パンチの独り言

(2011年10月31日〜11月6日)
(悲観、投石、裏付け、伝聞、周回、不信、落着)



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11月6日(日)−落着

 先入観が様々な障害を招くことは、これまでにも何度も指摘されてきた。思い込みという怪物に、自ら窮地に陥ることは、外から見れば不可思議な行動に映るものだが、当事者たちは姿の見えない怪物に、抗う手立てが見出せない。一つあるとすれば、冷静さを取り戻し、論理を積み上げることだろうが、そんな余裕は見せられない。
 自らの判断を、思い込みによるものと見なすことは、容易なことではない。冷静さがあれば可能となるかも知れないが、それを失ったからこそ、先入観が頭を占領し、それを打ち消す力が蘇ることも無い。論理の重要性も、平時に強調されていれば、可能性が残るだろうが、何か事が起きた途端に、そんなことを引っ張り出されても、そこに目が向くこともない。内側で巻き込まれているのか、それとも外で眺めているのか、その辺りの判断さえ、人によってはできない状況に陥っているのだろうが、それにしても、冷静さという言葉がこれ程特別扱いにされるのも珍しい。理解できない展開が目前を過ぎていき、不安という怪物に押し潰されそうになる。この気持ちは理解できるとばかり、同調の声が集まるが、そこに解決の端緒は見出せない。外か内か、立場によって大きく変わる心情に、諦めの声を漏らすしか無い。どちらの立場にしても、冷静さや論理性がありさえすれば、ずっとましな判断ができ、心が乱されることも少ないだろう。だが、当事者にとって、そんな言葉が聞こえることは無い。冷静な指摘には反発をし、同調の声には心を許す。そんなことの繰り返しで、どんな展開が期待できるのか。もう、いい加減にしたらどうか。

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11月5日(土)−不信

 我が意を得たり、といった態度に溢れる。そんな雰囲気がするのは、これまで続けてきたように、あの業界に対する不信があるからだろうか。科学不信なる言葉を表に出し、市民の反発を前面に押し出すことで、自分たちの主張を代弁させる。いつもながら、その三文芝居ぶりに呆れ、底の浅さに信頼との文字は似合わない。
 安全と説明する人は信用できない、と話す人に、かける言葉は見つからない。不安に苛まれることから、如何にして逃れようかと訴える人が居る一方で、不安を買い込むという姿勢に、勝手にしたらと思うからだ。ただ、以前のように、こういった常識の無い人々は放置しておけば、といった考えを維持することは難しい。一つには、始めの話のように、自分の立場を守る為に、こういう人を取り上げ、恰も正しい判断かのように扱う輩が現れ、社会的な無視が続かぬようになったことがあり、もう一つには、彼らの極端と思える発言に、判断力を失った人々が、不安に襲われるからだ。科学に対する恨みつらみは、それを理解できない人々に、様々な形での反発を招く。必要不可欠と言われれば言われる程、それを理解できなければ、無能な人間のような感覚を抱き、不当な扱いを受けていると、思い込む人々が居る訳だ。彼らにとって、それまでの絶対的な存在ではなく、説明の過程で迷走が続き、人々の不安を払拭できない存在は、格好の攻撃目標となる。ただ、自分たちが先頭に立って、その姿をさらすことは、後に馬脚を現すことに繋がりかねないから、代弁者を立てることが第一となるのだろう。それにしても、言葉の使い方といい、そういった愚かな考えといい、腐りきった人々には、唾棄すべきという言葉しか浮かばない。常識的な傍観者という立場を貫けず、世論を操作する歓びを味わい、身勝手な言動を繰り返す。不信とは、こんな人々に向けられるべきものではないだろうか。

