パンチの独り言

(2011年10月3日〜10月9日)
(不健全、正義、名分、得手勝手、疑惑、気持ち、発露)



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10月9日(日)−発露

 自分の意見を言えない人が増えた、との指摘があってから、随分の時間が経過したが、その傾向に変化はあったのだろうか。機会が与えられないから、方法が判らないから、といったものから、自分の意見が無いから、という極端なものまで、理由は様々だったのだろうが、それぞれに変化したものの、解決には至っていない。
 機会や方法については、この独り言のように、誰が見るかも判らぬ場が提供され、それぞれに検索という糸が繋がることで、手繰り寄せる人が現れる。言葉を拾うことさえすれば、大抵の場所に到達でき、意見を披露したい人々には、有り難い機会となる。だが、偶々辿り着いた場所でも、その中身は際物でしか無く、何の参考にもならない。網を仕掛けても、大した収穫が無いままの時代が過ぎ、人々はそんな行為に飽きてしまったように見えた。折角の繋がりが、単なるゴミへの誘いとしかならず、徒労に終わることばかりでは、魅力は激減する。そんな最中、繋がりを限定し、外れを減らし、当りを共有しようとする仕組みに思いつく人が出た。一つの試みに過ぎなかったものが、徐々に参加者を増やし、それによる成果が得られると、ある時期を境として、一気に世界中に広がった。意見交換が盛んとなり、情報の疎通が可能となると、それを利用したものが次々に登場する。自らの意見が皆の注目を浴びる、という変化に悦びを感じるのは、当初の目的に沿うものだが、思わぬ副産物として、活動の盛り上がりという結果が、各所で見られるようになった。人から人へ、一つずつ広がる勧誘が、この仕組みで爆発的な広がりを手に入れ、社会運動へと繋がる。国の状況を一変させる程の力を示し、各地に広がる姿を眺め、自分たちもと思う人々は、抑圧という鍵で繋がり、自由な場にも現れ始めた。当然の成り行きと見る向きもあるが、自らの欲望を満たすだけの行為とも見なせる。仕組み自体は、その違いを見分けてはくれないものだ。

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10月8日(土)−気持ち

 季節の変わり目、ホッとする反面、体調を崩すことがある。四季の変化があることは、心の変化にも繋がり、落ち着きを取り戻したり、心乱されたりする。寒さからの変化は落ち着きを無くす方に働くが、暑さからの変化は緩んだ気持ちを招き、時に、体の変調を来すこともある。風邪が流行るのはそんな現れか。
 猛暑とか言われつつも、いつの間にか気温が下がり、秋の訪れと言われるようになる。草花の様子も変わり、食べ物にまで変化が及ぶと、この間までの暑さは何処かに消し飛び、秋の楽しみを満喫することになる。不穏な話題はまだ続くものの、人々はそれぞれに楽しみを探し、季節の変化とともに徐々に落ち着きを取り戻すのではないか。心の安定が何より、という声が聞こえる一方で、油断大敵を言い続ける人や恐怖を煽り続ける人が居て、自分自身がどう振る舞うかが肝心となる。以前のように、他人の声ばかりを気にして、右往左往を繰り返していたのでは、四季の移り変わりや自然の営みを楽しむことはできない。そんな余裕が無いとの声も、多く聞こえるのだろうが、それを作るのも自分なのではないだろうか。どちらへ向かおうが、大した違いは無いと思う人も居て、今この時の振る舞いだけが重要となるのだろうが、長時間を経てみたら、全く違った結果に繋がるかも知れず、こんな意識を持つかどうかで、体の調子までが変わるとしたら、どうだろう。人々は、自分の生活を守るだけで精一杯であり、それより他の余裕は無い。そんな光景が見えるものの、ふと目を移せば、自然を楽しむ人々が行き交う。心の持ちよう次第で、こんなに違うのかと思えるが、騙されたと思って、試してみては如何だろう。金儲けの騙しよりは、身の為になるのでは。

