パンチの独り言

(2011年9月19日〜9月25日)
(元気、期待、暴言、悲喜劇、万全、不変、天秤)



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9月25日(日)−天秤

 経済停滞を訴える声が非常に強いとの印象を持つが、その一方で、遊びへの興味を失わぬ人々の活躍が伝えられる。特別な割引が様々な事情から無くなっても、依然として長蛇の列が無くなることは無い。不況とか貧乏とか、何やら不穏な空気に家計は満たされているが、現実はどうも事情が異なるのではないか。
 無い袖は、と様々な形で奪われる金のことに、目くじらを立てる人々が、自らの欲求は抑えきれず、僅かな節約を念じつつ、出費を重ねる。何処か矛盾に満ちた行動が、こんな形で繰り返されるが、当の本人はそれに気付くことは無い。不思議な感覚と思う人も、実際には少数派であり、おそらくは、大多数の人々が同じ感覚を抱く。そんなご時世では、均衡のとれた考え方は好まれず、その場その場の判断が優先される。天秤がその度に使われるとなれば、どんな錘が使われるかは、その時に決めれば良い。都合にあわせた、と揶揄したら、当人は心外とばかりに、反論を重ねるだろうが、幾つも並べた挙げ句に、どんな様子だったかを眺め直せば、誰にも判る展開が見える。楽しみの為と、苦しみのせいでは、違っていて当たり前との考えもあるだろうが、金が絡んだ話では、そんな違いは取り上げにくい。社会の一員としての務めは何か、自分の存在意義は何か、そんなことを少しでも考えれば、違った論理も浮かぶだろうが、幸福が降って湧くことだけを願い、尽きることの無い欲望を放つだけでは、そんな方に顔を向けることは無いのだろう。

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9月24日(土)−不変

 天変地異、大災害、異常を表す言葉が並び、不安を募らせる人は少なくない。安定が失われ、予想外のことが起きる度に、将来を見通すことが難しい状況に、拠り所を失う人々が、次々に不満を漏らす。山積する問題を見れば、確かにその解決を目指すべきだろうが、それと並行して、変わらぬ安定にも目を向けるべきでは。
 大きな変化を目の当たりにして、これまでの経験が活かせぬ状況に、自信を失う姿が目立っている。藁をも掴むとは、的外れな表現だろうが、こんな時には、別の方を見る必要があるのではないか。変化変動が繰り返され、安定が見出せなくなると、人々は不安を口にし始める。それが安定を招くとは限らぬのに、安易な道としてそんな行動に出るのだろう。だが、予想通りに何も起こらず、悪い方への行進が止まる気配は見えない。負の連鎖を止める為には、何か別の手立てが必要と思えるが、それが見出せない以上、同じことの繰り返ししかやれることは無いのだろう。こんな事態に陥った時に大事なことは、おそらく別の視点を試してみることだろう。変化を見つけようとする努力の代わりに、安定や変わらぬものを見出そうとする試みが必要ではないか。人間の営みは、様々なことに振り回され、変動が無くなることは殆ど無い。だからこそ、生き続けられるのだとの解釈もあるくらいで、そこに不変を見出す努力は、無駄と言わざるを得ないだろう。だが、四季が繰り返されるように、自然の営みには多くの安定と反復が見つかる。だからこそ、自然の急激な変化に注目が集まる訳で、その中に変わらぬものを発見するのは、こんな時だから、大きな喜びを掴める機会となり得る。数年前にも取り上げたように、この時期に咲く花は、こんな時にも姿を見せている。ここにも変わらぬものがあると、何かを伝える姿が。

