パンチの独り言

(2011年9月26日〜10月2日)
(不問、期間限定、疎通、家族、悲喜交々、危機感、嗅覚)



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10月2日(日)−嗅覚

 国の単位で考えれば、その一部にしか過ぎなかったとは言え、大震災が起き、その後の事故の展開から不安が広がってから、既に半年以上も経過した。直後には余裕を無くし、自分のことさえ見失う程だった人々にも、時間による解決は広がる。徐々に季節の移ろいを感じる目が戻りつつあるのは、当然なのかも知れない。
 そんな中で目を奪われる赤い花が咲き乱れ、あれほどの事が起きても、四季の移り変わりには、何の変わりもない。人間にとってどれほどの被害があろうとも、どれほど心に響いたとしても、自然にとっては時に起きること、程度のことなのかも知れない。見えないものに襲われると、大騒ぎを繰り返したとしても、何らかの解決に繋がるとは限らない。それより、見えぬ敵への恐怖から、心の不安が広がるばかりで、それを抑える手立ては見出せない。そんな状況に自ら陥ることには気付かず、大きな力で動かされていると信じる人々には、自然が既に元の姿を示したとしても、俄には信じられないのではないだろうか。目は真実を見分けると言われる割に、見たくないものを無視したり、違う見方を当てはめたりと、心理を反映する機会が強い感覚器官であり、実は、嘘に振り回され易いものかも知れない。それより、原始的と言われる器官の鼻は、匂いを嗅ぎ分ける為のものだが、香りは意外な形で伝わり、突然現実に引き戻されることになる。良い香りも悪い香りも、予想通りの形で伝わることもあるが、ふと感じることも多い。おやと思わされることで、状況把握ができるのだが、どうもその感覚は失われつつあるのではないか。溢れる情報を目で追い、見たものを信じ込み、振り回される心からすれば、いい加減な匂い情報は、大したものでないとされる。だが、危険を察知する為の感覚で、嗅覚は非常に重要なものであり、生存を左右することにもなりかねない。難しいことはおいて、こんなことを思ったのは、金木犀の匂いが寄ってきたから。

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10月1日(土)−危機感

 学者と呼ばれる人々が挙って危機感を表明する。国の経済は瀕死の状態にあり、先行きに光は見えないとする話には、それなりの重さがある筈なのに、掴みようの無い軽さと脆さは、何を意味するのだろう。危機を訴えても、遊戯にも似た活動から、通貨の価値は高いままで、危うさは殆ど幻としか思えない。
 彼らの中には、警告を与えるのが役割と、自任する人々が多いようだが、弁舌には重みが感じられない。取って付けたような解釈や都合の良い仮定に基づく展開など、兎に角狭い視野と浅い考えばかりが目立つのは、彼らの実力の無さと、それにも拘らず、自らの立場を守ろうとする目論見の現れから来るものだろうか。思慮深い人々からは、殆ど無視される存在が、愚かな人々には、頼りがいのあるものと映るのは、どんな違いから来るのか、理解不能な状態にあるが、それを明らかにすること自体にも、大した意味は無さそうに思える。結局、自らの判断から、間違いを繰り返す人々には、あらゆる手助けが役に立たず、その勢いを止めることはできない。注目を浴びる人々も、前言撤回などという愚行は行わず、放言を繰り返すのみだから、本来ならば、批判の矢を浴びる筈が、記憶喪失に陥る連中からは、何が起きても拍手を浴び続けることができる。何とも不可思議としか言いようのない状況だが、渦中の人たちにとっては、何の間違いも誤りもないものであり、互いに支え合い、社会を活気づけるものとなる。少し引いて眺めてみれば、その杜撰さに目を疑うに違いないものも、勢いに任せて走り続ける人たちには、目標に邁進する賢者に映るのだろう。現実に目を向ければ、そんな悲観論とは無関係に、自らの生活を楽しむ人々が居り、国の健全性が意識できると思うが、まあ、彼らにはどうでも良いことかも。