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10月7日(金)−疑惑

 目には目を、とやり返すことが当然との考え方がある。やられたらやり返す、そんなことが終わりの無い戦いを始めさせ、泥沼への行進を続けさせる。個人間の争いは、互いの体力に頼る部分が大きく、早晩終焉を迎えるものだが、それが多数間の話となると、解決が中々見えてこない。どんなに無駄なことに見えたとしても。
 不当な扱いへの対抗策として、色々な所で話題となっている話と思うけれど、その手法に対しての批判は少ない。特に、近年の傾向は、不幸な立場の人の保護が第一であり、彼らの行動への注意や注文は殆ど無く、野放し状態にあると思う。この傾向が強まると、不幸かどうかの判断は、周囲が行うものとはならず、本人の気分によることとなりかねない。自分が不幸と思えば、どのような対抗策も妨げられない、などという状況が生まれると、応酬は高じるばかりとなり、仲裁が必要な事態となる。だが、互いに嫌悪の感情を抱き、憎しみに基づく行動が続く中で、双方が満足できる提案を示すのは、容易なことではない。不当な扱いと言っても、見方による場合が多く、断定できる事例は少ない。そんな中で、一度始まったことが、誤解に基づくとなれば、解決は更に遠ざかることとなる。ここまで読んできて、やはり何のことを指しているのか、見当がつかないと思っている人が多いと思う。特に、具体例を頭に浮かべて書いている訳ではないから、これ以上想像を膨らませる必要はない。ただ、やられたらやり返す、を基本と考えることは、たとえ不当な扱いによるものとしても、安易に始めることをやめるべきだろうし、まして、一気に盛り上がるのは、何としてでも避けるべきだろう。疑いの目を向ければ、何気ない行動も怪しく見える。そんなことが始まりだとしたら、如何にも馬鹿らしいことなのだから。

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10月6日(木)−得手勝手

 答えを求められても、曖昧な顔つきで首を傾げる。はっきりしない態度に、業を煮やし、声を荒げられる。そんなことが話題になり、思う所を正しく主張することの重要性に目が集まった。どんな内容でも、自己主張することの方が大切で、まずは声を上げ、態度を明確することが、正誤よりも優先されてきた。
 そういう時代を経てきた結果と見ても良いのではないか、と思える程、明らかな間違いを堂々と主張する人が目立っている。判断の誤りだけでなく、裏付けとなるべきものへの準備に欠ける主張が多数を占める傾向には、始めに書いた働きかけが、欠陥満載の人間の育成に、力を貸したことが示される。論理性の欠片も無い主張は、大きな声と響きの快さにより、不当に思える程取り上げられ、分かり易いものと絶賛される。社会の成立に不可欠とされる法に基づく判断が求められる場所でさえ、自らの主張を述べることに終始し、機関の決定として提示される。何の裏付けも無い考えが、これ程に蔓延する社会には、秩序の喪失が懸念されるべきだが、主張に拘る人々には、そんな心配は微塵も感じられない。自分たちが世界を築くと自任し、出鱈目なことも辞さない態度には、頑さが満ち溢れ、法を犯すことでさえ、可能と言い兼ねない。法の番人が、自らの感想を盛り込んだ文章を読み上げ、それを根拠に決定を下すとなれば、何を拠り所に行動をすれば良いのか、規範の無い社会には破滅への道しか無いように思う。重大な任務を帯びたと主張する人々は、現実には、自分たちの欲望に基づく発言と行動を繰り返すだけであり、社会全体への配慮は欠片も無い。利他主義は明らかな誤りを含むが、かといって、このような自己愛からは全体への広がりはあり得ない。自分の為に、が、他への為にもなることは、大切なこととは言え、自分だけが、と考える人からは、そんな展開は決して生まれない。

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10月5日(水)−名分

 社会制度への不満、矛盾への抵抗などが元になり、運動へと繋がることがある。他国では様々な形で、そういったものが起きているようだが、この国では、そんな連帯感のある動きは起きていない。40年程前なら、普通にそんな転換が起きたが、今の社会にはそんな空気も流れていないようだ。
 自分達が住む社会をより良いものにする為に、といった大義名分のもと、激しい活動が起こり、不満の爆発と捉えられた時代、それを外から眺める立場からは、そのままに受け取られるような感覚はなかった。大義があったとしても、そこに明確な目的は無く、達成感が得られぬままに、ズルズルと長引くだけに見えた。後から考えれば、あのこと全体が何を目指し、何処に向かおうとしていたのか、結局、そこには答えが無かったように思える。では、現場で動いていた人々には、どんな思いがあったのだろうか。おそらく、追随するだけの立場に居た人たちは、特に明確な考えもないままに、参加することへの意義を感じていたのだろう。では、先頭に立ち、目的を示していたかのように振る舞った人々は、一体全体、何を思っていたのか。その場での考えは、今更探したとしても見つからないだろうが、その答えは、それらの人々の現在の姿に見出せそうな気がする。活動を続けることで、社会の仕組みから徐々に外れた人も居たが、その一方で、熱が冷めた後には、ごく普通の道を歩み、自らの地位を築いていった人も居る。これが普通のままなら、こんな所で取り上げる必要も無いのだが、どうも、先頭に立っていた時の心の奥底にあった思いが、その後の行動に反映されているように見えるのだ。こんなことに思い至ったのは、今の彼らの行動が余りにも極端なので、ひょっとすると、あの時も同じように自分中心の考えに囚われていただけで、欲望に走っただけのことだったのだ、と。

