寒雀という声が流れる。休日の早朝に、テレビからは次回の季題が流されるのだ。何の番組だったか、前を見ていないのだから、さっぱり解らないのだが、雰囲気からは俳句の時間だったのか、と思った。そんな季節なのだな、と思いつつ、羽を膨らませる姿が目に浮かぶ。言葉の不思議、といった所だろうか。
そんな趣味は無いから、念の為と検索をしてみると、確かに季語の一つのようだ。言葉で季節を表す習慣は、何もこんな趣味を持たずとも、何となく身に付いてくるものだろう。特別な言葉は別として、それによって季節を感じ、その光景まで目に浮かぶとなるのは、四季の移り変わりを楽しむ生活が、基本となる国に育った人間の、ある種の特質なのかも知れない。そんな楽しみを失い、日々の生活に追われた時代もあっただろうが、ついこの間までは、ゆったりと楽しむことのできる時代が続いていた。地域にもよるのだろうが、天災による大きな被害は、心の余裕を無くさせ、一時的とは言え荒んだようになる。また再び、そんな心持ちを取り戻す日が来るのだと、何処かで願いながら過ごす時期も、後になって考えれば、何かしらの楽しみを抱いていたと言えるのかも知れない。十七文字で、様々なことを言い表す一種の遊びも、極めようとすれば苦しみを伴う。ある時代に、それまでの装飾を施したものに、厳しい批判を加えた人間が出たが、そこまでの必要があったのか、今考えてみてもよく判らない。楽しみが苦しみとなり、それだけが極まった結果、遊びが遊びでなくなる。そんなことに憂慮を抱き、批判へと繋がったのかも知れないことだが。始めに戻り、寒雀、解説の中で目を引いたのは、薬としての効用。そういえば、思い当たる所も無い訳ではない。
紅葉前線は南下を続けているだろうか。人間は自分が感じ取れないことを、自然の生き物が知ることができると、それを不思議と片付ける。神秘とまでいくと、極端な表現が過ぎることとなるが、理解できないことに対面した時に、どんな反応が起きるのか、人それぞれに違うだろうし、相手によっても違いそうだ。
ついこの間まで緑色だった葉が、あっという間に鮮やかな赤色に変わったり、くすんだ黄色に変わる。既に仕組みの殆どが明らかとなり、子供たちにも理解できるような説明がなされているが、それが理解できたとしても、紅葉を楽しむ気持ちには変わりがないのではないか。不思議だから面白いというのも事実だろうが、訳が判ったとしても面白いものはある。ある日突然葉を落とす樹を見て、何が起きたのかと驚く人が居たとしても、それに興味を抱くという点で、面白味があると言えるだろう。ことわりが解ったとしても、面白いことには変わりがない。大したことではないのかも知れないが、本当の楽しみ方を知らず、面白味を見出せない人たちの多くは、上辺だけの理解に満足し、それ以上の追求に目を向けることは無い。知りたいと思う欲求の強さは、人によって違うと言われるが、それはそれぞれの違い、といった感覚でしか受け取られていない。だが、人の心の動きという見方をすれば、このことはいい加減に扱うべきでないように思う。解ったからそれでおしまい、ではなく、解ったことで更に面白くなった、となることは、先を見れば大切なことに思える。そういう欲ではなく、別の欲ばかりに走る人々に、幸福というものは訪れるのだろうか。
無理という言葉の使い方について、今更言われても困る、と思われるかも知れないが、どうも本来の意味を脇におき、そこから派生した意味の方が優先されているように感じられる。「理」は、様々な文字との組み合わせで、意味を成すことが多く、そこには共通の意味がある筈なのだが、忘れられているように見えるのだ。
