日頃の生活からは程遠いものに対して、表現し難い怖れを抱く。大袈裟な話と思うだろうか、それとも、身近な存在と思うだろうか。それぞれの人々の心の中に、こんなざわめきが起こるかどうかは、まさに人によるのだろうが、その割に、世の中では、何かに付けてこんな展開が起こされているようだ。
不安とか危機とか、そんな感覚に関する話が、毎日のように流されていると、実際には、その感覚が鈍くなるのではないかと思う。自分しか抱いていないとしたら、更に悩みが深まる筈が、他人も同じ状態にあると聞いた途端に、ほっと安心する。それが悩みを解決する訳ではなく、単なる心の安定に過ぎないものが、忘れさせる効果だけはありそうだ。煽ろうとの思惑が満たされず、不満ばかりが残る状態にあるが、現実には、何度も訴え続けることで、渦中にある人ではなく、外に居る人々への影響のみが残る。馬鹿げた話に思えるが、本人よりも周囲が心配する、という事態が起きているのは、こんな事情によるのではないか。更なる混乱と思えるのは、不安と危機の違いについて、何の認識も無い点であり、心の問題と迫り来るものとの違いどころか、解決への道筋の違いなど、そんなところへ思いを馳せることも無く、ただ話題にしているのみ、といった人種が増え続けていることは、驚くばかりとなる。そんなことを如実に表すのは、漠然とした危機感といった表現だろう。何が相手なのか解らないままの危機、とはどんなものか。解せないことばかりだが、これを使う人間は大真面目。何たることかと思うのは、またまた、外に居る人間となり、本人は、全く違った思いを抱く。困ったものと思うのも外の人間、内側にはどんな思いが満ちているのか。
「やらせ」という言葉が踊っていて、それに憤りや怒りを覚えた人も居るだろう。確かに、騙されたと思えば、腹が立つこともある。だが、何が欺瞞で、何が嘘なのか、やらせで括られた話の中で、それを的確に見分けられる人は、果たして居るのだろうか。演出は許容され、やらせは糾弾される。何処に違いが。
ある年代以上の人々にとって、印象に残っている宣伝の一つに、街角で道行く人に自社の製品を試してもらう、といったものがある。それまで、宣伝の中での出来事は作り話であり、都合の良いことばかりが展開されるという思いがある中で、自分と同じ人々が、納得する姿には価値があるように見えたのだ。それから二十年くらい経った頃か、保険商品を扱う企業が、よく似た形式の宣伝を流したが、そこには、明らかな演出が施され、絵空事を流す雰囲気に溢れていた。それを見た時、あの広告を覚えていた人は、ふと思ったのではないか。あの頃のあれも、ひょっとすると同じことだったのでは、と。実名まで示して、試している人に嘘は無い、と思う人は多いだろうが、それが真実かどうかの保証は無い。隠された演出があったとしても、所詮は宣伝文句に過ぎないと言われれば、反論するのも馬鹿らしくなる。こんな形で素人を使った演出は、様々なところに溢れることとなり、見破る力が必要ともいわれたが、現実には、全てを疑うだけで十分となる。信用を失ったものに、どんな意味があるのか知らないが、始めに挙げた広告の主は、別の製品で同様の形式を続ける。恰も、今度は本当ですよ、と言いたげに。そこで、もっと前の話に戻り、「やらせ」の功罪とは何か。もっと冷静になって考えてみては。
政治という全体の方向性を決める仕事と、現場での対応に携わる仕事では、目の付け所や視野の広さに大きな違いが生まれる。現場を取り仕切る人々の集団として、この国の単位では官僚と呼ばれる人たちが、現場への目配りを任されて来た。これに異論を唱え、改革を謳ったのは始めに挙げた仕事をする人々だ。