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9月30日(金)−悲喜交々

 こんな状況では楽観的に物事を考えるのは無理、という意見が大勢を占めるだろう。目の前で展開されるものについて言えば、確かに先行きが明るいようには見えないし、もしそれに参画するのであれば、真剣に取り組む必要があることも確かなのだ。だが、悲観する必要があるかどうかは、また別の話ではないか。
 うまい話には乗るな、といった助言が巷に溢れているが、悲観的な空気が流れる中では、何とか好転するものに縋り付きたくなる。それが見込みのあるものかどうか、判断を下すより早く飛びつく人々は、痛い目に遭うこととなる。吟味が必要との声があるが、経験のないものにどのような見方をすべきか、戸惑うばかりの人も多い。それを更に増長しているのではないか、と思えることは、不安を煽る声の大きさであり、その存在は悪い方向への後押しとして、無視できない状況になりつつある。悲観に満ち溢れた中で、更なる不安が漂えば、誰しも将来を見通す気持ちが失せる。目の前の物事に、短期的な見方を当てはめ、成果の良し悪しを見極めようとする。それ自体は必ずしも悪い結果を産む訳ではないが、じっくりと考え、粘り抜く姿勢は、評価されることにはならない。そうなれば、何事にも短期的な判断が下され、まさに短気な雰囲気が満ちてくる。中身の質の高さより、表面的な、所謂見栄えの良さばかりが取り上げられ、化粧の施し方に力が入る。一見良さそうに見えるものに、つい手が出てしまうのも、そんな風潮からすれば当然だろうが、それによって火傷をするとすれば、何処かに手違いがあると言えないだろうか。問題点を見極める為に、悪い方に考えてみることは、常に必要な手立てであり、誰もが身に付けなければならないことだが、これは悲観視とは明らかに異なる。その違いに気付かぬ人を弄ぶような風潮に、手を貸してはいけない。

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9月29日(木)−家族

 教育と言えば、学校で行われるものという反応が、ごく普通のものだろう。だが、人間にとっての教育の始まりは、家庭にこそあり、言語習得や意思疎通などの基本は、そこで身に付けられる。教科書も無く、専門家も居ない世界が、その始まりとされることに違和感を覚える人もいるだろうが、歴史的には学校の存在の方が新しい。
 独自のものの確立より、統一的なものの導入が優先される時代となり、学校の存在は大きくなるばかりだが、その一方で、ある限界が見え始めた印象も受ける。時代の進歩に合わせ、内容の向上が図られたのは、そろそろ昔日のこととなりつつある。内容の充実は、無理難題の押しつけと受け取られ、人間の能力の限界が意識され始めると、適切な水準を設定する方向に、舵が切られることとなった。無理なく理解を進めることが、成長に繋がるとの神話も手伝い、挑戦的な課題より、無難な目標が優先され、達成感という言葉が多用されることとなった。暫く、そんな傾向が強まるばかりだったが、そろそろ、この手の考えにも綻びが目立ち始めたようだ。手軽に達成できる目標からは、満足感が得られる訳でもなく、意欲を引き出す為には、逆効果でさえあるとの指摘も現れ、適正な目標に対する認識を改める必要がありそうに思える。統一的であるが為に、政策やら国策やら、そんなものに左右されるものだからこそ、こんな混乱が起きるのだろうが、その時代に成長し、生きる人々にとって、ただ巻き込まれるのは、たまったものではない。そんな考えに至ると、ふと家庭における教育の大切さに思いが及ぶ。達成感や意欲などの問題は、学校だけが解決できるものではなく、家庭からの関与も十分に可能なのだ。そろそろ人任せの態度を改めてはどうか。

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9月28日(水)−疎通

 正しい言葉遣いといった話題は、事ある度に取り上げられる。その一方で、乱れの現れの実例が示され、誤りを指摘する声が聞こえる。ただ、こんな事に多数決が馴染まないにも拘らず、大勢を占める用法が恰も正解であるかの如く扱われるのは、使う側の事情こそが言語において最重要であるということなのかも知れない。
 用法の正誤表を示し、よくある間違いを指摘するのは、誤りを正す為に必要な手続きだろう。だが、正誤を分ける決め手は、語源の問題だったり、専門家の指標だったりし、意思の疎通という点からの判断は、殆ど採用されない。多数派こそが全て、という考えは、必ずしも正しいものとは言えないが、使う人々が障害無く、円滑な遣り取りができるのなら、それで十分という考え方もある。それが仲間を増やす方向に働けば、結果として大勢を占めることに繋がる。当然の帰結とも言えるが、言語を専門とする人々にとっては、賛同し難いものではないか。だが、自然の流れに任せれば、といった考えに繋がるとなると、その経過に従い、一時的な混乱が広がることになり、困ったとなるのかも知れない。何度も検討されてきたことだろうが、正しい言語といった観点から、検定を始める動きが強まりつつある。敬語の乱れを問題とする動きは、かなり昔から起きていたが、悪化の一途を辿っていると見なされる。また、文章表現の稚拙さに関しても、以前から問題視されてきたが、検定導入機運に乗せて、読解も含めた内容を編み出しているようだ。従来から、入試での流用を目玉として、購読者の拡大を図っていたが、これをきっかけにということだろうか。ただ、これらの問題を眺めるに、言語による意思表現に、唯一の正解があるかどうか、気になる所ではある。

