パンチの独り言

(2011年9月5日〜9月11日)
(家庭、代替、普段、依存、待機、継続、絶句)



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9月11日(日)−絶句

 言葉の大切さを訴える声が大きい。変遷により、様々に変化した言葉は、本来の意味を失い、新たな意味を纏う。その変化に戸惑い、抵抗を覚える人がいる一方、次々に移り変わるものに、飛び移るが如く振る舞い、愉快に暮らす人もいる。どちらが楽しいものか判らないが、彼らの気分は何となく理解できる。
 大きな違いの一つは、寛容かどうかといった所だろうか。誤用を許せず、一々指摘する人が、狭い心の持ち主とは言わないが、頑さは心の中の広がりと似通う。では、何事も大丈夫とする人が、広い心を持つかと言えば、そうとも限らない所が面白い。ある範囲は許すものの、それを超えた途端に何事かと思える反応が起こる。言葉は、人と人を繋ぐ為のものだけに、互いの心の状態が影響を及ぼす。端から見ると危なげな言葉遣いが、互いには関わりの強さを表すものとなる。丁寧な言葉遣いが、慇懃無礼に感じられるのも、心の問題と言えばそうだろう。それにしても、この頃の雰囲気はどうだろう。他人の言葉に振り回され、心乱され、悩みに落とされる。悪意に満ちた言葉であればまだしも、そこに響くものは配慮に満ちたものや戸惑いを隠せずに吐露された気持ちなどがある。それでも、大きな力に押し潰されかけた人々には、更なる圧力と化すらしい。被害者意識と一言で片付けられるものが、最近は、全く違った形で扱われる。大人の対応が、これ程忘れられた時代も珍しいと思える。皆に届く声が、一部の組織に握られ、身勝手な振る舞いが罷り通る時代に、幼稚な心は、関心を呼ぶものとなる。子供の罵り合いの如くの遣り取りに、呆れてものが言えぬ空気が満ち溢れる。だが、そんなことを当然と扱う社会は、何もかも歪曲させたまま、回復の兆しが見えぬと嘆く。言葉を失うとは、こんなことかも知れない。

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9月10日(土)−継続

 その日が迫るに従い、懐かしく思い出す人もいるだろう。あんな思い出を懐かしむのはおかしい、との意見もあるだろうが、過ぎたことは過ぎたこと、それがどんな結果を産んだとしても、思い出は思い出だろう。十年一昔といったものだが、そんな感覚とは別に、それ以降の流れを見ると、やはり懐かしいのでは。
 あの時、このサイトを覗いていた人々は、驚きの入り混じった気持ちを、チャットという形で交換していた。画面の向こうに展開される、まるで映画の一場面のような光景に、どんな感覚を持つべきかは、未だに見えてこない。人の経験などというものは、常に情報不足に陥っているようで、こんな時の反応も、何がどうしたのか判らぬままに、時間が流れていく。当時の賑わいを懐かしく思い出しながら、今の状況を眺めていると、こういった場所での活動が、大きく変貌したことが判る。ネットに張り付いている時間の無駄が指摘され、如何に素早く意見を交換するかが問題となり、様々な手立てが講じられてきた。一見、便利さが拡大しているように見えるものの、本質的な部分での問題は解決されておらず、依然として一部の賑わいに留まっている。所詮、遊びの一つに過ぎないのだからと、簡単に片付ける方法もあるが、そんな場所に、同じくらい長い期間、様々なことを書いてきた人間としては、何か意味を持たせたい所である。あの事件の半年後位から始めたこの場所の落書きは、予想に反して、これ程長く続くこととなった。意味は未だに見出せないままだが、続いていることは何かを意味しているようだ。何時まで続くかは判らないが、負担に感じるまでは、と思う。

