パンチの独り言

(2011年8月29日〜9月4日)
(未知、無為、等量、数字、日常、息抜き、相違)



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9月4日(日)−相違

 客観的な判断が求められる。だが、他人の見方を気にする余り、自分の考えを押し殺し、何もできなくなる人々を見ると、何か間違っているような気がする。客観とは、誰が見ても、という意味に過ぎず、誰の一人一人には自分も含まれる。一人の考えは、主観と呼ばれるけれど、それが同じとなれば、客観となる。
 こんなことを予め考えておけば、自らの考えを前に出した後に、他人との比較をすれば済むことになるが、それが無い為に、他人のものを優先させようとする心が働く。そんな流れが、袋小路への道筋をつけ、自分で自分を追い込むことになる。積極的な動きは一つも無く、全てが消極的だけに、これを止める手立てを見出すのは難しい。始めてしまってからでは遅い、ということは、経験すれば判る筈だが、皆が同じことを繰り返すのを見ると、それが簡単ではないことだけが見えてくる。一度の経験で、何故判らないのかを考えてみると、おそらくだが、何が悪いのかが見えないからではないか。皆と同じようにして、同じように振る舞っているのに、何故に悪化の一途を辿るのか、さっぱり判らない、というのが真実に思える。こんな場合、客観という見方を、今一度考え直してみた方が、良さそうに思えるが、そこまで思いが至る人は多くない。兎に角、他人と同じであることを最優先した結果が、こうなっているのだとすれば、それを避ける唯一の手段は、違うことをするしか無い訳だ。じゃあ、そうすれば良いのに、と他人に言うことはできても、自分がそれを実行することは、難しいのだろう。毎日の生活で、同じこと、違うことを、それぞれ意識しながら行うことで、少しは違った展開が見えてきそうだが、そんなことを言われても、何もできないのかも知れない。

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9月3日(土)−息抜き

 緊張を強いられたとしても、何処かに息抜きを見出す。そんな能力が無いと、こんな時代を生き抜くのは難しいのかも知れない。何もかも杓子定規に、カチコチの生活を続けるのも、その人の自由だが、その緊張に耐えきれなくなり、潰れてしまっては元も子もない。週末くらい、ゆったりと過ごしてはどうか。
 何処かへ出かけるのも息抜きだろうが、ごろりと寝て過ごすのも息抜きに違いない。外に出かければ何らかの出費がかかるが、家にいるだけなら何も要らない。人ごみに出かけて、どっと疲れることを考えれば、誰もいない中で過ごした方が、余程ましだと思う人も多いだろう。人それぞれの自由は、こんな所にも現れ、自分が最も良いと思うことをすれば良い。皆がしているから、それが一番という考え方は、何時頃からか大勢を占めるようになったが、大間違いではないかと思える。そうは言っても、人によっては、狭っ苦しい空間に閉じ篭る事自体に、抵抗を覚えることもあるだろう。わざわざ遠くの人ごみに出かけずとも、息抜きは何処でもできる。近くの公園へ行って、自然の中でひと時を過ごすのも、一つの方法ではないか。近場は息抜きにならないとか、ご近所では大したことが無いとか、そんな考えを持つ人もいるだろうが、遠くと近くで何が違うのか、また、取り上げられる所と人知れない所で、何が違っているのか。そんなことは実はどうでも良く、単に、毎日貯まり続けていたものを吐き出す場所が必要なだけではないか。それくらいのことなら、近所をゆっくりと歩くだけでも十分かも知れない。構えないと何事も始まらない人は別にして、何気ないことに身を任せてみれば、気持ちがすっきりすることに気付いた方が、判ってくることが多いのかも知れない。