民衆の多くは、何がいけないのか、本当のところを掴むことはできなかったが、兎に角、悪者として槍玉に挙げられ、停滞に陥った責任を全て引き受けさせられた官僚たちは、それまでに抱いて来た責任感や期待を、捨ててしまうこととなったようだ。此処まで書いては、言い過ぎは解っているつもりだが、多くの人々が当然と思って来た仕組みが、無惨に破壊され、無意味な存在と断定されるに至っては、やる気も何も無くなるのが当然だろう。結果は、停滞を抜け出す妙案が出される訳でもなく、失敗の責任ばかりが大きく取り上げられ、改善の兆しは見えてこない。方向性を決める筈の人々は、思いつきを並べるばかりで、その魅力に引き寄せられる愚民に支えられ、好き勝手な奇策を講じる。方向を定められぬ愚策が並ぼうとも、窮地を脱する手立ては見つからず、焦りにも似た声が聞こえるが、依然として現場の人間への批判ばかりが続く。こんな中で、将来を支えようという大志を抱く人が、入ってくる期待は萎むばかりではないか。となれば、政治同様に好き勝手を繰り返す現場の人間が、我が天下とばかり愚行を繰り返し、改革は更に遠ざかることとなる。そんな中で一つ覚えのように繰り返される批判には、結局のところ何の力も意味も無いことが、そろそろ理解されても良いのではないか。現状維持や何もしないことを主張する人間が、うようよ居る状況は、別の要因が産み出した結果と見れば、少しは違う方向性も見えてきそうだが。
師走に入り、愈々慌ただしくなる人々が居る。と書くと、そこで使う「師」は違う意味だとの意見が聞こえてきそうだ。本来は、仏事から来ているという説もあるが、そこからすれば、「師」とは坊さんのこととなる。だが、現代では、師はある職業に就く人々に向けて使われることが多く、慌ただしさもそこに宛てる。
この職に就く人にとって、何が重要となるかは、一概に決められないだろう。しかし、そんな中でも説明能力は、欠くことのできないものではないか。人に物事を教える為に、何が肝心かを考えると、そこに出てくるのは、何故とかどうしてといった疑問に答える、説明を施す能力が、第一になりそうに思えるのだ。説明能力とはと、始めに思いつくのは、小中の先生が持っていると言われた指導要領という、教科書の内容に沿った教え方の勘所を示すものだろう。それに従って、授業を進めれば、教科書の意図を確実に伝えることができ、児童生徒の理解を進めることができる、と言われたものだった。過去形で書くのは、最近の状況からは、その思惑が実らず、多くの積み残しをぶら下げた人々が、世の中に溢れていることがあるからだ。説明において重要と思われるのは、実はこの点であり、理解が進まぬ人々に対して、どんな手立てが解決に繋がるのか、従来の見方では見えてこない点がある。知っていることしか解らない若者や、知らないことには興味を抱かない人々に、教えることは非常に難しい。説明の努力は、理解の努力と相俟って、その目的を果たすことができる訳だが、両輪の片方が抜けた中では、何ともならない。説明を一方的なものと見なす人の多くは、この点を見逃したままに努力を重ね、徒労に終わる。勘所というものが無くなった訳ではないが、互いの協力という体制が崩れていては、琴線に触れることも無い。教室を飛び出した人々も、こんな感覚から脱することも無く、その後の生活を続けているのでは、説明の声が響く筈も無いだろう。
井戸端での話ならば、何となく解る筋書きだが、これが国全体を巻き込む話となると、首を傾げざるを得ない。こんな話を聞いた、あんな話をしていたと、その場にいなかった人々に伝える。井戸端では、微妙にも大袈裟にも、様々に装飾を施された内容となり、面白おかしく、都合の良い筋書きにされるのだけれども。
発言の真意がどうだったのか、後付けの形として伝えられる内容は、始めに取り上げられた話の骨子に関わるものとなる。だが、発言そのものの内容について、今更取り上げる必要は認められず、単なる反論や言い訳が並ぶだけでは、核心に触れるようなことは起きない。毎度お馴染みとなった非公式の懇談とは、本来、報道しない姿勢で互いに臨む、といった認識がなされていたようだが、事が重大であれば、その範囲でないと判断できるようだ。紳士協定などといった話が、一時期取り上げられていたが、最近ではそんなことに触れる気もない。重大かどうかは、ある一部が判断すればよく、誤解に基づくものでも、重大の度合いによっては、許されるとの共通理解があるとも思える。ある意味、密室とも受け取れる場での遣り取りでは、公開の原則は排除されるだけに、互いの立場を守る為の手立ては、こんなことが起きる度に、その必要性を認識させられる。自分がそんな部屋に押し込まれた時に、事前に用意したものは録音装置であった。力関係が明らかに存在する中では、身を守る手立ては必ず必要となる。懇談では、互いの立場に関わる話としても、もっと気楽な発言が引き出されるような雰囲気が作られる。それが勇み足を産んだとしても、場を設定した人間には何ら責任は無く、発言者だけの責任とされる。だが、誘導尋問とも思える展開であれば、また違った解釈もあり得るのではないか。こんな時に、やはりと思えてくるのは、どちらの側にとっても、記録装置が必要であるということだ、互いに身を守る為に。