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11月4日(金)−周回

 気がついた人も居るだろうが、独り言もある節目を迎えた。週ごとに纏めたファイルの数が、丁度五百となったのだ。まだ一昔には至らないものの、それに近づく一つの節目と言えるのかも知れない。人間は数字を追うことが好きなようで、節目やきりの良い数字に心を動かされる。たまのことだから、ということかも。
 そんな事情からか、様々なことに数字が絡んでくる。覚え易い形を採り入れたり、語呂の良いものに目が向くのは、数字に因む話が種々あるからかも知れない。車のナンバーについても、今世紀に入る前に希望制度が導入され、所有者の好きな数字の並びが選べるようになった。呼び出されても気付かない人が多かったのが、好きなものとなれば気付くようになるからと、歓迎する向きもあったようだ。しかし、同じ考えの人が多く、独自の好みを持てない人々には、同じ番号に悩まされることが増えたのではないか。意味があるかどうかは別にして、続いているということは、悪い影響ばかりでなく、良いことが多いからということだろうか。数字に関する話は、少し探せば幾らでも見つかるだろうが、数字そのものより、そこにくっつくものによって、間違いが起こることがある。ある女性歌手が不治の病で若くして亡くなった時、様々な形で伝えられ、死を悼む人々が紹介された。その祥月命日に、故人を偲ぶ形で、演奏会が開かれたことが伝えられた。仏教では、命日を迎える時に、意味のある数字が登場し、その年には他の年とは違う形で迎えることとなる。三、七、十三など、そんな意味を持つ数字があるが、今回はそのうちの七が当てはまったとのことだ。ところが、そこには二つの表現が登場し、また混乱を招いたような気がしてくる。亡くなってから丸六年が経つということで、七回忌という表現が正しいとされるが、一部の報道は七周忌と表現していた。ちょっと調べると、丸一年では一周忌、次の年には三回忌、と使うそうで、周忌は一の時だけ、他の時は回忌を使うとのこと。常識と見るべきかどうかは別にして、文字を扱う人々に軽卒が目立つようになったのは、何時頃からか。

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11月3日(木)−伝聞

 他人の話を伝え聞く時、誰の口を介してかで、内容が変わってしまうことがある。それぞれの人々の思惑が入り込むこともあるし、殆どそのままに伝わることもある。いずれにしても、伝え聞く側の判断は難しいものとなる。だが、全ての人の話を直接聞くことができない以上、仲介者の吟味を含め、決断を下すしか無い。
 身の回りの出来事であれば、仲介者についてもそれなりの知識を持つことができる。相手に対して失礼になるにしても、場合によっては無視したり、他の話との比較で判断することがある。人を見る目が大切と言われる所以は、こんな所にあるのかも知れない。人の価値に差をつける訳ではなく、色々な人の話を聞き、その中から正しい情報を引き出す。ごく当たり前に思える行為だが、実行することは難しいとされる。気持ちのいい話は聞き易いが、気味の悪い話や都合の悪いものは聞き難くなるのが常で、先入観無く話の内容を判断するのは、困難を伴うと言われる。それでも、直接顔を突き合わせる人々の間では、まだ何とか解決の糸口が見出せるかも知れない。もっと難しい問題は、報道という形で伝えられる話の吟味にある。不特定多数を対象として、情報を提供する役目を、報道は負っており、ある時には代弁者となり、別の時には批判者となる。立場を変えたとしても、一貫とすべきは、その姿勢であり、真実を伝えるという使命を忘れないことだろう。こんな大袈裟なことを書いたのも、最近の凋落ぶりが目に余るからであり、人々の心が離れていることに気付かず、依然として唯我独尊かの如くの振る舞いを続ける姿勢に、呆れるばかりだからだ。ほんの小さなことについても、こんなことはついて回り、例えば、放射線測定の結果から見つかった不法投棄と思われる事例の報道で、事故との関連が無いから気にならないと、市民の実名入りで報道するのも、本人の発言との乖離を危ぶみたくなる。事実は不特定多数には判らない。だからこそ、責任が重大なのだ。