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9月2日(金)−日常

 大きな力が働いた結果、それまで当たり前だった日常から切り離され、様々な不便を強いられている。元の生活に戻ることを願う一方、今この時の生活をどう進めるのか悩む。新たな出発を決意した人がいる中で、未だに決断がつかず、悩み続ける人がいる。何が最良の選択なのか、見えてこないからだろうか。
 熟慮の末に決断を下す。当然の成り行きと思う向きもあるようだが、そんなに単純かどうか、現状を眺め回す限り、それほど明確でない気がする。何を考えたら良いのか、思いつかぬままに、沈み込んでいく姿には、何の見込みも感じられない。現状維持を第一とし、それが一種の幸福と思っていた人々にとって、大きな変化は余計なものに過ぎず、それによって引き起こされる展開は、邪魔なものにしか感じられない。元に戻りたいという気持ちは、住んでいた場所への回帰に繋がり、規制に対する反発へと結びつく。恐ろしいという気持ちと帰りたいという願いが入り混じった感覚は、想像できない所にあるが、彼らの行動には、その混乱が表面化している気がする。去らねばならなかった自宅に、許可を得て帰った時に、どんな行動が起きるのか、興味を抱いたとしては、叱責を受けそうな気もするが、思い出の品をかき集めたり、じっと思いに沈む姿には、何処か納得しきれない心境が垣間見え、戸惑いの心理が現れている気がする。非日常に追い込まれた人々が、ふと、日常に舞い戻る感覚なのか、人間の心理の複雑さが露出しているのかも知れない。そんな光景に、同情の念を抱く人がいるのだろうが、はて、その感覚も、何だか大きくずれているような気もしてくる。

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9月1日(木)−数字

 数値化は客観的な指標を定める為に、重要な手順の一つと目される。数字の大小は一目で分かるし、程度の違いも比較可能となる。そんなことが信じられる中、重大な影響を及ぼす事象が起きたことで、皆は早速数字を求め始めた。当然の動きとも思えるが、その一方で、何かが違っているようにも思える。
 悪影響を及ぼすことが明らかにされた時、人々はその度合いを知りたがった。見えないものへの恐怖は、こういった傾向を急速に高め、情報を追い求める中で、確固たる数字の提示を欲している姿が見える。自らの判断の基準としたい、という気持ちは理解できなくもないが、数字の意味も含め、何がどう求められているのか、判らないことだらけのように思う。危険の度合いを知りたい、とする心理を否定するつもりはないものの、危険とはどんなもので、それを示す数値は何を意味するのか、そんな所に思いを馳せると、彼らの要求の先にあるものが、見えなくなってしまうのだ。危機回避の行動が、生き延びる為に重要となる話はよく聞くが、その際に、果たして数字がどんな役に立つのか、殆ど何も見えてこない。数字の大小により、回避の行動がどのように変えられるのか、説明できる人がいるのだろうか。日常生活において、出合うだろう危険には、様々なものがある。危ない、という一言で、一瞬の回避が起きるのだろうが、その度に、数字が役立つとは思えない。にも拘らず、今度の話の中では、そんなものへの要求が強く引き出されている。もし、その必要があるのなら、車の事故に遭う確率、普段の食べ物に含まれる物質の危険度、強い日光の中の紫外線による影響の度合い、等々、数えきれない程のものの程度の差を知る必要がある。たった一つの数字を知って、何がしたいと言うのか、よく判らないのだ。

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8月31日(水)−等量

 三回も続けると、しつこいと批判されるに違いないが、ついでといった感じで流すこととする。総量規制か、単位当りの規制か、という話について、何も考えずに垂れ流している人々は無視して、少しは考えてみた方が良さそうに思う。食料として摂取する場合と、外から浴びる場合で違いは無いのだろうか。
 紫外線の問題は、特に南半球で著しくなっているが、結局は単位時間当りにどれだけ浴びたか、が肝心と言われる。ここでの単位という表現を重視するかも知れないが、現実には量を表す為のものと見るべきだろう。また、紫外線に対する反応を考える上で、同じ量でも浴びた時間の長さにより、影響の大小が変わる可能性もある。これは、今話題になっているものでも、ほぼ同じ考えが適用できると思われ、線量の大小は、実はそういった点で大きな意味を持つと考えられないだろうか。外から浴びるものについて、どんな環境にいるかが重要だとするのは、そこがどんな状況なのかが肝心ということであり、その一部がどんなものを含むかは、直接的なものではない。ここで、総量規制が必要と思われるのは、そんな考え方から来るのではないか。一方、体の中に入ってくるものに関しては、どれだけの量が採り込まれるかがまず肝心であり、例えば食料や飲料であれば、どれだけの重さを摂取するかにより、影響の大小が左右されることとなる。それが重さ当りや容積当りでの表現を使う理由の一つであり、一方で、解釈の段階ではそれぞれのものの通常の摂取量を考える必要がある。情報の開示において、ある基本を踏まえておくのは、こんな事情によるものだが、現状は、不完全な情報や操作したとも受け取れる情報などが、氾濫していることとなる。もっと冷静な判断が必要だ。