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9月9日(金)−待機

 情報の大切さを訴える人々が増えた。正確なものを受け取らないでは、正しい判断を下すことができぬ、ということなのだろう。これを間違った意見と責める人はいないだろうが、では、これが正しい結論となるかと問われると、果たしてどれほどの人々が自信を持って返答できるだろう。要求は正しいが、実行は、と。
 確かに、あの時、正確な情報がもたらされていたとは言えぬ状況にあった。全てとは言わぬまでも、一部しか与えられず、不十分な話に憤りを隠せぬ人が沢山いた。その経緯を眺め、欠陥を指摘する為に、正確な情報を迅速に、といった話が出てくるのは、当然のことだろう。だが、その一方で、情報不足が否めない状況とは言え、ありもしない偽情報に振り回されたり、単なる不安感から異常な行動に出た人々は、異様に思える程の数に上ったのではないか。こんな経験から、正確な情報さえ出されれば、そんな異常行動は防げるものと考えるのも、一理あるように感じられる。しかし、全く同じこととは言えぬまでも、災害は様々な形で人々の上に降り掛かる。そんな時の行動に、首を傾げたくなるものが多いのは、いつものことだろうか。更に、情報に関わる話が重要との認識があるからか、発信源を批判する声が高まることに関してとなると、少し行き過ぎの感があるように思える。特に、これまでに強調された情報発信は、正確なものを流すことが第一とあるだけで、最終判断を待ち望む声とは異なっていた。どちらへ逃げるかを指示されなければ、何の行動も起こせない、という不満ではなく、正確な情報が無い状況では、正しい判断が下せないというものだったのだ。だが、半年を過ぎようとする時期に至り、避難と関わる事象が起きたとき、その指示が出されなかったことに文句を並べる人は、今度は何を望んだのだろうか。波が来る話も、高さの予報が誤りだったことへの批判が集中したが、即座の退避を心掛けるという言い伝えは何処へ行ったのか。待ちの姿勢が当たり前になったのだから、と言ってしまったら、おしまいのように思う。

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9月8日(木)−依存

 裏切られたと思った人が多かっただろうか。安全と言われて、それを信じたが為に、被害に遭った時、そんな気分だったのではないか。科学技術の粋を集めて、といった文言が踊り、安全神話が作られていく。起きてしまえば、その脆さに愕然とするものだが、前には、夢の実現に喜びを隠せなかったのだろう。
 科学技術は、人間に関わるものとして、その進歩に一喜一憂したり、恩恵に浴したりと、人々の生活や人生に影響を及ぼす。総じて、良い方向への影響が多いが、何か事が起きる度に、負の面が目立つこととなる。人間の身勝手な判断は、こんな所にも見え隠れし、悪いことが起こった直後には、まるで科学が悪魔の手先であるかの如くの反応が巻き起こる。冷静さを取り戻した後に、反省を繰り返す人がいる一方、熱病に冒されたに過ぎぬといった、自分勝手な言い訳を繰り返す人もいる。彼らこそが諸悪の根源であり、双手を挙げての歓迎と、罵りとも思える酷評を、場に応じて使い分ける態度には、確かな根拠といったものは感じられない。科学は全く新しいものを産み出す力を持つのではなく、それまでの情報を整理した結果から導き出された範囲の力を示すに過ぎない。想定外という言葉は、関係者から発せられたとすると、厳しい批判の声が届くが、元々、想定の範囲でしか適用できないのが、科学技術の常となる。そのことを忘れ、何もかも頼り切ろうとする心情に、何を感じるべきかは、個々人の判断の範囲のものだろうが、決断の権利さえも放棄したとなっては、結果に対する責任は果たせない。便利な生活の一方で、様々な危険性が頭を出すとなれば、その均衡を保つことが重要となる。一方的な解釈ばかりが横行する社会で、こんな感覚を持つことの難しさは、確かにかなりのものであろうが、身を守る手段がそこにしかないとなれば、やはり実行するしかないのでは。

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9月7日(水)−普段

 平均を好む国民性からか、何でもかんでも平均して、その値に縛られることとなる。自分で操作した数字に、自らが縛り付けられるのは、何とも不思議な姿に違いないが、安心第一の構えの現れと見れば、仕方のないものとも思える。ただ、始めの部分の安心が、その後の不安の増長へと変換されると、何の為かと思うしかない。
 日々の天候に関しても、同じような心理が働いているのだろう。平年という言葉に引き摺られる態度には、何を無理してそこまで、といった感想が漏れそうだ。気象に関しては、機会あるごとに異常との指摘を繰り返す人たちがいて、その割に、それらの値までが計算に取り入れられることには、何の批判も及ばぬことから、不思議さは更に増す。異常であれば、データから外す必要があり、その作業後の値にどんな違いが生じるかを、議論する必要があるだろう。その手順を追うこと無く、単に、その場限りの指摘を繰り返すだけでは、先を見通す感覚は生まれそうにもない。更に、これも天変地異の一つと見なすと、基となる測定値は、ほんの百年程の蓄積しか無く、最近特に取り上げられている千年単位の変動に比べると、何とも矮小な雰囲気が漂い始める。それにしても、依然として、語られることの多い「初めて」という言葉は、人間の生涯と変動の周期の長さの違いからすると、殆ど意味を持たないことにならないだろうか。造成地や埋立地など、人間の手が入ったものとなると、その数字の意味が更に低下するような気がする。それ以前の値と、以後の展開を考慮すれば、安直に適用することに、疑問を挟まざるを得ないからだ。それにしても、なんだかんだと、煩い話が出てくるものの、それが将来に活かされることが無いのは、更なる不思議と言うべきか。

