パンチの独り言

(2011年10月17日〜10月23日)
(協力、傍目、全損、飛語、呪縛、国民性、待機)



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10月23日(日)−待機

 あれもして欲しい、これもして欲しい、と次々に舞い込む要望に、対応に窮している姿が映し出される。こちら側では、後手に陥る体制に批判の嵐が巻き起こるが、その主とて、単なる思いつきに過ぎないものを先回りのように扱い、数打ちゃ当たるとばかり、的を外すことなど気にかけない。どっちもどっちか。
 問題を整理し、解決策を模索する。その姿勢には、後手の構えしかあり得ない。にも拘らず、これ程後手が批判されるのは、何故なのか。解決策の多くが要望の全てを満たすものではなく、一部に着目した形でしかあり得ないからだろう。だが、それ以外の方法があるかと言われれば、答えに窮してしまうのではないか。成る可く多くの望みを叶えるように、様々な方策を講じ、満足の声を待つ。そんな形で、それぞれに努力したとしても、当然、網の目を潜り抜ける形で、一部の不満が噴出する。困っている人々を天秤にかけるのは、愚弄する態度の現れと見る向きもあるが、全体を考える手法では、それ以上の妙案は見出せそうにも無い。時間的なずれを使い、徐々に整理していくにしても、我先に訴える人々には、その順位自体から不平が引き出される。待つことの難しさは、当事者にしか判らないものだろうが、それを促す手助けは、外からできることではないか。欠陥や落ち度を指摘し、悪意に満ちた言葉を浴びせるのでは、何の解決も得られない。だが、批判を続ける人々の中には、解決を目指していないのではないか、という疑いを挟みたくなる人も居そうだ。先手を打ち、迅速な解決を導くことは、確かに、何にも増して重要に思えるが、後手に回ったとしても、そこから解決への道が閉ざされた訳でもあるまい。じっくり時間をかけつつ、最良の策を模索する過程では、時間がかかるのはやむを得ないと思える。小出しの改善策とともに、解決への道を探る動きに、要望を重ねつつも待つ姿勢を見せることが、こんな時期に必要なことに思える。

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10月22日(土)−国民性

 自分たちの特質は何か。答えを携えている人が、どれ位居るものなのだろうか。明らかなものを持たずとも、ぼんやりした形でも持てば、何らかの答えを返すことができる。だが、多くの人々は、首を傾げ、曖昧な表情を浮かべる。困惑とも思える状況は、何時頃まで続くものなのだろう。また、何が足らないのだろうか。
 大きな戦いに負けた後、占領という屈辱の時代を経て、その後の発展に結びついた。徹底的な破壊の跡、そこに立った人々は目標を失い、失意のどん底にあったと聞く。そんな状況から、大きな手助けがあったとは言え、急速な復興が進み、行く先を示されたかのように、人々はある方に向かって、日々の努力を積み重ね、世界における地位の向上を勝ち得てきた。成長期には、様々なことが実現され、不可能なことが無いかの如く、思い込む人々も出てきたのだろう。その結果、一時の急速な膨張は限界を迎え、一気に破裂へと繋がることとなる。後から思えば、明らかな間違いによる暴走は、行き先を失った人々を産み出し、自らの特質さえ見えない、自信を失った人が社会に溢れることとなった。一時的な衝撃から回復するのに、これ程長い時間が必要となるとは、誰も予想できなかったのだろう。十年で十分と思われたものが、一向に兆しが見えず、いつまでも悪い状況のみが見えている。そんな中で生まれ育ってきた人々は、多分、何かしらの自信さえ見出せない状態に、押し込まれてきたのではないだろうか。こんな状況では、特質などと話せる筈が無い、といった感覚が当然に思えるが、実際にはそうでもないだろう。自信という感覚に限って言えば、歪曲されたものに過ぎないとは言え、かなりの人が持つようになった。問題は、その歪んだ姿をどう真直ぐな姿に戻すか、ということだろう。