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9月23日(金)−万全

 あのメディアの責任を問う声が大きい。人々の考えを操作し、心を揺らし続ける姿勢、そんな所が批判の対象となるが、その指摘には大きな欠陥があるように思えてならない。長年の影響により、そのような社会が構築されたとする論理も、破綻する程ではないにしろ、確実なものとして受け入れるのはどうかと思う。
 社会の構成員の関与は、このような問題を議論する上で、重要と見なされるが、弱者とか受け身といった感覚を優先するあまり、それが無視されているようだ。一人一人の考えは、それぞれに異なっているのが当然、という話について、何処からも疑問が挟まれることは無い。だが、現実を目の当たりにして、まるで洗脳されたかの如く振る舞う人々や、自己の判断を放棄した人々に、外的な作用のみで、こんな事態に陥るのか、すぐには受け入れ難い状況を思い浮かべる。指示待ちの若者への批判は強まるばかりだが、その声の主に対し、同じ状況を見る思いがある。避難に関して、自治体は勧告や指示という形での関与しかできない。どんな背景でこのような制限がかけられたのか、想像するしかないものの、そこには個人の判断や権利の尊重があるように見える。もしそうだとしたら、今の状況はどういうことか。至れり尽くせりの客商売の如く、人々の歓心を買う行為を繰り返し、思考力を失った人々でも困らない仕組みを構築する。安全の保証のような宣伝文句も、その実態を知れば、浅はかな考えに基づくものと判るし、現実を前にして、無力な結果に繋がることを考えれば、無駄としか言いようが無い。個人の判断が全ての基本とする前提が、失われつつある時代において、白痴化とは違う、幼稚化といった感じの動きがあることに、個人の尊厳を失わせる洗脳を思い浮かべるのは、穿った見方だろうか。

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9月22日(木)−悲喜劇

 三十年程前、海の向こうの国は勢いを無くしつつあり、それに伴って自信を失いかけていた。勝者であるべき存在が、長年の戦いに敗れた末に、疲弊した心からは何事にも毅然とした態度を保とうとする力が、失われつつあった。悲観的な思いが社会を満たす中、少しでも明るい未来を、とする動きが強められていた。
 そんな動きの典型は、娯楽の代表たる映画の中に現れていた。演劇には大きく分けて、楽しい方に向かう喜劇と、悪い方に向かう悲劇があり、社会が悪化の一途を辿っていた中で、悲劇を避け、喜劇や好転に結びつく結末を殊更に取り上げる傾向が目立っていた。単純な国民性、と言ってしまっては無理があるのかも知れないが、それほど深刻な状況に陥っていたとも言える。ただ、それを国民性の問題としたい部分があるのは、現在のこの国の状況を眺めるにつけ、異様な程に悲劇的な展開を好む傾向に、違和感を覚えるからだ。何故、これ程に強い傾向を持つのか、分析をするつもりは無いが、単純な考え方によるのか、それとも、複雑怪奇な論理立てによるのか、すぐに見えてくるものは無い。ただ、一つだけ言えることがあるとすれば、こういう行動の意味は皆無であり、何の役にも立たないことを、毎度のように繰り返す性癖には、まともな人間性が感じられないということだ。間違いを認めること無く、何度も同じ穴に落ち込む傾向には、それらの人々の存在意義は全く感じられず、無視したとしても何の損害もない。心の平安がこれ程取沙汰される時代も無いのだろうが、それを乱す力がこれ程強大な時代もおそらく前例がない。単純に考えれば、耳を傾けるべき存在を、選び損なっているだけのことだが、それさえ気付かぬ程蝕まれた心には、次代を支える力は残っていない。

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9月21日(水)−暴言

 インターネットは便利、と言われて、反対する人は少ないだろう。様々な情報を手に入れることも、誰かと連絡することも、以前に比べたら、ずっと気楽なものとなった。但し、あの大災害の時、どうだったかは別かも知れない。正しい情報も、誤った情報も、何の選択もされないままに、垂れ流されたからだ。
 受信する側からすれば、こういった所の選別は必要不可欠に思えるが、さて、発信する側からしたら、どうだろうか。自らの考えを人に知らせる場として、こんな仕組みを活用する人は多い。彼らに、情報の正誤や発言の倫理観などを基に、何らかの選別がなされると言い渡したら、どんな反応が返ってくるだろうか。自分の考えや発言は、自らの責任の下に、何の間違いも無いことだから、問題とはならない、との返答が多いと思われるが、一々細かい所にまで指摘がされるとしたら、煩いと思うに違いない。自由に発言できる場所として、大いに活用してきた人間が、少しの妨げが入れられるだけで、反発をする可能性は大きい。それほど、自由というものを重視しているからだろうが、他人に対する配慮を欠いたり、差別的な発言が繰り返されるとなると、自由とは言え、ある程度の制限が必要となり得る。他人事としてこんな話を聞いても、大した影響は感じられない。しかし、当事者として制限を加えられたら、どう感じるのだろう。匿名性の問題は何度も取り上げてきたが、その一方で、実名を示しながら、極端な発言をする人の問題も、放置しておけない程のものになりつつある。実名や顔をさらすことで、どんな意味を持つのかはよく判らないが、こうしているから良いだろう、といった感覚が前面に押し出されると、却って変な気分になることも多い。意味が不明なだけに、更なる疑問が出て、気持ちが落ち着かないといった感じだろうか。