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10月4日(火)−正義

 見慣れぬ授業風景に注目が集まり、優秀な頭脳の集まりを印象づける。教師と学生の遣り取りには、思わぬ展開があり、急激な変化に対応する思考速度が不可欠となる。下準備の為の努力や急展開に向けての対応など、実現に向けての問題は数多くあるが、表面的な魅力への憧れは、大きく膨らんでいるようだ。
 表面の滑らかさ、展開の速さ、その他様々な特徴があるが、伝える人々は、本質的なものに目を向けず、上辺の派手さに目を奪われる。本来の場から飛び出し、世界中を繋げた形での講義が実施されると、その特徴は微妙な状況を示し始めた。意見の応酬は促進され、参加者はそれぞれに持論を展開する。思う所を吐き出すことで、満足げな表情が現れるものの、議論の行方は定まらぬものへと移る。指導者が取り上げる話題は、多くの場合、正義についてのもののようだ。その議論は絶対的な正義の存在に関わるようだが、結論は各人それぞれとされる。つまり、何処でも通用する正義は無いということなのだろう。これが正しい見解かどうかは判らぬものの、世間で頻用されるこの言葉に、確実なものが無いことは、経験に基づけば、何となく判る。使う人間の魂胆は、あからさまなものが多く、特に目立つのは、自分中心の考え方だろう。子供の頃から、正義の味方に憧れ、その存在を信じてきた人々にとって、大人になってからの矛盾は、受け入れ難いものである。だが、それが人間であり、社会であるとするならば、それに応じる必要がある。正義が絶対的な存在ではなく、一部の人間が便利に使っているだけのものとなれば、それに振り回される必要は無い。自らの判断が重要となれば、違った対応も考えられるだろう。個の正義が集まる中では、やはり法という縛りが不可欠であり、その中でどう処するかが肝心となる。

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10月3日(月)−不健全

 正気という言葉が目立つ。ある日の新聞に掲載された、ある雑誌の広告文中のものだが、言葉遣いの問題だけでなく、その内容に驚かされた。何事にも批判的に挑む姿勢が、おそらくその雑誌の編集長から来るものであることは、他誌の広告ではまず出てこない、彼の名前の明示から容易に想像がつく。
 お馴染みの名前が並ぶ広告の中で、正気という言葉に目が行った理由は、それが他より大きめの活字で示されていたからだろうが、その後の驚きは全く別の理由による。その意見を示したのが、以前この国の政の長を務めた人物であり、突然の辞任は当時の正気ではない行動から来るものとの推測が飛び交った。精神の不安定が原因と言われたのに、何故だか、長の職を退けば何とかなるとの判断が下り、その後も議員の職には留まった。その決断に首を傾げた人は多く、自らの職務を軽視する姿勢に、批判の声が大きかったと記憶する。正気を失いかけたからこそ、こんな発言ができるとの解釈は、流石に馬鹿げたものだろうが、潔ささえ捨てた人物に、機会を与える編集姿勢には、それを通り越す程の気分にしかならない。あの時の政治の中心にあった人々には、こんな無責任が持病の人が多く、長の側近だった人物も、自らの無能を無視した上で、辞めさせる責任を口に出すなど、身勝手発言が目立つ。このような体質が組織全体に広がった結果、野に下ることになったなどと言われても、おそらくその意味さえ理解できないのだろう。狂気の沙汰に及びかねない行動が、どんな心理から産み出されるのか、解明されることは無いだろうが、そんな人を重用する姿勢には、正気を失う雰囲気が漂うように思えてくる。

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