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10月21日(金)−呪縛

 ついこの間までは、殆ど忘れ去られた存在だったと思う。それがあることをきっかけに、状況が一変し、一気に時の人となる。同じことを言い続けてきたのに、と本人は思うかも知れないが、警告を出し続けた流れからすれば、注目を浴びるのは悪い気がしないのではないか。本人とは違う思惑が蠢いていたとしても。
 世間一般の流れに逆らい、自らの思う所を主張する。利潤を追求する組織であれば、即座に追い出される存在だが、それを抱え込んで数十年の単位で耐えられる組織がある。若者に教えるべきものを、彼らが持ち合わせていたかどうかは大いに疑問だが、このような変化を予想した人も居なかっただろう。脚光を浴び、まるで英雄かの如く扱う人々には、全く違った戦略があるだろうが、長年培ってきた考えを認められたように感じることは、その人に特別な感慨を与えたのではないか。更に過激な活動の結果、そんな組織さえ見限った人は、下野した結果、大きな括りでは同じ業界とは言え、ある特定の目的を有する組織に属してきた。名物として、若者たちの注目を浴びてきた人も、本来の興味を失うこと無く、数年前に長年温めてきた考えを纏めた書物を出版していた。一部の業界での評価は高く、才能を開花させたものとの話もある。難度の高い内容に、こちらの興味が引かれることは無いが、この人に関しても、今回の事故は何かを思わせたのだろう。意見を纏めた本が出版され、書評欄を賑わしていたので、眺めてみた。結果は、冷静な学者肌からは程遠い、全くの期待外れであり、活動家の面目躍如といった感さえ出てくる。政治的な背景ばかりが際立ち、専門的な分析より、感覚的なものを優先する態度には、当時の道を誤った判断力の甘さが、如実に現れている雰囲気がある。

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10月20日(木)−飛語

 分析や解説が施され、内容の理解を促す。読者や視聴者にとって、本来は有り難い存在の筈が、現実はかなり違ったものと化す。冷静な分析や丁寧な解説といった姿は見えず、その代わりに、偏った考えに基づく、間違ったものが大手を振って歩き回る。それを鵜呑みにする人々は、どんな理解に至るのだろうか。
 社会の動向は、特に偏りを見せる訳でなく、それぞれの事情により、時間の流れの中で変化する。そこには、社会を構成する人々の考えや周辺との関わりが、複雑に絡み合うことで、一見、本質を見極めることの難しさを際立たせている。難しさは、人々の理解を妨げ、何かしらの指針を示されることは、大きな助けになり得ることに思える。ただ、まともな考えに基づくものならまだしも、最近の傾向は、全く正反対の結果を生じているように思える。分析や解説の基となる考えが、全く間違っているなら、どうにもならないことだが、現実には、正しいものと誤ったものが混じり合い、人々は別の形の混乱に巻き込まれる。そんな状況で、情報の流通は世論を左右するものとして、非常に重要なものになると言われるが、その割に、悪質なものばかりが流され、好転する気配は殆ど見えない。手軽な情報伝達手法は、誰もが参入できるという点ばかりが強調されるが、その実態は、間違いばかりが拡大する方に動かす。様々な出来事が、そんな手段によって引き起こされ、社会の向かう道を決めているかのように伝えられるが、実際には、おかしな方も含めた異常な行動をも、取り入れる形になっている。では、どうすれば良いのか。デマに惑わされる人々は、現実には彼らの心理に潜む極端な考えに、取り憑かれているに過ぎず、それを変化させる為には、自らの心を見直す必要がある。たったこれだけのことが、できないことに、現状の混乱はある。

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10月19日(水)−全損

 分散投資なる手法が好まれ、危機回避の妙法とされる。だが、黒い月曜やショックと称される事が起きると、逃げ道が閉ざされ、折角の分散も功を奏さない。局所的な変動に耐えられても、全体的なものには無力となる。資本主義の危機との指摘は論外としても、拡大のみを目指す思考には自ずと限界があるのだろう。
 管理の観点からすれば、集中が最良の選択となるが、危機回避の立場からは、正反対の分散が好まれる。国の安定が第一となるのは、様々な混乱が起きる度に指摘されることだが、人間の関わりが無くとも、数々の危機が訪れる。天災が起きるごとに、分散の必要性が説かれるが、現実には、管理の難しさとの釣り合いを、どう取るのかが課題となる。それとは別の要因で、現地生産なる戦略がとられ、結果的に分散する場合もある。いずれにしても、散在する拠点に対して、全体的な調整は難度を増すばかりで、経営における重要な戦術の一つに数えられる。調整は難しいものの、人的なものも含め災害に対する耐性は、かなり高まるものと見られてきた。だが、現状はそうとは思えない様相を呈し、次々に危機に巻き込まれる状況が伝えられる。確かに、分散された状態であるにも拘らず、こんな事態に陥る理由は何処にあるか。おそらく、一点集中であれば、全か無かといった両極端の状態しかないのに比べ、分散により、その中間的な状態が生まれるけれど、損失は常に起こることに、目が向いていなかったのではないだろうか。危機回避は、全てを失うことの無いように備える、という目的で設定されるが、欲張りな人間は、少しでも失うことに心が奪われる。この程度で済んだと言えず、損をしたと悔やむばかりでは、分散は無駄な投資になるばかりだろう。

