自らの力で治める、という意味の言葉は、ある時代に多用された。外からの力を撥ね除け、自分たちの理想を貫く、といった態度が表に現れ、意気込みが感じられた。そんな時代は遠い昔、今ではその言葉は化石となり、本来の意味は何処へやら、有名無実な状態にある。当然、意気は揚がる筈もない訳だ。
学生運動が盛んなりし頃、この言葉は頻繁に使われていた。実際、外からのあらゆる権力を排除し、あるべき形を模索する姿には、何かを目指す意気が感じられた。だが、その後の展開は、期待されたものとは大きく違う。識者が集まった筈の組織は、現実には、身勝手な考えの温床となり、学問の発展という共通認識も、自分たちの欲望の前に、薄ぼんやりとした影を落とすのみとなった。それでも、教育機関としての価値は高まるばかりで、その証明を手に入れようとする若者たちが殺到していた。現実の姿と外からの見かけの違いは、大きくなるばかりとなり、放し飼いとされた人々は、自治の名の下に、勝手気侭な人生を送り続けた。それから半世紀程経過し、今の姿を見ると、自治は姿を消し、結束力の無い、無駄な組織が見窄らしい姿を曝け出す。今となってから、何故と問う人も現れ、改革の声が少しずつ上がり始めた。しかし、腐敗した組織を元気な姿に戻すことは難しい。世の中はあの頃と比べ、遥かに豊かになったと言われるが、人々の心は、それとは反対にますます貧しくなる。公や周囲の利益より、自らの利益を優先と考える人々に、次の時代を担う人々の育成などという高潔な意識は欠片も無く、生き延びることで精一杯との答えが返る。こんな社会に期待しても無駄であり、こんな時代だからこそ自らの力を信じるしか無いが、あの組織に巣食った病は、そんな力を蘇らせる気力さえ奪ってしまったようだ。今更、外力に頼っても仕方あるまい。自らの力を信じるしか無いのだが。
住民の足が奪われる。そんな話題が出る度に、利用者からは悲鳴に似た声が上がり、大きく取り上げられる。弱者への配慮という立場からすれば、当然の反応なのだが、その中身については、解せない所が山のようにある。確保については賛成するものの、身銭を切らされることは反対の立場を貫く。困ったものなのだ。
自らの努力が足らず、必要性も下がるばかりの中では、存続の声は小さくならざるを得ない。そんな中で、廃止になった足は沢山あり、所謂弱者は切り捨てられてきた。この辺りのせめぎ合いは、何処までも続く答えの見えない問題なのだろう。しかし、現実にその地域に住む人々にとって、存続は大きな問題であり、その為に解決しなければならないことがあれば、協力を惜しまないという姿勢が示されている。だが、この考え方が一枚岩であるかとなると、厳しい状況にあるのでは無いだろうか。震災の被害が大きく、自らの力での復興はほぼ不可能とされたある鉄道の例では、結局国が支援することになるようだ。だが、それで全てが解決するかと問われれば、再開したとしても、それを続ける為の方策は依然として暗闇の中といった感がある。特に、第三セクターとは言え、経営の責任は常に存在する。復興が約束されたとしても、それ以前の状況で赤字が長年続いていた状況は、突然変化する筈も無い。その中で、全面的な支援が得られたからこそ、黒字転換が使命であるとの声が聞こえるが、果たしてそれは正当な意見と言えるのだろうか。甘やかしてはいけない、とする声が大きいのも承知の上で、それが実現可能であり、当然の展開とすべきか、じっくり考えてみてはどうか。徐々に変えていくことは、経営努力として当然だが、急転させることを強いるのは、破綻を来すだけに見える。存続を願った地域は、やはりそれなりの支援を続ける必要があり、その中で新たな展開を模索するしか無いのでは。
危機管理という言葉は、一部でしか使われなかったのに、ある出来事を境に、ごく普通の人々までもが使い始めた。多くの人に危機が迫り、想定外との表現までが出て、回避の方策が様々に提示される。だが後手に回った立場では、それぞれに最善策を講じたように見えても、次に起きた危機では、的外れにしかならない。
