パンチの独り言

(2011年11月14日〜11月20日)
(掏り替え、推し量る、小利口、意思疎通、援用、悪用、的中て)



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11月20日(日)−的中て

 客観が重視された時代、それを手に入れる方法の伝授が、重要な課題の一つと言われた。どんなものだったのか、今になっては全く知る術もないが、何かしら特殊な能力と扱われたのは事実だろう。一時の流行の割に、こんな簡単に忘れられるのかと、不思議に思う。何が肝心か、なんて、実はどうでも良いことでは。
 こんな意見を書くと、依然として客観は重要であり、その見方を無くしては社会が成立しなくなる、という反論が返ってきそうだ。だが、現実をじっくりと見て欲しい。弱者保護とは言い過ぎとしても、これ程個人の意見が取り上げられるのは何故か。全員の意見が揃えば、そこから客観が導き出せる可能性もあるが、取り上げられるのは、興味を惹いたものだけで、全てではなく、ほんの一握りに過ぎない。更に言えば、その個人を取り立てて紹介するのは、一部の人の思惑に基づくものに違いないのだ。本来、こういった思惑にこそ客観が必要と言われて来たが、視聴率などの数字に心を奪われる人々にとって、万人からの賛同より、多数を掴む動きの方が、優先課題とされるのではないか。この数字も、平均的な意見や一般的な考えより、ある偏りを含んだものの方が、興味を持たれるのは何故か、その理由は見出せないものの、現実の成功の秘訣は、そこにあるとすれば、それを取り上げない訳が無い。さっさと客観を捨て、一部の主観にすり寄ることが、成功へと繋がる術となる。それにしても、これ程個人が顔を出す時代も珍しい。取り上げ側に選択権がある訳だから、そこが変貌したということだが、出たがりはどんな性格か、考慮に入れる必要は無いのだろうか。極端ばかりを取り上げ、それが全てかのように扱うのでは、的外れは当然に思える。

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11月19日(土)−悪用

 連日となるが、ネット上の書き込みに対する私見を述べてみる。平和な時代が続いていた頃、書き込みの殆どは日常的な出来事の披露となっていたが、一つでも異常なことが起き始めると、それに関わる書き込みが急増する。まるで、俄評論家たちが町中を闊歩するような、そんな具合になる訳なのだ。
 先日取り上げたブログの人は、そんな連中の一人であり、他人の知識を請け売りして、自分の考えに有利になるように、適当に改竄した上で貼付ける。情報源とされた人々は、それぞれの考えとは明らかに異なる場所に、勝手に利用されたことに腹を立てるが、公開した時点でその権利さえ失ったと言われる程、情報の独り歩きが当たり前と思える時代となっている。更に、悪用された情報源にも責任があるかのように扱われると、流石に常識的な考え方が当てはまらない社会が、いつの間にやら形成されつつあるように思えてくる。数日前に話題にした、安心と言う人間を信用しない、と言う人々にとって、正当な論理で問題の解決を図ろうとする文書も、悪意に満ちた思い込みにより、真意を捩じ曲げられてしまうことがある。論理の破綻が無いだけに、文書そのものを攻撃することは難しく、誹謗中傷の的は、その文書を掲げた意図へと向けられる。意図とは人の心の動きから来るものだけに、論理的には説明できない部分があるのだろう。となれば、攻撃は容易となる。こんな意図がとか、こんな思惑からとか、当人の考えとは異なることを、恰もそれが事実かの如く、断定的に批判されることになる訳だ。安心より不安を優先する人々にとって、元の話の信憑性など、全く気にならず、改竄された別の話に、引き寄せられることになる。こんな社会において、井戸端会議にせよ、話を吟味する力は、本当に必要となるのではないか。まあ、安心だの不安だのと騒ぐだけなら、大したことは無いのかも知れないが。

