パンチの独り言

(2011年10月10日〜10月16日)
(一緒、威光、空っぽ、驚愕、喪失、議論、遺物)



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10月16日(日)−遺物

 人々は様々な形で、自分の力を示そうとする。仕事をこなしたり、相談に乗ったり、そんな形で他人との関わりを深め、互いの信頼を得るのも、方法の一つかもしれない。個人の範囲では、人と人との間の関係が最も重要となるが、それがある程度以上に集まった集団での話となると、力の示し方は大きく変わるのだろう。
 自治体の庁舎の移転に際して、新しいものをどう作るのかは、時の首長の判断となる。自治体全体を見渡せるようにと、一番の高さを求める者もあれば、見た目の奇抜さをも取り入れて、その存在感を主張する場合もある。それにしても、大きさは重要な要素となり、それにより、圧迫感を与えることが目標となることもある。これは国の単位においても当然のことで、周囲の国に対する思いや世界への訴えといった目的で、異様な雰囲気を漂わせる建築物が世の中に登場することとなる。当人以外には理解し難いものでも、単純な考えに基づくものは、それを見た人々に特別な思いを抱かせる。それを目的とすれば、十分に達成できたものと言えるだろうが、本来のものは微妙に違い、後世の人々は、全く違った感想を持ち、受け取る言葉も違ってくる。とくに、長い時間が経過したものでは、当時の想いを伝えるものは他に無く、ただ異様に大きな遺物がそこにそそり立つこととなる。となれば、その困難さから偉業を讃えるか、異常さに目を向け、様々な無駄に批判の矢を放つか、色々な反応があるに違いない。いずれにしても、時の征服者が思い描いたことの、ただ一つの事は後の世にも残ったこととなる。その権力の大きさだけは、誰の目にも明らかなこととなるだろう。ただ、人それぞれに思い描くことは違っていて、そこから力を手に入れる夢を見る者も居れば、その結果として、大いなる無駄を残すことの愚かさに目を向ける者も居る。そんな見方をすると、世界には何と多くの無駄が遺っていることか。

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10月15日(土)−議論

 反対の続きである。対立軸を明確化させ、自らの方針を魅力的なものとして、賛同者を募る、という形が当時から一種の流行となった。一見当然とも思える流れだが、それが実施された時、予想以上の効果を産んだことから、流行することとなった。その代わり、そろそろ欠陥が目立ち始め、限界が見えた気がする。
 賛成、反対という、元々対立するものだから、それぞれの立場を際立たせるのは、物事を判り易くしているだけ、との解釈もあるけれど、現実には、議論を交わすことで、両極とは違う、中間的な答えに至る過程が、最も重要なものではないか。反対されたことで、頭に血が上り、自分の考えの極端な部分にばかり目がいくようになる。自らの理解という意味では、この過程も悪くはないのだろうが、そこから戻ることなく、極端を全体に受け入れさせるとなると、弊害は極大化する。改革を進める為に、反対は悪でしかないとの思い込みは、彼らが全く気づかぬうちに起きる、自分中心の行動だが、気づかぬだけに心変わりなどある筈もない。ずんずん両極化が極まり、戻る機会を失った議論では、二者択一の話しか出ず、建設的な話し合いは影も形も無くなる。本来の手法に、そろそろ戻る気を起こさないと、社会の矛盾や疲弊が取り除かれる機会が失われるばかりで、異常な事態はその病いを重くするだけとなる。実際に、改革を目指し、それに関わる人々は、他人の意見に耳を傾け、修正を心掛けるべきであり、一方で、改革を嫌う人々は、反対を叫ぶのではなく、建設的な意見を出す努力をすべきだろう。こんな遣り取りは、ちょっと前なら当たり前だったのに、それが影を潜めた原因は何処にあるか。そんなことを考えるより、さっさと役に立つことを始めるべきだと思うが、どうだろう。

