強請と書いて、ゆすりとか集りとか読ませる。要するに、人から金などをまき上げる行為のことを言う。昔は、街の彼方此方でこんな行為が行われ、被害者の声が取り上げられ、街の浄化を訴える運動へと繋がった。身勝手な人々が行為の中心であり、ろくな仕事もせずにうろつく、破落戸などと呼ばれていた。
特殊な人々に当てはまることと、皆が思っていた時代と異なり、最近は、ごく普通の人々がそんな行為に及んでいるように見える。一部に限られているものの、手に入れられる権利を得ると、できる限り多くのものを、と努力する姿に、似通ったものを感じるのだ。被害を受けたのだから、それを補うものを手に入れる権利がある。そんな思いが行動に反映されているのかも知れないが、外から眺めていると、全く違ったものに映る。当然の保証を超えて、更なるものを求める姿には、始めに取り上げた言葉が重なる。こんな類いの人々に、人品賎しいとか、下賎な連中とか、そんな言葉を思い浮かべるのは、考え過ぎと糾弾されかねないが、そんな思いを抱く程、今の世の中には、そんな顔つきが溢れているように見える。恥も外聞も無く、法外の要求を並べる人が、カメラの前に堂々と登場する。画面の前で呆れたとしても、そんなことは本人に届く筈も無い。殊更に取り上げる連中の問題でもあるのだが、それだけでもない気が、ある光景を見た時に思った。ある県の長が「約束」を言わせようと、強要する顔つきには、本人の思いとは裏腹に、下賎な正体が覗く。選ばれし者たちの、こんな行動が、選んだ愚民たちに伝染しただけのことなのだ。義務と権利、そんな言葉を考えなければならない人々が、こんな愚行を繰り返せる程、人々の心は賎しさに満ちているのだろう。
電力供給の心配は無くなったとの発表があり、ほっと一息といった感があるが、自然はそんなことはお構い無しに、厳しい残暑となっている。隣の国では、油断大敵とも言えそうな大規模停電が起こり、批判の声が大きくなっているようだが、こちらは幸い、今の所何も悪いことは起きていない。このまま、何事も無く、と願う。
暑さは真夏とは違うとは言え、報道によれば、かなり多くの熱中症の報告がある。これも一種の油断なのかも知れないが、最も暑い時期と比べれば、5℃程低い気温でも、大きな影響を受けるようだ。朝晩の気温が下がるようになったから、それとの差が大きくなったことが、体の変調を招いたとの意見もあるが、本当のところは判らない。少しずつ変化が訪れた時に、一安心と思うことは、何も悪いことではないが、安心が油断に繋がるとしたら、果たしてどうだろうか。災害に襲われる度に、「油断」の一言が紙面を賑わせ、想定の是非が取沙汰される。一個人の判断の誤りが、国家の存亡を決めるような時代ではないが、それにしても、個人個人の判断が、これ程重視される時代も珍しい。毎日、平穏に暮らすことだけを願い、自分の生活を守ることだけを目指す。そんな人々の集まりに過ぎなかった頃と違い、近年は複雑怪奇としか言えない程に、互いの関係が入り組んだ組織が、国を構成している。一部の判断の誤りが、その組織の中だけでなく、別の組織の混乱を招き、全体に大きな影響を及ぼす。そんな混乱が露呈する度に、何が必要なのかを論じる人々が登場するが、その効果の程は、殆ど期待できないものであった。議論の重要性はあるものの、的外れは所詮役立たず、というだけで、結局、自分の判断だけが頼りということだけだろう。
話し合いは、何の為にするのだろう。あることについて、様々な意見を集め、そこから何らかの結論を導いていく。ごく普通に考えれば、そんな所になると思われるが、現実を目の当たりにすると、全く違った様相が見えてくる。何時頃からか、不平不満を吐き出させるという目的を、第一と捉える動きが出てきた。