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11月18日(金)−援用

 こういう所に書いていても、ほんの一握りの人が読みに来てくれるだけで、大した影響力はないと思う。内容については、責任を持って書いているつもりだが、そんな気持ちが爆発的に広がる程、世の中は甘くはない。都合の悪いものには目を向けず、使い勝手のいいものは機会ある毎に取り上げる。
 参加者の増大を仕組みの功績と捉えられるネット社会も、結局は利害関係に基づくものとなり、都合の良し悪しで扱われ方が異なってくる。流石に、検索ソフトにはそれほどの圧力はかからないものの、最大手では何かしらの操作がなされていることが、何度も取沙汰されているだけに、何も無いとは言い切れない気がする。社会全体の動きも気になる所だが、それが個人の範囲となると更に偏りが極まる感じがする。別に、ここに書いた意見の著作権を主張したいとは思わないが、こちらの意図とは違う形で利用されるとなると、どうしたものかと言いたくもなる。あらゆる人々が、独自の意見を披露し、少しでも社会に反映させたいという思いを持つ。こんな人たちが、ネット社会に参加すれば、何らかの恩恵に浴することもできるのだろう。兎に角、自分自身の思いを書き続ければ、何かが起きると思っているに違いない。だが、肝心の思いが甚だしい偏りに満ちたものとなると、見向きもされないばかりか、時には、批判の嵐に巻き込まれる。そんな注意を払った形が、社会全体に広がれば、これ程劣悪なものが増えることも無かっただろうが、現実はそうならなかった。文書を勝手に引用した人の意見も、呆れる程の水準に留まり、そこから更に飛び火する現実には、教養の水準を疑いたくなる。彼らなりの理解は、そんなものと放置するのも一つだろうが、こんな輩が好き勝手に振る舞える場所をどう扱うべきかは、同じ所に意見を書く人間として、気になるものだ。

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11月17日(木)−意思疎通

 「力」という言葉に力が入る。何故これ程までに頻用されるのか、理由は定かではない。だが、使う人々の動機の中には、肝心なものの欠如に対する危機感があるように見える。常識という言葉が何時頃からか使われ難くなったが、それとは別の反応として、欠如を嘆く声の現れが、こんな形になっているのだろうか。
 当たり前と思えたものが、目の前にない時の反応は、難しい。想像や推測などといった形に現れないものから、要約とか総括といった形に結びつくものまで、様々な場面で未完成な姿が右往左往する。力不足が問題となるにつれ、その解決に向けての方策が次々と繰り出される。だが、従順さを優先とする心情が、心の奥底に居座る人間は、指示に従う力は見えても、自分の力での解決法を身につけることは少ない。この所問題とされている「力」の多くは、自立してこそのものとされるが、依存体質が改善されぬままに、押し付けられたり、受け入れたものでは、想定外への適用は期待できない。足らないものを補わせる為に、また別のものを押し付けるという、これまでに何度も繰り返されてきた教育手法は、こんなことの連続となるばかりで、根本解決は見えてこない。何処に問題の本質があるのか、すぐに理解できるようなら、こんな事態には陥っていないだろう。見えないのか、見ようとしないのか、それとも別の理由があるのか、定かではないものの、そろそろ万策尽きたという様相となり、諦めの様子が伝えられる。個々の問題と帰す為か、子育てなどの家庭の問題と見なす向きもあるが、見出せぬ解決法への苛立ちの裏返しかと思える。それにしても、巷に溢れる若者たちに、話が通じないのは何故か、そんな所に根っこがありそうな気がする。

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11月16日(水)−小利口

 評価という言葉は、立場によって響き方が違うようだ。する側は正当な手段と見なし、必要不可欠なものと受け取るが、される側は不当な要素が含まれるとし、結果によって態度を変える。特に、結果による姿勢の違いは、評価の評価という堂々巡りとも思える事態を産み、不安定な状況にどちらの側も悩まされることとなる。
 実際に行われたことで、様々な問題が起きることが理解されたものの、それ以前の、好き嫌いといった感情や主観的な判断によるものと比べれば、遥かに明確な手続きがなされ、客観的と思える判断が下されたものと見える。本来の目的がそこにあったことを思い出せば、評価の仕組みの導入はある程度の成功を収めたと言えるだろう。だが、導入による弊害は全く無かったかと問われれば、否と答えるしかない。その中で最も大きな要素は、評価基準に合わせた行動ということだろうか。それまでなら、全般に渡って成果を上げることが、第一の目標となっていたのだが、基準が設けられることで、その外にある対象に関しては、何の評価も受けられないこととなった。となれば、賢い人々は力を注ぐ場所を、それに合わせて変えるという行動を示す。これを効率化と見る向きもあるが、評価と業績のそれぞれの項目が完全に合致するものであれば、何の問題も生じないものの、多くの実態はそうなっていないことから、そこに乖離が生まれることとなる。全体への視点が常に求められた時代と異なり、ある一部への注目こそが優先されるとなれば、それ以外への配慮は無用となる訳だ。基準の設け方の重要性は当然のことでも、こんな事情を鑑みるに、不一致による問題は大きくなるに違いない。こんな具合に賢く生きる人々が、本当に賢いのかと言われれば、違うと思えるがどうだろう。