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10月14日(金)−喪失

 反対勢力などと書くと、あのことを思い出させるだけとなる。下らない遣り取りに国民を巻き込み、騒ぐだけ騒いだ挙げ句、将来への負債を積み上げた。大義を持って臨んだ筈が、その目標が達せられなかったばかりか、多くの矛盾を生じ、大きな混乱を招いた。未だに、解せない話があるが、解決の糸口さえ見つからない。
 競争原理を導入する為に、国の関与を排除する必要があるという話は、何もこの例が初めてではなく、行革の目玉とされた鉄道、専売などといった事業で、実施されたことである。同じことの繰り返しとか、改革の為に必要なこととか、そんな話が引き合いに出されるが、以前の改革において、その範囲から外された経緯が語られることは無かった。民営化は錦の御旗のように掲げられ、その一言で不可能が可能となるばかりに、連日連夜繰り返して訴えられた。その必要性は、様々な形で伝えられたが、当時と異なり、今となっては、一方的な分析や偏った思い込みによる、間違った解説と見るべきと思う。何事につけ、分析と展望は、将来を決める為に必要不可欠であり、その手順を経た上で、改革に挑む姿勢は、何処にも誤った所は無い。ところが、勢いに任せて断行されたことには、現実には様々な矛盾が含まれ、十分な議論に基づくものであったとは、とても言い難いものとなった。組織や仕組みが変更されようが、関係者が十分な思慮に基づき、事業を実施すれば問題無し、という説明は、その通りだと思うが、これまでに問題を噴出させてきたものの多くは、関係者が確かな方針を失い、迷走した結果のものであったことを考えると、今後の展開には大きな不安が膨らむ。利潤追求が何よりも優先された結果、切り捨てられるものを考えた時、公的な組織の存在は軽視すべきでないと思う。

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10月13日(木)−驚愕

 驚いたとの顔が画面に現れる。意外な結果が報道され、それを基に意見を集めたことで、始めの表情が出てきた訳だ。だが、この報道が流される度に、不思議な感覚も芽生える。何度も現場の状況を伝える場合、危険であるとの判断であれば、同じ記録を繰り返す流す筈が、報道陣はそこに居続けるような具合なのだ。
 不思議との思いは、彼らの危険を顧みない報道姿勢についてではなく、危険性を訴えながら、その一方で、そこに近づく姿をさらす態度についてである。日常的な画面の中に、危険を訴える言葉が被さるが、そこには人がいるという不可思議、事故以来、何度も出会したものなのだが、どんなに考えても矛盾は解消しない。放射線量の高い地域について、問題解決の手段を見出すことは、そこでの生活を保障する為に不可欠となる。地域全体に問題がある場合、当然のこととして理解できるが、今報道される例については、局地的であり、そこを散歩で通り過ぎることによる被害は、比較にならぬ程小さいと推測される。このような局地が多数あることとの推測も成り立つが、さてどんな展開があるものか、続報を待つしか無いだろう。それ以外にも、不可解な情報が流され、一種の混乱があるものと想像できるが、それについても待つしか無い。地面の汚染が通常考えられる所へ、空間の線量の方が高いとの話は、何処かに何かが塗り付けられたとの推測にも繋がる。怖がるだけでは、結論を導くことも望めないが、担当する人々は必要と思えば、万全の準備をした上で、早急に分析を進めるべきだろう。中途半端な情報を流し、それを放置するという、今までに何度も見られた姿勢では、また恐怖を煽るだけのことになりかねないのだから。

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10月12日(水)−空っぽ

 360だったのは、円がcircleだからと、まるで冗談としか思えない交換比率が作られ、経済力の増強に伴い、不都合が指摘されるまで続いた。今は昔、とでも言いたくなる程、その後の展開は劇的なもので、一気に三分の一程まで駆け下り、一時の安定はあったものの、現在は五分の一近くになってしまった。
 国を跨いだ商品流通において、貨幣価値の比率は大きな問題となる。そんな中で、外へ物品を売ることを生業とする企業は、自国貨幣の価値の上昇を、恨めしい目で見つめるしか無かった。その環境下では、内から外への流れは不利に働くばかりと、生産拠点を移す提案が続出し、長年に渡り、その傾向が続いてきた。同じ質の製品を作るのであれば、人件費の削減が重要という考えとも相俟って、一気に海外進出が加速された時期もある。その一方で、最近では空洞化なる言葉が多用され、一方向への流れが必ずしも好ましくない点が指摘される。それにしても、こんな下らない遣り取りが実しやかに取り上げられるのは、経済活動の危うさの現れだろうか。絶対的な手法の不在が、続出する玉石混淆の新提案に対し、走り回らざるを得ない環境を作る。人件費の問題から、海外移転が続き、まさに空洞化の典型となった海の向こうの先進国は、今や、全く別の方に向かおうとしている。他の国に売るのではなく、自国で売るものを外で製造する手法は、経費が膨らむことで無駄が膨れ上がる。人件費の高騰だけでなく、輸送費などの他の経費の高騰が、価格上昇に結びつき、結果的に移転の価値は暴落する。となれば、自国に戻る必要が出るが、果たしてそれだけの力が洞と化した国にあるのか。そんな例を横目で見ながら、同じ提案を続ける人々は、一体何を目指しているのだろう。