できないこと、という意味で使われることが多い「無理」だが、本来は、「理」が無いということである。そんなことを言い表したものに、無理が通れば道理が引っ込む、という表現があるが、できないことが通るのでは、意味を成さない。「理」をことわりと読めば、何となく判ってくるのではないか。ことわりとは、物事の筋道を表すもので、ある社会に属する人間が共通に持つもの、とすれば、分かり易いだろうか。本来の意味で考えてみると、「理」の無さは甚だしくなり、道理が通る気配は無くなりつつある。こんなことを思いつつ、社会全体の言葉遣いに目を向けると、「理」を蔑ろにする動きが強まりつつあることに、気付かされるのではないか。「論理」を立てても、感情ばかりが優先され、弱者を装う人々が手厚く扱われる。「倫理」の喪失に、社会制度自体が崩れつつあり、その感覚を失った人々の、道を外れた行為が目立つ日々が続く。全く違った言葉に思えるものに、同じ文字が使われることには、共通で重要な要素の存在が確かめられるが、それが全般に意味を弱められていることには、冷静で人間的な判断が通用しない社会が、築かれつつあることを表しているのだろう。好き勝手に振る舞う人々にとって、好都合な時代が続く訳だが、社会の崩壊に繋がることに目を向けると、それ自体を歓迎することに、反対の声を上げる必要があるのではないか。長く続いた制度を崩壊させ、新たな制度の構築に向かい始めた国も、現実の困難に暗礁に乗り上げていると伝えられる。無理を通して、道理が消えれば、拠り所の無い世界が築かれるだけのことだ。
間違いを認める勇気が必要、という意見が取り上げられるようになったのは、何時頃からだろうか。誤りを謝る、こんな簡単なことに勇気とは、と思った記憶があるが、誇りを失わぬ為に、とされると、はてさて、何とも大層な話と映った。当然が当然でなくなり、その欠陥を補う為に、何やら不思議な行動に出る。
こんな話が好んで取り上げられた当時、不思議な行動を理解に苦しんだものだが、それから数十年を経て、更に悪化する状況に、人の心の曖昧さに病の重さを強く感じる。確かに、国と国との戦いにおいて、様々な蛮行がなされたに違いない。だが、歴史的に見れば、互いに様々な遣り取りが交わされて来たのではないか。一方的なものを一方的に取り上げ、それに関する謝罪を問題とするのは、心情的に理解できないことではないものの、これ程の偏りを受け取る必要は無いと思う。更に、それが勇気のもととなるとまで及ぶと、身勝手な論理に呆れるしかない。ただ、それを重いと感じるのは、実際には外圧によるものではなく、同じ国に育ち住む人々が、如何にも全てを理解したかの如く振る舞い、謝罪を繰り返す姿を現すことで、それ自体が、恰も高潔な人間の行為のように、説き広めようとすることにある。先日読んだ、隣国の革命を指導した人物に関する本も、内容は杜撰で、まさに寄り添うが如くの、下賎な考えの満載に、人間の賎しさを垣間見る思いがした。自分自身を卑下する言動には、大した思いを抱かないけれども、自分を特殊化し、他人を貶める言動を繰り返す人間には、真っ当な心が宿っているとは思えない。高潔な人物として、取り上げられた人に関しても、当時の熱狂が冷めてしまった現代では、自分の夢を実現する為に、周囲の人間を利用したに過ぎないとの感想しか抱けない。そんな空気の中で、未だに自分だけが正当な考えを持つと、書き続ける著者には、知能の欠片も感じられない。
何の為に働くのか、そんな疑問を抱きつつ、社会に飛び出す人々が居る。だが、その場が失われつつあり、何の為どころか、活躍の機会が奪われるとまで言われる。景気の停滞が、社会の構造までも破壊するとされるが、果たしてそうなのか。構造の細かい点まで指摘が及び、様々な解決策が提示されるとしても。
これさえあれば、安心な将来が約束される、といった提案が次々に並べられるが、その一方で、怪しげな雰囲気が漂う。輸出主体の経済では、その道を断たれることが最大の問題となる。だから、流通の妨げとなる障壁を、如何に取り除くかが肝心と言われる。製造業において、買い手がどれほどいるかは、第一に考えねばならないことになる。それが国の外にあるものとなれば、輸出が当然という考えが出てくる。だが、現地生産などの方策がとられ、経費の削減とともに、為替の問題をも解決して来たのではないか。そんなことへ、多額の投資を施した後も、こんな状況が取り上げられるのを見ると、何がどうなっているのか、さっぱり判らない。確かに、全てを現地で、とはいっていないのかも知れないが、こんなことが続くのでは、何の解決も得られないように思える。国々の繋がりが、様々な形で作られて来た中で、こんな事態は続く筈は無い。本来であれば、繋がりが強くなる程、最終的に残る問題は、国の中でのことの筈。消費が足らないから、という話にするのではなく、自給自足という観点から、全てのことを考えるべきと思える。国内生産と消費、その関係を、今一度見直してみる必要は無いのか。外のせいに、してばかり居ないで。