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11月15日(火)−推し量る

 想像力と聞くと、夢を描く力と思う人が多いようだ。こんな思いを描く人の多くは、夢と現実の差に愕然とし、想像を徒為と見なそうとする。何という突飛な展開かと思うが、当人たちにはそれが当然であり、想像に力を注ぐ必要はないとするのだから、何ともはやである。そこから生まれる障害は、大きい筈なのだが。
 一つのことから次々に連鎖させ、様々な状況を把握する。一部の人間にとっては、ごく当たり前の行動だが、外の人にとっては何とも不思議なものに映る。外の人間たちは、全ての事柄をありのままに伝えられなければ、全てを理解することはできず、一部の情報のみからは、全体像が描けないばかりか、不安や妄想に駆られるとなるようで、予期せぬ展開が巻き起こる。此処を読む人からは想像もつかない行動だろうが、現実の社会はまさにこんな様相を呈している。想像という言葉から夢を思い浮かべる人も、流石に推測という言葉に同じ意味を持たせることはない。本来、推測の力が生き抜く為に重要であることは、全ての人間が理解すべきことと思うが、現状はそうなっていない。汚染の広がりを声高に伝える報道も、まさに、「安全」を保障した発表を否定する為に、力を注ぐ姿勢を示したものに思えるが、僅かな推測で見える姿を、見ようともしない姿勢こそが根源にあると気付かぬようだ。これは情報を受け取る側に、最も大きな問題があり、肝心な力の欠如が、自らの立場を苦しくしていることにも、想像が広がることはない。情けない、と言ってしまえばそれまでだが、何故なのか、の答えは見当たらない。赤ん坊の目の前にある玩具を、布で覆った時の反応は、年齢により異なると言われる。目の前にあるものしか「見えない」年齢と、そこにあった筈のものと「見える」年齢、そんな変化が訪れない人間に、まともな推測や判断ができる筈もない。

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11月14日(月)−掏り替え

 経済の停滞が続き、将来への不安が大きくなる。自らの生活を設計し、それを築き上げていくことは、人生の大きな目的であり、上に向かう心が全てを支えることになる。そんな思いが社会全体に満ち溢れていた時代、人々は日々の生活に追われていても、何処かに余裕を持つことができ、他人にも寛容な目を向けていた。
 そんな様相が徐々に変わり始めたのは、閉塞感を持ち始め、前向きの気持ちを失い始めた頃なのではないか。右肩上がりという表現は、余りにも多用されたことから、そろそろ聞き飽きた感覚があるが、そういった伸びに夢を描いた人も少なくない。そんな時代から、一つ一つの国がそれぞれに変調を来し、徐々にその問題が拡大していくと、個々の課題が見え始めることとなった。それに比べると、最近の状況は悪化の一途を辿っていると見るべきかも知れない。個々の問題が、その中での解決が見られぬままに、周囲に拡大し、そろそろ全体に広がったかのように思える。全体の繋がりを強調する風潮から、この伝搬速度は更に増し、同じ病に罹る国の数が増え続ける。病巣は深くまで入り込み、それぞれに事情は異なっているとは言え、全体として、問題は大きくなるばかりだ。国の経済を考える上で、非常に重要な課題と思えるが、それと共に、人々の心に暗い影を落としていることも、重要な要素と言える。自らが招いた問題としてで無く、他から及んだ問題として扱い、自分たちの問題としてより、他に原因を見つけようとする。あった筈の余裕は消え失せ、他人を見る目は厳しくなる。自分に戻る視線ならば、さほど問題は大きくならないだろうが、現状は、外にばかり目が向いている。失職の原因や就職できない原因を、そんな所に見つけようとするのも、こんな心の動きがあるのではないか。自分の力を見つめていれば、また違った解釈がありそうに思えるが。

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