなくできると言われる。だが、判りきっているだけに、移り気な子供たちにとっては、相手が決められず、却って困難を極めるように見える。贅沢な悩みとは、選択の余地がない時代に育った人々の見方であり、当事者たちは自分の目の前のことしか見えない。様々な魅力を提示されればされる程、迷いは深まり、決め手に欠ける状況は極まるばかりとなる。悩むべき年代と見なされた頃と違い、最近は、彼らに如何に楽をさせるかが課題となり、将来の歪みに目を向ける動きは少ない。今この時の楽しみは何か、といった追求の果てに、何があるのかは、それを経験した人なら、ある程度の答えを用意することができる。にも拘らず、違った方向に招くのには、全く異なる思惑があるからに違いない。彼らの為と称しながら、別の意図を表に出すのは、自分たちの利益が最優先されるからであり、そこから抜け出せない人々の腐った心が、見えてくる。商品を押し付けるだけの商売ならば、それきりの関係として通用するものだが、若者たちを育てる場を提供する商売では、全く違った関係が築かれねばならない。教育現場を見るにつけ、最近の荒廃ぶりは甚だしく、商い中心の考え方が著しい。教え育むことを忘れ、客商売に腐心しては、本質を見失うばかりで、将来は暗くなる。

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8月20日(土)−兆し

 猛暑続きで秋が感じられない、と不満を漏らす人がいる。異常を好んで使う人々には、格好の取材対象なのだろうが、その姿を眺めながら、余りの感覚の鈍さに呆れてしまう。元々変化を好まず、節電が喧しい中でも、涼しい中で暮らそうとする人には、外の僅かな変化を見出す力は残っていそうにも無い。
 窓を閉め切った中では、外の小さな音は聞こえず、鳴き始めた虫の音は届かない。快適な部屋で暮らす人には、外気温の上下が判る筈も無く、秋の訪れが届く訳が無い。熱帯夜が当たり前の中では、窓を開けて夜風を楽しむ余裕は無く、変化を感じる機会は奪われる。そんなことの繰り返しでは、自然の移り変わりを楽しむ雰囲気が失われ、不平不満が並ぶだけとなる。しかし、自然相手にそんな文句を並べてみても、何の返答も戻ってこないのだから、致し方ない。自分の中に閉じこもるより、外に向かって働きかけた方が、色々な楽しみが見出せると思うが、そういった事柄を締め出すのが、自らの生活を守る唯一の手立てとなり、ブツブツを繰り返す。与えられる楽しみを、金を出してでも手に入れたいと望む姿勢には、ただで手に入る愉しさを、じっくりと味わってみたいという余裕は無い。これくらい繰り返すと、流石に反発を持つ人が出てくるだろうが、そこまでせずとも、自分で楽しむ手段はそこら中にあるのではないか。他人に言われても気付かぬ人には、かなり難しいことに違いないが、五感を十分に動かせば、そんな手助けも必要とならない。自分の力を信じて、他人の言葉に耳を貸さずに、自分なりの判断を下せば、何か新しい変化が見えてくるのでは。

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8月19日(金)−空手形

 商品の側面に小さな文字で注意書きが施される。法律が作られてから、製造者の責任が明確にされ、訴えられない為の準備と言われるが、非常識とも思える筋書きに驚かされる。だが、責任の所在がはっきりしても、それを果たす能力が無ければ、何の意味も無い。市場原理により、これが著しくなることもある。
 産業廃棄物の処理において、依頼者の責任が問われるようになり、複雑な事態が起きている。大量の廃棄物処理では、業者選定が入札により行われる。通常、最安値をつけた業者が受注するが、ある程度の事前審査があるとは言え、信用の度合いは十分と言えない場合もある。ある業者が受注後、不法投棄を行ったのは、見合わない受注額だったからとの見方もあるが、それを提示したのは当事者であり、責任はそこから出る。だが、告発された業者が廃業に追い込まれ、処理は再び発注者に責任が戻される。結局、別の業者に依頼することになったが、発注元は二度の出費を余儀なくされ、予定は大きく狂ってしまった。市場原理とはこんなもの、という見方もできるが、信用という点の調査が、経費削減とともに重要であると言えそうだ。利潤追求のみに目を奪われる企業に、全ての責任を押し付ける制度は、様々な問題を産む。更に、信用の裏付けとして、国の存在が重視される場合、問題は一層複雑化し、確実に見える保証が、幻に過ぎないものとなる。特に、社会全体や世界中に影響が及ぶものでは、利害が絡む当事者たちによる共同作業は、問題が起きた時には、却って障害となることが殆どだろう。中立的な機関が、様々な力を及ぼすことは、国によっては忌み嫌うのだろうが、こんな時代には、真の意味で重要なものになりそうだ。

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8月18日(木)−消耗

 使い捨て、としか思えない扱いでも、当人たちは満足げな顔をしている。すぐに画面から消え去る人々は、ほんの一瞬でも人に名前を知って貰えたことに、感謝こそすれ、反発は出てこない。実力の世界と言われるものの、何がどう実力に結びつくのかがはっきりせず、珍しいものに飛びつき、吐き捨てる行為が続けられる。
 そんな流れに慣れた人々にとって、毎度繰り返される幕の開け閉めにも似た行為は、何の違和感も抱かぬものとなる。時には、自分もそんな経験をしたいと、参加番組に応募するなど、何を考えているのかさっぱり判らない。僅かな確率で、生き残れた人の顔を思い浮かべ、自分に当てはめているだけのことかも知れないが、確率はあくまで冷たく適用される。この世界では、持ち上げたり、切り捨てたりが、いとも簡単に行われるだけに、こんなことは当然と扱われる。一方で、より高く持ち上げられる存在も、こんな雰囲気の中では必要となるようで、「カリスマ」なる称号を戴くこととなる。これもまた、不思議な呼び名の一つであり、本来の意味とは違った形で、使われ続けた結果、目立たせたい人に与えるものとなってしまったようだ。元々、偶像なるものを作り出すことを、最も得意とする分野だけに、こんなことはお手の物であるのだが、受け取り手の方は、何の思慮も無く、飛びつく行為を続ける。白痴とは、こんなものだったのかと思うが、指摘した人が思い描いた姿より、遥かに劣悪な人が増え続けているようだ。騙されないように、と思うのならまだましなのだろうが、依然として、信じきっている姿が現れると、何かしらの変化が訪れるとは、とても思えない状況にある。何が足らないのか、何が悪いのか、どうしたら変えられるのか、答えは何処にも無いようだ。