形式に囚われず、意味のあるものとして、話し合いを実施する為には、十分な意見交換とそこから結論を導くことが、最も重要なやり方に思われる。だが、実行に移す為には、全体としての協力が不可欠で、上に書いたような、不平不満の捌け口といった考え方では、何も達成できないことは明らかだろう。にも拘らず、現実は間違った目的を重視し、無駄な時間を費やす方に向かう。始まりから、こんな状況にあれば、軌道修正が必要となる筈だが、全面的な協力の無い環境では、僅かな修正さえ受け容れられないこととなる。存在証明を唯一の目的とした発言や、無駄口ばかりが続く遣り取り、更には、肝心の発言が届かぬ程の雑音でしかないヤジ、こんなことばかりを繰り返しながら、重要なことを決めているかのように振る舞うのは、何故か。不思議に思うのは、こちらが常識的な考え方に拘るからであり、彼らの柔軟な考え方では、何もおかしな所は無いのだろう。会議が踊っていたとしても、それが何も産み出さなければ、意味の無いことにしかならない。当たり前のことのように思えるが、周囲を見渡すと、無意味が毎度のことのように繰り返される。時間をかけたとしても、中身のない話なら、無駄にしかならない。たとえ、短時間の議論でも、それが熟慮に満ちたものであれば、十分な成果が得られる筈だ。結局、実質的な所に目を向けず、形式ばかりに囚われることが、こんな事態を招いているのだろう。
情報の提供への要求が高まった時に、様々な反応が起こった。それさえあれば、何事も可能となるとする向きがある一方、情報の質への注文が殺到したことは、吟味力より、信用への傾倒を感じさせた。本質を見抜くとか、見極めるとか、そんな表現が数多く見られたことは、この辺りの不安定の現れだろうか。
不安につけ込む人間や、更なる煽りを繰り返す人間は、相手の力を測りながら、自分に都合の良い展開を進める。希代の詐欺師ならば致し方ないのかも知れないが、最近の傾向は、浅薄で、如何にも頭の悪い連中が、こんなことに関わっているように見える。人の質を見抜く、と表現すると、何とも賎しい行為のように映るかも知れないが、皆が日常的に行っていることに過ぎない。それを悪い行為のように扱う人々は、何を目的としているのか、殆ど見えていない。だが、値踏みをされたり、それを基に軽い扱いを受けると、何やら不当な扱いを受けたように感じるようだ。扱い方を変える人間への反発は、ある意味当然のように思えるが、逆に見たら、どうだろうか。つまり、何故、そんな軽い扱いを受けるのか、また、何故、信用されないのか、といった疑問を自分にぶつけたら、どんなことが起きるだろう。こんなことを書いても無駄であるのはよく判っている。こんな扱いを受ける人の大多数は、それを不当としか受け取らず、自らの問題とは微塵も思わないからだ。こんな連中の相手をしなければならない状況は、誰にとっても面倒であり、無意味なものと映る。だが、組織の運営においては、こんな状況は日常的であり、その調整を図ることが束ねる人に課された役割と言える。時に、扱いの上下を企て、配置の転換を進める。こんな所で、肝心なことは、耳を傾けるべき相手かどうかの判断となるだろうか。
客観的な判断が最良のものとされ、如何にそれを実行するかが問題となる。だが、多くの人々の悩みは、姿の見えない客観にあり、実行どころか、何をすれば良いのかさえ見えてこない。他人の意見を集めれば良いとする話も、基となるものが無いままに走り回ると、只の徒労に終わる。結局、結論が出ないのだ。
下らない助言に振り回された挙げ句、自分なりに導き出した結論は、他人でなく、自分に頼ることとなる。自分の意見を纏めぬままに、他人のものをかき集めても、ゴミの山が築けるだけで、何も残らない。自分が大切と思えば、基礎となるものを固めることができる。客観は主観の集まり、最近はよく指摘される話だが、依然として怪しげな話に惑わされる人が多い。決められない人々は、そのうち見極める力も失うこととなる。判断力などと括るものの、それが何かを見出せない人たちは、こんな状況に落ち込んでいく訳だ。考える力を失わせる情報源が、社会を覆い尽くした結果、そういう人が増えたのだとの考えもあるが、果たしてどうだろう。そんなものに振り回される資質を持つ人は、ずっと以前から居た訳だし、振り回す相手が変わったことだけでは。