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9月6日(火)−代替

 資源の問題は多方面に影響を及ぼしている。枯渇の問題のみに注目が集まっていた頃と違い、環境への悪影響や確保の困難など、資源小国と呼ばれる国にとっては、厳しさが高まるばかりに思える。そんな中、震災による事故から、別の面にまで影響が及び始め、自然エネルギーなる言葉が、殊更取り上げられている。
 この言葉に違和感を覚えるのは、人工的なものへの反発が込められているからだろう。その実、どちらにしても、人が産み出したものは一つも無く、所詮自然に存在する資源を、扱い易くしただけのことだからだ。にも拘らず、自然を殊更に強調する姿勢には、全く別の思惑があり、早晩馬脚を露わす気配がある。恐怖感から走り出した人々がいる一方で、一見冷静を装いつつ、違った観点から意義を強調する人がいる。効率の悪さとの批判には、技術の進歩で応え、経費の問題に関しては、不思議な計算を使い利点を強調する。目的が明確となり、そこへの議論の導き方を考えれば、苦もなく達成できることに過ぎないが、以前と異なり、追い風が吹く中となれば、勢いは増すばかりとなる。だが、経費の問題が取り上げられることから判るように、経済の観点が重視されていることは確かで、効率の問題はそれを支える為に、様々な装飾が施されている。光による発電も、風による発電も、仮定の上での計算が実行され、恰もそれが事実を表すように扱われる。しかし、現実には、達成できぬ場合も多く、鵜呑みにできない情報なのである。開発者が効率を問題にする時には、最適条件を揃えた上での話となるが、使用者がその機会を得ることは殆ど無い。不満が広がったとしても、仕様書に示された話は別と、突っぱねることは容易いのだ。経済への影響も、補助金ありきの条件付きで、一部に利益が貪られるだけに見える。本質的な問題は、何処にあるのだろう。

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9月5日(月)−家庭

 海の向こうでは、人が集まる機会でも、誰かの家でとなることが多い。だが、その家の主が全てを準備するのでは、合理性は微塵も感じられないだろう。その代わりの手段となるのが、ポトラックという方式である。語源は闇鍋のようなものだともあるが、確かなことは判らない。それぞれを楽しみに、といった所か。
 あの国の合理性は、強制しない所に現れているだろうか。この国の人々のように、何を作っていったら良いかで悩むことなど無く、出来合いのものでも「お気に入り」を持ち寄れば、それで歓迎される。こんな状況だから、役割分担などもあり、独身者への配慮も当然とされる。それでも、移民からなる国では、それぞれの出身のお国柄を表す食べ物が集まり、文字通りの楽しみができることとなる。この国ではそんな背景はないものの、国ではなく家ごとの違いが現れた食べ物に、愛着を感じる話が多い。男女差別の一つと批判されかねない、お袋の味がそれにあたるものと思うが、最近の状況には、そこから遠ざかる傾向が著しくなりつつある。便利な場所という店は、様々な商品を提供するが、チェイン店独自の味を強調する広告が目立ち始めた。美味しいからそれを買って帰って、家族で楽しもうという図柄だが、その展開に違和感を覚える。便利だからと、独身者や高齢者が利用するのはやむを得ないとして、家族での利用が当然と考える姿勢には、何かが根本から崩れている気配がするのだ。家独自の味だからこそ、懐かしさがこみ上げるものだが、そのうち、こんな話が店の味に適用されるというのだろうか。便利さが、様々なものを壊し続ける今、改めて考える必要がありそうに思う。

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