皆がそれぞれに状況把握をし、それを基に判断を下していれば、こんな展開はあり得ないとも思えるが、現実には、引き摺られたままに、誤った道に誘い込まれる。他人任せの危機管理では、結局、こんなことの繰り返しが起きるばかりで、どんなに経験を積み、様々な想定をしたとしても、回避に至らない。様々な仕組みに依存し、その有効性に目が行くばかりでは、同じ穴に落ちるのも無理は無い。自らが危機に面した時、どんな手立てがあり得るのか、独自に考える必要があるけれど、その気が無いのだから、まあ、仕方ないと言うしか無いのだ。逆に管理される立場としても、そこでの行動様式には間違いが多くなる。震災の後、各組織で安否確認が行われたが、通信障害などにより、思い通りに事が運ばなかった。ところが、大多数のこのような例に隠されて目立たなかった存在に、自分は大丈夫だったから応答しなかった、というものがあったようだ。管理の観点からすれば、こういった考え方が大きな問題を生じ、無駄な動きを導くこととなる。自分を中心に考える人の多くが、こんな行動を起こすようだが、他人の目を気にする割に、こんな動きをすることは理解に苦しむ。危機に陥った時に、助けて貰える存在が欲しいと思うなら、そうでない時に、余計な手間をかけさせない配慮が当然だろう。こんなことに思いが至らぬ人々には、どんな手立てが有効なのだろう。
情報の重要性が強調されればされる程、その扱いの杜撰さに呆れることが多くなる。何とも矛盾に満ちた状況に見えるが、最近の社会はまさにそんな状況なのではないか。あらゆることに正確な情報が必要と言われる一方で、ガセネタと称される根拠の無い風評が氾濫する。それを実しやかに流す連中が幅を利かせているのだ。
様々なことに問題が山積すると伝える脇で、問題を作り出すような言動を繰り返す。こんな人々が発言権を得られる程、良識が通用しない業界に、何の期待も持てないとの声が上がる。そんな人々は独自の連絡網を作り出し、最新の仕組みを活用しようとするものの、倫理観が薄れてしまった社会の中では、信頼できる情報は続々消し去られる運命にあるようだ。少し考えれば理解できる筈が、全く思いもよらないと思い込む人々が居ること自体、何とも歪んだ社会であると言うしかないが、どういう訳か嘘や悪意に満ちた情報ばかりが流れている。正しい情報がもたらされると信じることが難しくなり、どんな思惑が隠されているのかと疑いの目を向けねばならぬ程、どうにも酷い状況にある業界は、自らの劣化に気付かぬ振りのまま、暴走を続ける覚悟のようだ。報道とは、第三者的な立場を貫き、中立を標榜するものと思われたが、何やら怪しげな気配に満ちた言葉を並べ、不安を煽ることを掲げているかの如く映る姿に、何がどう変化したのか、また、何時誰がそのように舵取りしたのか、そんなことを考えたくなるくらいだ。情報を扱う業界は、様々な形で自らに抑制をかけ、暴走を戒める空気に満ちていたが、いつの間にやら、野放図で、勝手気侭な空気が満ちてきた。自らが社会の舵取りをしていると思い込む連中や、責任を強調するばかりで、実際には何もしない連中に、何を思うべきなのか、さっぱり判らなくなる。
当事者でないから妥当な判断ができる、といった形で、外からの目が重視されてきたが、利害の縛りから逃れられず、偏った見方を露呈するばかりでは、その信頼は地に堕ちたと言うしかない。更に、その傾向を強める動きは、自らが社会全体の舵取りをするという自負、そんな下らないものへの展開を加速させる。
役割の使い分けとも思える行動様式に、身勝手さばかりが目立っているものの、同じような思惑を抱く人々からは、批判の声が聞こえてこない。兎に角、自分たちの都合を最優先し、思い通りに事が運ぶように、様々な仕掛けを施し続ける。そんな形で情報操作が行われていることは、既に明白になっているにも拘らず、この時ばかりと結束を固める業界は、論理の破綻をものともせず、共通理解という切り札を出し続け、その迷走ぶりは目に余る。誤った情報を平気で流し、訂正よりも言い訳を多用し、「民意」という言葉を矢鱈に使うことで、責任逃れをも設定している訳だ。それにしても、何時からこんな体たらくが続いているのだろうか。情報社会の中で、倫理の問題が重視され始めた時、自己抑制の組織を作り、その姿勢を明確にしたと思われた。ところが、その後の展開は、説明とは正反対に向かい、その指針に触れなければ、何をしても構わないといった、自己管理とは程遠い状況が生まれた。如何にも、業界内での管理ができているという筋書きは、既に破綻状態であり、能力のない連中がぬくぬくと暮らす状態となり、社会に対する責任はとても果たせる状態には無い。それでも、その存在を利用する人々からは、高く評価され、それが恰も社会からの評価のように受け取る人々は、既に、社会的責任も人間としての価値も、何も無い状態にあるのだろう。