悪者の代表として、情報源たちが挙って取り上げる人たちに対し、その通りと繰り返す人々は、現実には何も考えていない。結局、操作された話を信じ込み、鵜呑みにしているだけのことだ。あの日から、そんな気持ちが増してきた。事故を起こした企業の長が、体調不良で不在となり、一度退いた人が戻ってきた。彼の評判は知らなかったが、その振る舞いから力を測ることはできたと思う。たとえ、悪者の代表として、画面に映し出す努力が、なされていたとしても、だ。長にふさわしい人間が、社会から消えて久しく感じられたが、本当に久しぶりにそんな人を見た気がしたのだ。
こじつけと言われかねないが、無理矢理の推測をしてみようと思う。自分たちの世代では、まだ表面化していなかったので実感は無いのだが、一昔程度の下の世代では、もう嵐が吹き荒れ、収拾がつかなくなっていたと思う。そんな環境で育った人々は、どうも、反省どころか、その悪習を捨てていないように思う。
教室の中で気に入らぬ人々を糾弾し、恐怖の淵に落としたり、無視を決め込んだりと、精神的な圧迫をかけ続ける。どのような経緯から、こんな状況が生まれたのかは定かでない。元々、そういう土壌があったのだとする分析もあるが、だとしても、それが表面化し、急速に膨れ上がった理由が明らかになる訳ではない。いずれにしても、そんな嵐を経験した人々は、社会からの働きかけもあり、そのような行為を非人間的で悪質なものと受け取り、忌み嫌うこととなったと伝えられてきた。だが、愉快犯も含め、心の安定を求めたり、快楽を目的とした行為の味を覚えた人々は、何かある度に、それを思い出すのではないだろうか。揚げ足を取る行為や集中砲火を浴びせる連携には、そんな成長の過程における影響が、影を落としているように見える、土壌にあったとする分析からは、ある世代に限られたものとは言えぬ話が出てくるが、現時点では何が当たっているのか定かではない。にしても、密室での話題が、様々な装飾を施されて暴露され、人非人を批判する声が絶頂に達する。この図式は、まるであの教室での遣り取りとそっくりなのでは、と思ったとしても、その渦中にいたことの無い人間の想像では、無理があるのだろう。それにしても、幼稚と呼ばれた行為と酷似する成り行きに、白痴より幼稚かと思い始めてしまった。
世論とは一体全体何なのか。国民とか有権者とか、そんな言葉が乱れ飛び、姿の見えぬものの動きに、一喜一憂する。民主主義とは多数決主義との誤解は、こんな極端への道筋をつけ、下らない調査に基づく結果に、振り回される人々を産み出す。主体の無い動きには、そんな事情があることを、何故取り上げないのか。
筋書きの無いドラマ、現実の世界をそう称した人は数多いるに違いないが、今の世の中の動向を見ると、質の悪い台本書きの視野の狭い考えに基づく、劣悪なる筋書きに振り回される人が、余りにも多いように思う。普通なら、どんなに大きな集団に関しても、そこから千の桁の抽出をすれば、全体の動向を見極められるが、最近の抽出調査では、その信頼度が著しく低下しているとしか思えぬ状況が続いている。信用を高める為か、毎度抽出方法を紹介するのも、逆に言えば、如何に怪しげな手続きが行われているか、疑いの余地があることを示すのではないか。急激な変化や、数値の乱高下に関して、客観的な調査と思わせる飾り付けは、それが正しい結果との展開を約束する。その上、様々な機関による調査が、同様の結果を導くとなれば、本来ならば、その信頼度は増すに違いない。だが、現実には、更なる疑いが頭をもたげ、調査対象や設問に関する操作が、何らかの形で行われていると指摘する声が高まる。自らの考えと余りに違う世論に関して、自らの間違いを認める人の心情は、全く理解できないものと思うが、横並びの精神がこんな所にまで、病巣を広げているとしたら、深刻な容態にあると言わざるを得ない。陰陽師が幅を利かせていた時代と同じように、噂話や根も無い話に、実しやかな脚色を施した筋書きが加わり、人心を惑わす。安物の小説の如き、作られた事実は、奇を衒うものとなるのか。