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10月11日(火)−威光

 暫く昔に活躍した人々の語録が、時々出版される。その多くは、公式の場での発言や著書の中での記述を中心とし、その時代の背景などを解説しつつ、真意を解説するものとなっている。特に、企業で活躍した人たちが課題としたものは、今の時代の多くの人々にとっても、共通の部分があり、参考になるとして評判になりやすい。
 そんな中で、当時、目刺しの朝食として話題となった人物のものが、ごく最近出版され、気になったので読んでいる。厳しい言葉や態度で有名だった人物だけに、その発言の重みは、今でも強く感じられるが、この時期に出版されたことが、折角の重さを、軽くする方に向かわせたような気がする。大震災から重大な事故が引き起こされ、その復興途上にある人々は、先人の言葉の中にも、何か意味のあるものを見出そうと、こんな本を手に取るのではないだろうか。特に、その製造に当たっていた企業の長として、様々な形で関与してきた人物だけに、興味を惹かれるだろう。だが、語録を纏めた著者の意図は、発言者本人のものと外れているように思われる。一部、背景説明に割いている所がある一方、件の事故に関わる部分に関しては、著者の意図が露呈する。例えば、「失敗を恐れず権限を行使せよ」と語る部分で、語録の主は部下への権限委譲について説明し、部下をより小さな組織の長と見なし、そことの取引を慎重に進め、それが成立したら権限を委譲すると語るのに対し、その説明で著者は、事故解決の過程で、政府の長たる人物が仕事を抱え込んだ姿勢を批判する。現場に任せぬ姿勢が悪いと糾弾するが、委譲の条件とされた十分な情報交換は、彼の頭から消し飛んでいるのだ。責任を負うべき時に、不十分な情報収集で満足し、現場に任せたふりをした人間は、これまでに何度も登場した。語録から窺えるのは、著者の批判は的外れで、委譲と共に責任を放棄した人間にこそ、厳しい言葉が浴びせられたに違いないということなのではないだろうか。

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10月10日(月)−一緒

 数字に弱い人の話は何度も書いた。大きな数字と小さな数字を同等に扱い、増えるか減るかの話を持ち出す。数字を比較すると思い込み、比べられない数字を並べたり、逆に、並べるべき数字を見落とす。出鱈目としか思えない行為も、結論が確かであれば正しいと信じ込む。拠り所がないものに、どんな信用があると言うのか。
 こんなことばかり書いていると、何でも数字で考える、冷たい心の持ち主のように見えるかも知れないが、とんでもないことと思う。数字を持ち出すのは、殆どの場合相手側であり、結論ありきの議論に、数字が不当な扱いを受けていたり、不正な処理がなされているのを見て、設定された結論が、如何に馬鹿げたものであり、論理性が微塵も無いことを、伝える必要を感じるだけのことだ。同じように結論ありきにしても、その妥当性を数値で検証し、まともなものから馬鹿げたものまで、多数見つけられる結論の中から、正当なものを見つけることこそが、真の姿と言えるのではないか。下手な芝居の台本を読むような、違和感満載の中で、本来ならば、もっと大きな声を上げる必要があると思う。だが、腐敗しきった社会では、冷静な判断は歓迎されず、狂気の沙汰が普通に映る。人々の知性はどん底まで落ち、それを恥とも感じぬ行状が満ち溢れる。無知が巷に溢れる中で、感情を揺さぶる言葉が踊る。人の心を上げ下げする、賎しい言葉の連続に、振り回される人々にとって、こんな時代はある意味気楽なものかも知れない。皆と一緒に愚行を繰り返す。一緒だもの。

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