傍目から見れば、より正確な判断ができるとされるが、最近の傾向は全く違うように感じられる。紛争状態にある当事者間での解決が見込めないとき、第三者と呼ばれる人々が登場する。また、関係者が一方的な立場にあり、偏った観点に基づく判断しか予想できない場面でも、第三者の存在が必要となる。
同じような形での、公的な機関による判断は、例えば裁判などが挙げられるだろうが、これとて、まともじゃないと思えるものが急増し、彼らの資質への疑いが膨らむばかりとなる。分立が基本であるだけに、こんな所で権力の介入があるべきではないが、そんな疑いが出る程、様々な偏見が満ち溢れた状態にあるようだ。この手の例は、始めに書いたもののうちの前者に当たるだろう。では、後者はどんな状態か。当事者は特定少数であるのに対し、その相手となる人々は不特定多数となり、公平な判断を導くことが、これらの中では難しい場合に、どちらからも離れた立場の人が第三者となる。どの立場にも与しないことから、中立と言われることが多いが、この頃話題となるものを見る限り、極端な偏りだけが目立つ。始めに挙げた裁判の例でも、その場に持ち込む為の判断が、ある組織の権限として規定されていたのに対し、中立であるからこそ最終判断も可能との考えから、いつの間にか強力な権限を持つ組織が出てきた。だが、期待とは裏腹に、中立とは名ばかりの状況となり、世の中の流れに乗る形が目立つ。同じ状況は、後者の例でも生まれつつあり、一見まともな判断を下しているようで、中立からは程遠い、極端な判断が、世論に従うという形で、下されているようだ。不特定多数が関係する事例では、世論こそがその立場に沿うものであり、こんなことが罷り通ること自体に、社会の良識は破壊されることになる。言葉に酔っていてはいけない。
国の金は何処から出てくるのか。そんなことを考えたくなる程、この所の乱費計画には山のような課題が積み上がっている。乱費とは、本来無計画で無軌道なものを表し、確固たる目的を持つ計画には当てはまらない。それでも、こんな言葉を使いたくなるのは、出費ではなく懐具合に疑問が残るからなのだ。
復興に必要、という一声で、全ての計画が正当化される。だが、ちょっと眺めただけで、計画の綿密さには大いなる疑問が残る。それでも、被害者が絶対的な存在となる時代には、そんな疑問を挟むことは自殺行為のように見なされる。少しでも反対を唱えようものなら、正義という名の下に、徹底的な糾弾が為されるからだ。何かしらの手立てが必要なことは、誰の目にも明らかなのだが、その実態となると首を傾げざるを得ない。そんなことの繰り返しが、状況を複雑なものとし、十分な点検の無いままに野放図に進められるとなると、流石に声を上げたくなるだろう。また、必要性への理解があっても、無い袖は振れないという姿勢を崩す訳にもいかない。支出ばかりが膨らむ事態に陥り、その一方で、経済の回復が期待できないとなれば、どんな手立てで収入を確保しようとするのか。普通の財布の場合には、簡単には解決を見出せないだろう。ところが、他人の財布を期待する人々には、自らも属する筈の国の財政においても、同じ考え方が適用されるようだ。首を傾げる人々をよそに、要望書類の山が築かれる。限られた予算内での執行を常としてきた体制も、非常時となれば、全く違った様相を呈する。設定される筈の予算は、全く異なる考え方に基づき、全く違った形で準備される。次々に寄せられる要望は、まるで限界がないかのように映り、予算確保の糸口は掴めない。奢りとなるか、集りとなるか、さてどっちなのだろう。