お決まりの文句が並ぶだけに、根本的な批判の声は聞こえてこない。しかし、それが正しい解釈なのか、正しい状況判断なのか、という根源となる疑問をぶつけてみると、まともな答えは返ってきそうも無い。皆が信じ込んでいるものを、打ち消すことは困難を極めるが、新たな展開を期するなら、原点回帰が必要となる。
様々な話題に当てはまりそうな流れだが、今当てはめてみたいのは、貿易に関する話である。この国は、様々な製品を産み出し、それらを市場に流すことで、収益を上げていると言われる。国内の市場は余りにも小さく、外に活路を求めるのは当然との解釈があり、その為に必要な手立ては、輸出に関係するものに限られる、となる訳だ。これ自体を否定するつもりは無いが、輸出依存に関しては、少し違った見方が必要ではないか。企業にとっての収益を考えた時、何処にでも拠点を置くことができることを前提とすれば、国の間の流通を無理に持ち込む必要は無い。輸出入についての障壁を、如何にして除くかを議論することには、逆の前提がおかれているけれども、そうしなければならないという制限は無い。また、一方、内側の市場の大きさについて、その範囲でものを考えれば、これ程の問題と取り上げる必要は無いのかも知れない。国の間の障壁を除くことばかりに、目を向けていることで、肝心な問題を覆い隠し、根源を見失うこととなれば、自分たちの生活が成り立たなくなる。一見、障壁が障害と見なされているようだが、実際にその通りなのかは定かではない。また、農産物に関する障壁の問題も、逆の見方からすれば、現状が空騒ぎに思えてくるが、どうだろう。現時点でさえ、かなりのものが外から入っていて、国産品との競合は起きているが、価格だけに問題があるとは思えない。多国間の問題に目を向けてばかりいないで、家の中の問題にこそ、目を向ける必要がありそうに思える。
極端な物言いが好まれる時代なのだろうか。常識を逸脱することが、恰も勇気のある言動と受け取られ、次の瞬間には、遠い過去のことのように忘れ去られる。打開という言葉だけが、何度と無く使われ、その度に破壊の如くの跡が残る。無責任な発言に、人々が振り回されるのは、何処の誰が悪いからなのだろうか。
多くの人は、発言の主が悪いと思っているに違いない。それ自体が間違いだとは言わないものの、これ程の風潮が築かれた理由は、ほんの一握りの人々の非常識にあるのではなく、その発言の真意を見抜けない大衆にあるのではないか。愚民政治などという言葉が、引き出されたことはそれを如実に表しているが、愚かなる所以はそれにも気付かぬ所にある。極端な考え方が好まれる社会では、全てにおいて極端な表現が必要となる。穏便な言い様では、誰も気付かず、誰も動かないからだが、それが受ける側の問題であり、発する側の問題でないとすると、今の状況はかなり捻曲がった状態にあると言えそうだ。これが、個人間の話であるなら無視しても良いだろうが、公的なものにまで、両極端な表現ばかりが目につくとなると、放置しておくのは得策ではないだろう。統計的な分析から、危険性を説く文書についても、以前ならば、調査結果を数値にして注意を引こうとしたが、最近は、数値の語る所は少なく、更に訴求力が強まる表現を、根拠無く綴る方が好まれる。喫煙や飲酒の危険性は、誰もが知る所であるにも拘らず、依然として愛好者が減らない現状に、非常識とも思える表現で、訴える傾向が強まっている。パッチテストなる試験で、アルコールへの耐性を試すことを説明する文書には、飲めない人への優しい言葉と比較して、余りにも極端な表現で耐性を示した人々への警告がなされる。懲りない人間には罵声を浴びせてでも、と言わんばかりの表現には、常識的な思考は感じられず、自らの立場を苦しくするだけに思えるが、こんな時代には当然のことなのかもしれない。