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9月27日(火)−期間限定

 数字に騙されることは屡々あり、何度遭っても同じことを繰り返すのは、深層心理への影響によるのかも知れない。それに比べると表層心理とも言えるのが、朝三暮四と言われる話に関わることで、目先のことばかりに心を奪われ、その差異に目が向かない話だろう。善意からの行為は評価するが、有無も言わさずは大反対と。
 様々な機会を捉えて、寄付を繰り返した人は沢山居るに違いない。彼らから見れば、善意がどのように巡り巡って、人々の役に立つかは気になる所だ。それが宙に浮いたようになることは、自らの気持ちを踏みにじられた如くに感じ、憤りを抑えきれないだろう。だが、本当の復興を目指す段階では、善意だけを頼みにすることは、余りにも安易な考えであり、目標達成はとても望めない。そんな中で、臨時と称して全体の負担に頼る政策は、本来批判の対象とはなり得ない。ところが、人気取りしか頭に無い人々には、決して賛成してはいけないものらしく、平時と変わらぬ態度に、驚くばかりとなる。次々と噴出する問題に、解決策を講じることは不可欠であり、その為の資金が必要となれば、調達に走ることは常識だろう。それに反対する心理は、理解不能なばかりでなく、別の理由でそんなことを繰り返す人間の賎しさに、そろそろ決別しなければならないと思う。だが、その一方で、資金調達における臨時的な措置が、いつの間にやら常態化しそうな雰囲気にも、別の賎しさが浮かび上がる。緊急時とはどれほどの期間と見るべきかは、判断の難しい所とは言え、精々数年単位を設定し、その期間ごとの見直しを盛り込むことが、常識的な手法と思われる。そんな中で、十年を表明したことには、今までに溜りに溜った欲求の爆発かと思える程で、見通しの甘さを露呈するだけの、無能の現れに思えてならない。

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9月26日(月)−不問

 数字に弱い、と自覚する人は多いと思う。それは一種の警報のように、自らの行動を制限するものとして、役立つ部分もある。ところが、最近の風潮を見ると、正反対な感覚を持ち、無謀な言動や行動に走る人が目立つ。一つには、彼らの間違いを擁護する雰囲気が流れており、恰も正当なものに思わせることが原因となるようだ。
 空から何かが落ちてくるとして、皆に不安を押し付ける報道がなされたが、そこでの数字は、3200分の1とあり、説明は3200回同じことが起きたらその内の一回に起きるとあった。これは、人によると、3199回何も無かったら、次の一回は確実だという意味と受け取るらしい。確率の考え方の難しさは、克服不能と思う人も多いが、コイン投げを思い浮かべるだけで、こんな受け取り方が大間違いであることは明らかだろう。単なる誤解の問題だけでなく、想像力の欠如により大きな問題があることに、気付かぬ人の多さには毎度驚かされる。全く違う数字の問題は、義援金の使われ方の話に触れ、1000億程度の金が使われずに残ったことに対して、折角の善意が無に帰するように見え、その無駄があるのなら、増税などは論外とする意見にある。全く違った仕組みのものを、金に絡む話として混ぜこぜにする思考力の欠如も驚きだが、復興に注ぎ込まれる資金の額との違いに思いが及ばず、自らの財布から出るものとして、十把一絡げにする感覚に、呆れるばかりとなる。国民一人当たりにして、たった千円にしかならぬ額と、数十万円とを同じ感覚で捉える。如何に馬鹿げた考えか、即座に指摘してやらぬことが、こんな劣悪さを放置する結果を招く。下らぬ意見と一笑に付す代わりに、貴重なものとして取り上げる姿勢にこそ、こんな社会の直接の原因があるのだろう。

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