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11月2日(水)−裏付け

 裏を取れ!ドラマの中では毅然とした態度で、報道の質を保とうとする姿勢を示す。全てにおいて、こうあるべきとは言わないものの、近年の姿勢は小説より奇なりと思える程、劣悪な水準に落ち込んでいる。発表された数値や話を鵜呑みにし、それを垂れ流す。何の役割も負わない仲介者に、存在意義は皆無となる。
 誤認逮捕を指摘する声は、それが明白になった後に突然高まり、それまでの犯人扱いに、何の反省も示されない。間違ったことを行った人々への批判に終始し、自分たちの間違いには話が及ぶことは無い。おそらく、発表された事実をそのままに伝えることに、何の間違いも無いと思い込んでいるのだろうが、始めの話の「裏」について、誰も気付かぬことに大きな間違いがあるのではないか。こんな姿勢を続ける限り、信用は失われるばかりで、名誉を回復する糸口は見つからない。基本に立ち返ることこそ、困った時の打開策となる筈だが、基本を知らない人々には、戻る場所さえ見つからないのだ。優良企業の不可解な行動に関して、解雇された人物からの訴えが取り上げられ、急に話題になり始めたようだが、ここでの姿勢も、件の企業を上回る程に不可解ではないか。様々な不正が行われたと、徐々に明らかにされつつあるが、その中には、買収企業に関する情報を、その場で集めていさえすれば、簡単に指摘することができたものがある。企業の勢いを示す事実として、買収行為を好感する姿勢が取り上げられたが、その中身への言及は発表された数値に限られ、「裏を取る」行為は殆ど行われなかったようだ。そのことを悔やむ代わりに、不可解さのみを取り上げるのは、再び、「裏」に触れることも無く、単純に右から左に情報を流す姿勢の現れと言える。情報操作という更に悪質な行為よりは、との声が聞こえたら、最悪の話になりそうだ。

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11月1日(火)−投石

 倫理観の低下が伝えられる中、矜持がどうこうと言うこと自体が馬鹿げていると思える話が頻出する。自分の父親と比べて何がしたいのか、さっぱり判らない人が居たり、売り言葉に買い言葉などと揶揄される人々が取り上げられたり、この手の話題に材料はふんだんにある。だが、本当の問題はそこには無い、と思う、
 自分より劣る人間を取り上げることで、自らの立場を確保する。そんな行動が、能力の劣化の現れと見るのは、無理だろうか。この所の取り上げ方や遣り取りには、報道に関わる人間の倫理観や常識が、激しく低落していることが反映されている。遠慮などしたことの無い、育ちのいい人間が、公然と自慢を繰り返すのを、無視することこそが当然なのではないか。恥さらしと、後日言われたとしても、本人の責任からすれば、当たり前のことだろうが、それを取り上げた人間の非常識には、どんな言葉が浴びせられるのか。そんな立場を利用して、下らないことを繰り返す人々に、退場を願いたい。一方、分析結果を根拠に、安全性を説明する人間に、安全なら飲める筈と、非科学的な持論を展開した記者に、同業者たちは批判もせず、放置する。その後の展開に対し、別の形で批判する愚者に、誰が同調するというのか。こんな連中が高い給料を得ていることに、何処からも批判の声は聞こえない。これもある意味当然のことだろうか。情報操作を自らの権利とする人々にとって、自分たちの恥部を取り上げる必要は微塵も無い。下らない考えに基づく、下らない意見が、社会に満ち溢れ、倫理観を論じる状況には全く無い。にも拘らず、外の世界の非常識に目を光らせる。他山の石も、彼らには投げるしか能が無い。

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10月31日(月)−悲観

 悲観論が優先される国の特徴だろうか、同じことでも悪い話ばかりに注目が集まる。だが、悪い話ばかり聞いていて、本当に平気で居られるのだろうか。この所の社会風潮を眺めていると、そういった傾向の人々にも、二つの種類の人間が居るようだ。不安に押し潰される人と言うだけの人、どちらも悪い影響を及ぼす。
 世の中のどんなことにも、良い面と悪い面が常にあるものと思う。にも拘らず、悪い方にばかり目が向くのは、何とも釣り合いの取れない状態ではないか。次々に更新される最高値に、為替に注目が集まるが、その影響について、どういう訳か、悪くなる方に話が及ぶだけで、良い話は聞こえてこない。以前から、両方向への影響は様々な場面で説明されていたが、いざその時を迎えると、悪い話に占領されてしまう。話題としての占領だけでなく、頭の中も占領されるのだろうか。考えにおける均衡の良さは、簡単に失われてしまうものだが、そこにはこんな理由がありそうに思える。確かに、収益を気にしなければならない経営者は、悪い方にも目を向ける必要があるが、そんなこととは全く無関係な立場にある人間にまで、こんな傾向が浸透するとはどういうことだろう。そういう下地がある中に、そちらに偏った情報が提供されれば、自ずとそんな結果を招くということか。確かに、外からの影響を論じるのも一つだが、内にある自分たちの力をどちらに向かわせるか、その決定権は各人にある。多様な見方の必要性は、昔から言われ続けてきたものだが、その中でこんな極端な状況が生まれると、更に強く言う必要があるということなのかも知れない。

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