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8月30日(火)−無為

 元々自然界にあるものが、人間の手で集められた途端に、様々な問題を生じたと言われ、何がどう違うのか理解に苦しむ人がいる。ここでの鍵の一つは、ものの集中度、一般的に言えば、濃度なのだろう。自然界では低い濃度しかなかったものを、人工的に高い濃度に変化させる。それで何が変わると言うのか。
 汚染の元となった話には、濃度だけでは片付けられないものがあるが、まず第一に高濃度にしなければ、あのような現象は起きなかった。そうしなければ、たとえ同じようなことが起きたにしても、その数も量も極端に少なく、無視できる範囲に留まったということだ。連鎖反応は特殊な状況下でしか起きないが、それとは別としても、この手の物質による影響には、その濃度が大きく関係する。だからこそ、多寡の問題が何度も取り上げられる訳で、数値に振り回されるのもやむを得ない。だが、そろそろ大きくなり始めた問題の一つである、処理に関しては、数字を操作する意味で、更なる混乱が起きている。捨てる為に二つの問題があり、一つはその場所であり、もう一つは処理、例えば量の削減などにある。前者については、事故以前から既に顕在化していたが、それより遥かに低い線量のものの処理についても、恐怖を煽る情勢からは、解決の糸口さえ容易に見出せない。後者に関して、余り関心が向けられないものの、冷却水の処理での最終問題は、徐々に表面化し始め、対策は急務となる。特殊な例だけでなく、土や汚泥の除染が取り上げられるが、ただ捨てるだけの場合を除き、廃棄量を減らす為には、濃縮することが必要となる。濃縮により、重量が減り、捨て易くなるように思えるが、多い少ないの観点からすれば、危険度は高まる訳で、真面目に考えると難しさが募る。と言うより、本当の問題は、規制が総量でなく、重量当りの数値であることで、この処理が危険なものを生じるという所にある。こんなことにも、扱い難さが現れているようだ。

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8月29日(月)−未知

 少しなら大丈夫だが、沢山はいけない。こんな解釈を出されて、納得するどころか、混迷を極めているという人が多いと言われる。得体の知れないものに抱く恐怖は、落ち着く気配を見せず、更なる高まりが際立つばかりとなる。受け手の問題と思えるのは、理解不足から来る恐怖を、抑える手立てを持たぬことだろう。
 元々自然界に存在することに、今更指摘することが必要か、疑問を抱かざるを得ない。だが、問題と捉える人々の、誤解を解く為には、そこを強調するしか無く、正しい理解を招くことが第一と言われる。ただ、どんなに強調しても、受け入れる態勢ができていない頭には、何の意味も届くことが無く、叫びに似た反応が返るのみとなる。これでは堂々巡りが続くだけで、好転の兆しも見えてこない。無かったものが出現したとする向きの非常識さは、一般大衆にとって同意に値するものらしく、そこからの誤解は容易に取り除けない。更に、量の多寡による影響の有無に至っては、理解を期待すること自体に無理があるように見える。直後の説明で、ガンの発症率が僅かに上昇するとの解説が糾弾された時、元々の割合が3割を超すという数値が標的となったと聞く。死亡原因の説明に過ぎないものが、発症率になった途端に反論を生じるとは、どんな心理から来るのか。被害妄想に陥った頭には、その程度の理解力しか残らない、との解釈もあるが、平時でも同程度のものなのかもしれない。解釈の難しさに対し、どんな手立てで応じるのかが、こういった場面では重要となるが、今の所、何の答えも得られていない。だが、だからといって、恐怖を煽る動きが許される筈も無い。常識の無い人々に、どんな情報が功を奏するのか、非常識を抑えることから始めるべきか。

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