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8月17日(水)不定

 一度失われた信頼を、取り戻すことは難しい。それが何にせよ、互いの信頼に基づくものが、一度壊れてしまったら、それを元の形に戻すことは不可能であり、ちょっと違っていてもと願っても、無理な場合が多い。形のあるものはまだましで、これが無形の信頼となれば、何をどう取り戻したら良いのか、判らぬままとなる。
 それにしても、それほど脆い存在を、お互いに余りにぞんざいに扱い過ぎていないだろうか。互いの絆の強さに期待し、それに頼り過ぎたが為に、取り返しのつかない状態に陥る。こんな話を書いたら、さて何のことだと想像するだろうか。余りにも可能性が多くて、整理がつかないとの反応がありそうだが、その一方で、今問題になっていることの多くは、絆の固さに関して、要求を満たさないものばかりとの意見が出てきそうだ。信頼と言っている割に、それほどの信用がある訳でもなく、何かしらの都合で適当に決めたこと、といった程度のものとされる。確かに、多くの出来事が信頼とか信用とかで繋がっており、それが途切れれば、その形を失うこととなる。だが、一つ一つの出来事が消えるだけなら、実は大したことが無いのかも知れない。それより、絆が失われることの方が、余程大きな影響を及ぼし、将来に残る禍根も大きくなる。そのことを考えると、安易に応急手当てを繰り返すだけでは、根本解決にはならず、表面上はきれいに見えても、傷は深くなるばかりということもある。さて、こんな話を読んで、何のことかと考えただろう。当てはまるものは沢山あるが、どれと特定できるものでもない。何とも悩ましい時代に、なってしまったものだ。

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8月16日(火)−後付け

 分析好きの風潮は何時頃から高まり始めたのか。済んだことなどどうでも良い、と叱責された頃と違い、あらゆる分析が次に備える為として、最近は評価される傾向にある。だが、現状を見回してみると、必ずしも分析が有効に働いているように見えない。そこにある何故は分析されることは無く、不思議な状態は続く。
 戦争のきっかけや継続に対して、分析を繰り返すことは、二度と起きない為の備えとされるが、その時の心理を見る限り、冷静な分析が意味を持つとは思えない。緊急事態に陥ったときの行動は、分析を基にして引き起こされるというより、普段から持ち続けている心理によるものとされる。反省を込めて、次への備えをする為のものは、所詮、有事に役立つものではなく、他人事への関与の際に、時に使われるだけなのだろう。にも拘らず、現代は分析流行の時代と言えそうだ。心理の分析、行動の分析、様々なものが飛び交い、そこから何らかの結論が導きだされる。如何にも役立つかのように扱われるが、所詮、終わったことに対するものに過ぎず、渦中の事柄に対して、何らかの指針を示すことには繋がらない。少し考えれば、終わったことに思いを馳せて、反省ばかりに心が沈む状態では、逆の意味で、冷静な判断が下せる筈も無く、分析に振り回される結果とならざるを得ない。そんなことなら、無視を決め込んでも何の影響も受けず、勝手気侭な行動が心置きなくできる。身勝手に思えるものかも知れないが、他人の意見に左右され、何の根拠も無い行動をするよりも、自分なりの判断がなされた行動の方が、遥かに意味のあるものとなるのではないか。様々な可能性を検討するという分析の姿勢も、今横行しているやり方では、偏ったものにしかならないのだから。

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8月15日(月)−祟り

 中途半端な情報が流れ、それに巻き込まれて右往左往する人々、いつの時代にも、どの場所にもあった話だが、それがまた繰り返されることとなる。情報の重要性は常に訴えられるが、現実には、正しいものも間違ったものもごた混ぜの状態に変わりは無く、徒労に終わっているという感があるのではないか。
 指摘をすれば、何かが起こるという期待は、脆くも裏切られ続けている。正確な情報を流す努力は、続けられている筈なのだろうが、手渡される度にその中身が変えられる。そんなことで正確さが保てる筈も無いが、現状はこんな程度のものだろう。伝言の難しさは、単なる遊びの中だけでなく、こんなに厳しい現実の中でも、明確に現れてくる。それに対して何らかの措置が施されれば、何らかの変化があっても良いのだろうが、何も起きず、混乱を引き起こす歪曲された情報は、更なる勢いを得て、流され続けている。既に、麻痺したのではないかと思える程の状況で、慣れきった人々は無駄な抵抗も示さず、単に無視を決め込んでいるが、依然として、次々に流される情報に、振り回され続ける人々がいる。彼らの勝手と言ってしまえばそれまでだろうが、何度経験しても懲りぬ人の心理とはどんなものかと思ってしまう。将来の不安を並べれば、それだけで簡単に操作できると思われる話に、どんな指摘ができるというのだろう。何をしても無駄と断言するくらいが精々で、どんなに親切な言葉も、彼らに届くことは少ない。余計な親切は、却って誤解を招き、こちらにまで被害が及びかねない。触らぬ神に祟りなし、といった所か。

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