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10月18日(火)−傍目

 岡目八目は、外から見れば冷静な判断ができるという意味だが、この頃、そうとは見えないことが多すぎる。当事者が十分な時間を与えられず、更に外からの雑音が高まる中では、まともな判断を期待するのは酷だろう。逆に見れば、そんな状況下でも冷静さを失わない人が少なくなったとも言えるのだろうが。
 昔と今で何が違うのか。更に外側に引いて、全体を眺めてみると、その様相がはっきりと見えてくる。確かに中心に居る当事者の能力の差はあるが、それより目立つのは周辺を囲む人々の劣化だろう。外に居るから攻撃を受ける筈も無いのに、何故だか、最大の防御を多用する。批判の矢を次々と番え、当事者の考えを冷静に聴く姿勢は見えない。自分の意見は無く、他人の意見を罵倒する姿には、身勝手さが如実に現れ、冷静さとは異なる冷たさばかりが目立つ。責任は常に当事者にあるだけに、こんな野次馬共はいつまでも放し飼いとなる。そんな風潮が目立ち始めた頃には、そんな連中こそ批判の的となっていたが、いつの間にか、楽な方に世論は傾き、社会は二極化の一途を辿っている。全体が厳しい状況にあればある程、楽な方に流れる姿勢は、役に立たないばかりか、上に向かおうとする人の足を引っ張ることとなる。依然として、こんな話ばかりが出てくる様子からは、一つや二つの大きな衝撃では、人の心に巣食ったこんな病は、救いようのないものとしかならない。特効薬が見つからない中で、どんな処置ができるのかと悩む人はまだましで、現実には、外に居る大多数の人々はそんなことさえ思いもつかない。自覚があって悩むのが良いのか、それとも能天気にのさばるのが良いのか、さて。

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10月17日(月)−協力

 皆が協力することで、より良い環境を達成する。様々な場面で取沙汰される話だが、最近の傾向を眺めると、その難しさが表に現れているように見える。協力とは、本来、互いにとって有利になることも不利になることも、全体に混ぜ合わせて、結果的により良くなることが目的となり、それが達成されれば、良しとなる。
 だが、本当の問題は力を合わせることの難しさではなく、互いの不利有利に関係なく、協力の姿勢を貫くことであり、結果を恐れること無く、力を合わせることへの集中が重要となる。これを考えないままに、単に協力をすれば良いという姿勢では、いい結果だけでなく、互いの関係さえ失うことになりかねない。一見、姿勢だけが重要と見えなくもないが、実際には、それが欠けているが為に、結果が生まれないことも多い。仲間となるべき存在にも、力関係から優劣がある場合、この協力はより複雑な様相を呈することとなる。力の優劣から、寄与の大きさにも変化が現れ、それを理解した上で、協力関係を考えなければ、こじれる結果となるからだ。この話、どんな例にも当てはまるだろうし、特に、玉石混交とか、力の違いが大きな集団において、その難しさが強まる。上手い話には落とし穴が、といった感覚で、このところの状況の変化を眺める人々にとって、さて、今更こんなことを言われても、といった受け取り方がある。騙されたと思うのも自由だろうが、そういった場合も含めて、自分達に有利になると考えたからこそ参加したのだとしたら、状況が悪くなったからといって、文句を並べるだけで、何とかなるものだろうか。自分の考えを大切に、と言われれば言われる程、こういった所の考え方は難しくなる。しかし、周囲との釣合いを考えること無く、協力が得られると思うのは、やはり浅い考えとしか言えないだろう。

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