一つの区切りとなるからだろうが、ある日突然、話題に上るのは情報社会の特徴だろうか。種々雑多な話題が飛び交い、次々に垂れ流される中では、情報の洪水に流されるのみで、そこに一定の考えや結論を導き出すことは難しい。一棹入れることで、流れに変化が生じ、目を向ける対象を見出せるようになるということか。
そんなことをふと思い浮かべる程、唐突に話題に上り始める事柄が、どれほど重要なものなのか、首を傾げたくなることも多い。一度俎上にあげたからには、その重要性を強調するのは当然とばかり、解説が施されるが、ついこの間まで、忘れ去られた存在だっただけに、無理筋の連続に思えてくる。論理で理解できないからこそ深刻な問題、とまで言い切るとなると、事件を起こした人間の狂気と似た、常規を逸する思考に見えてくる。優秀と見なされた若者たちが、狂気の行動に走った理由を、何とか見出そうとする動きもあるが、それがどんな意味をなすものか、無駄に見えて仕方が無い。更には、歴史に残すべき大事件との解釈も、ふた昔にもならないのに、既に忘却の彼方に押し込まれる状況に、何をか言わんや、との気持ちしか出てこない。事件の重大性が、歴史に残るかどうかに影響を及ぼすと、よく言及されるものの、現実には、そのものの重大性より、その後の展開との繋がりにこそ、意味があるのだとされる。そこから考えれば、被害者の多寡よりも、事件を起こした人間たちの杜撰な考えにこそ、問題の重大性を判断する基準が出てくるのではないか。テロという言葉で括られる事件の殆どは、体制に対抗する動きから来るものだが、そのまま扱われる限り、全体の状況に大きな変化は無く、どんなに崇高な考えに基づくものだとしても、社会への影響を残すことはできなかった、となる。個々の問題として、様々なことを分析して見せることは、それを生業とする人々には、当然のことだろうが、社会としての必要性は、これらの場合、無いという結論が出ているように思える。
批判的態度で物事を見ることが重要であると、何度も説いて来た。個人の範囲で見れば、自分の中で情報を消化し、実情を理解した上で、正しい判断を下すことが必要不可欠であり、それを実行する限り、心配することは殆ど無くなると思う。では、社会の範囲ではどんなことが必要なのか。特に、報道においては。
批判的精神が根幹を成す組織では、賞賛は忌み嫌われ、徹底的な批判が繰り返される。平和が続く時代には、こんなことをしても何の変化も起きず、依然として平和な雰囲気が続く。少しくらいの不安も大勢に影響を及ぼさず、何となく流されていくものなのだろう。ところが、現状を眺め回してみると、その基礎となる部分の強固さに、大きな変化が及んでいる。現状に対する不満だけでなく、将来への不安も大きく膨らみ、安定を外に求めることは難しくなる。そんな中で、最も重要なことは、何が確かで、何が不確かなのか、その区別を明らかにすることに思えるが、情報不足を憂える声からは、その為に必要な材料が与えられていない現状が見えてくる。大事故を起こした施設に関しても、二面性を持った情報が流され、末端に居る人間には実態が見えてこない。運営側が都合の良い情報のみを流す、といった批判は相変わらず流されているものの、一組織から様々な力の釣り合いによって成立する集まりへの変化は、少なくとも、その信用性において大きな変化がもたらされたと思われる。にも拘らず、批判を続ける報道側は、その信憑性の吟味よりも、思い込みにも似た批判を繰り返すことに終始し、依然として問題を過大化する動きを弱めない。批判が悪い筈も無いが、計画の妥当性や組織の見通しの検証などについて、客観的な解説などがあっても良いのではないか。舌足らずの情報提供への批判は、弱まる気配を見せないが、それにしても、計画の進捗状況がどんな形で検証されたのか、また、その為に使われた数値はどんなものか、この手のことに触れずに、すぐさま不安視するのはどんなつもりなのか、相変わらず怪しげな思惑が蠢いているとしか思えない。