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9月20日(火)−期待

 言葉遣いが話題となる。立場ある人間にあるまじき発言、などと批判の雨霰が降ったのは、ついこの間のことだが、同じような例は枚挙の遑がない程に、続出している。言葉の選び方、時と場所の弁え方、そんな部分の不注意が産んだ結果とされるが、罵声を浴びせる人々にも、欠陥だらけの発言が頻出する。
 以前、日本最大の河川の流域で豪雨が降ったとき、川の状態を伝える中継で、「決壊」の言葉が何度も使われたことを、取り上げた記憶がある。川の水が堤防を乗り越え、流域に溢れる光景を指して、決壊と述べたことは、明らかな誤用であった。氾濫とすればいいものを、どういう訳か、より危機的な状況を伝える言葉を選ぶ。こんな傾向は、あらゆる所に溢れていて、辞任に追い込まれた人の能力を、糾弾する姿勢が、何とも危うい基盤の上に築かれていることが判る。ただ、彼らにとって、自らの間違いはほんの少しの気配りが欠けただけに過ぎず、何の問題も無いことと片付けられる。どのみち、毎度お馴染みのこととする訳だが、こんなことの繰り返しは、慢心を招くのだろう。土砂が溜ることで築かれた堤防は、人造のもののように制御できない。その為、注意が必要とされ、監視の目が向けられているようだが、その流域で、再び豪雨が警戒されていた。その中で流された話には、耳を疑いたくなる言葉が踊っていた。雨の後も異常を示さなかった状況に、ある報道は、「決壊せず」という文言で飾った。制作者は露とも感じなかったのだろうが、何かを期待するかのような表現に、憤りを感じた人もいるだろう。正しい内容と正しい表現、同じものに思えても、感じ方は違ってくる。

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9月19日(月)−元気

 元気の無い国にあって、最も元気のある人は、といった紹介が続く。以前なら、少しでも元気づけられるようにとの配慮、といった解釈がごく普通だったが、今では、そんな考え方は影を潜める。使い古された為か、はたまた、心境が複雑になったからか、真相は分からないのだが、確かなことは、元気が出てこないことだ。
 他人の言葉に踊らされることに、かなりの抵抗を覚えたのは、昔のことだろうか。今では、そんな言葉が届く場所は無く、舞台で演じられる芝居を見るような雰囲気が漂う。何もかも創作の世界に入り、演技とかやらせとか、そんな言葉ばかりが響く。少々の演出を大目に見た時代と異なり、始めから全てが偽物となれば、誰が信じるものかとなる。ただ、一方では、活躍する人々を、特別な扱いで取り上げるのでなく、身の回りの人々の活躍を、自分の目で確かめることの方が、遥かに重要であることも確かだ。他人の目を通すことに慣れ、それをはなから信じてしまう態度が生まれ、騙されたと知った挙げ句に、猛反発を催す。如何にも単純な流れで、何の深みも感じられないが、現実がそうなのだからしようがない。高齢者が活躍する時代と言われても、現実には、その状況が正しいものとは思い難い。社会の中心にあるべきは、やはりそれなりの責任も義務も負うべき世代であり、その地位を簡単に譲り渡すのは、大きな間違いとしか思えない。何時頃から、こんな状況が生まれたのか。おそらく、数が増すに従い、社会の中の扱いが徐々に変わり、それがある閾値を超えた途端に、おかしなことが始まったのではないか。毎度お馴染みの多数決主義が、こんな所にも影を落としている気がする。いずれにしても、元気の無い中で、矢鱈に元気な人々に、さて、どんな反応をすべきだろうか。

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