パンチの独り言

(2011年12月5日〜12月11日)
(氷解、疑惑、実存、値踏み、悪知識、鑑賞、愚昧)



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12月11日(日)−愚昧

 今の世の中に満ち溢れているものは、歪められた知識や情報ではないだろうか。知識や情報を手に入れることが重要とされ、その真偽に関することや吟味について語られることは少ない。玉石混淆ならまだしも、石どころか塵としか思えぬものまで、せっせと集めて悦に入る。何と情けない状況なのだろうか。
 子供の頃、河原や海岸で綺麗な石や貝殻を集め、箱一杯にした思い出を持つ人も居るだろう。子供の目から美しいと思えても、大人になって見れば、何の変哲もない石だったり、傷や穴だらけの貝殻だったり、とその欠点ばかりが目立つ。見極める力がついたとも言えるし、純粋無垢な心を失ったとも言えるが、様々な要素を考慮し、判断を下す力がついたのは確かだろう。まるで、そんな子供のような従順な人々は、それぞれの情報に込められた思惑や悪意に気付くこと無く、信じ込まされている。世の中に溢れるものの多くが、そんなものになってしまった理由は、はっきりとは解らないが、一つには安定した時代が長く続いたこと、もう一つにはその後の凋落の影響があるように思える。にしても、人々の心に潜む不安が、これ程簡単に膨らみ続けるのは、もう一つの不思議に思える。ただ、本来ならば良識という存在が、これらの嘘や間違いを排除していた筈が、却って、それらを呼び込む役割を帯びて来たことは、大きな暗い影を落としているように思える。報道機関の凋落ぶりは、これまでにも様々な形で取り上げて来たが、先日取り上げた粉ミルクの話も、結局、報告した市民の手柄のように扱い、公的機関の不手際を批判する。批判は彼らの得意技だけに、指摘は無用だが、手柄話は聞き捨てならない。問題の本質を指摘すること無く、何が重大かを吟味せずの、褒めちぎりには、良識の欠片もない。都会で見つかった廃棄物の話も、恐怖を煽るのみで、正確な説明を省く姿勢には、同様の感想を抱いた。

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12月10日(土)−鑑賞

 自然との関わりが重視されるようになってから久しい。皆それぞれに楽しんでいるようだが、その対象は様々だろう。郊外に出かけ、森や林を散策することや、海辺を歩くことを、楽しみにしている人々は、清々しい空気を吸うことだけで、十分なのかも知れない。山に登る人々は、それ自体が目的となっているのかも。
 中でも、具体的な動植物を眺めにいく人々は、最近の傾向としては、その写真を撮ることが目的になっているのだろう。特に、デジタルカメラが普及するに従い、その場で映像を点検でき、以前のような楽しみは無くなったものの、失敗を恐れずにできることから、色々な人が撮影を楽しめるようになった。一部の人々が、その楽しみをブログという形でネット上に公開し、他の人々にも楽しんでもらおうとする。出かけることが難しい人に取って、爽やかな空気は体験できないものの、美しい動植物の写真を眺めるだけで、何となく自然を楽しんだ気になれるのではないか。そんな活動とは別に、以前からある活動は、同好の士が集まり、何処かの施設で写真展を開く。デジタルカメラと言っても、手の平サイズの簡単なものから、昔からあった一眼レフと呼ばれる本格的なものまで、様々あり、特に本格派は、レンズを交換して遠くのものを撮影する必要を感じることがあるらしい。動かない植物であれば近くに寄れば良いが、動く動物はそうもいかず、鳥などは警戒心も強いようで、焦点距離の長いレンズで、近くに寄っているかの如くの写真を撮る。出来映えの良いものは、自分の楽しみだけでなく、他人にも分け与えたいとの思いがあるのか、ネットに貼付けたり、写真展を開いたりと、活動の範囲は更に広がる。そんな場所に出かけて、美しいものを見るのも、自然を楽しむことに繋がるのではないか。

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12月9日(金)−悪知識

 ゆっくり考える時間がないのだろうか、それとも、その能力がないのだろうか。そんな思いを抱く程、情報を流すことを生業とする業界の状況は、深刻に思えてくる。誤解を招く表現を多用し、問題の本質から外れた話題に終始する。たとえ源で確かなものが湧いても、その後の汚染は深刻であり、下流には汚泥が溜るばかりだ。
 事実をそのままに伝えることが本来の役割であるにも拘らず、印象を強める飾りを加え、真実を覆い隠す。知る権利を掲げても、自らがそれを侵していることに気付かぬ。こんな輩は懲りること無く、独り善がりの演技を続ける。愚民ばかりであれば、その地位も揺るぎないものとなるが、流石に、世の中には知恵のある者が居る。如何に歪曲された情報が流されているか、各所で指摘されたとしても、既得権益を持つ人々は、何の危機感も抱かないようだ。子供たちの健康は、将来を睨む上で、重要な事柄であり、そこに話題が向くことは当然だろう。だが、その源となる食品の安全性に関する報道には、お決まりの煽りのみが露骨に表されている。認可を受けた人々は、こんな調子の狂躁を続けるが、眺める側には全く異なる雰囲気が漂い始めた。こちらも気になったので、その辺りの計算をやってみた。環境中には自然放射線なるものがあり、その多くはカリウムの放射性同位元素であるカリウム40からのものとされる。この含量を件の放射性セシウムの値と比べたのが、このファイルである。絶対の安全を謳うつもりはないが、国民の知る権利という意味からすれば、こういうこともきちんと伝えるべきだと思うが、その役割を報道機関は果たしていない。ブログでも、相変わらずのものが多数ある中で、冷静な分析を示すものもあり、「粉ミルク、カリウム40」で検索すると、「子育てぱぱ日記、アカチバラチの日記」といったものに辿り着く。特に後者は、報道姿勢を厳しい論調で批判し、何が肝心かを示そうとする。良識が市井にあることに安心もするが、本家本元では失われたままのようだ。

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12月8日(木)−値踏み

 人に騙されたり裏切られたりする度に、何故と首を傾げる人々が居る。彼らから見れば、周囲の人の助けを得て、順風満帆の人生を送る人は、不公平の実例に思えるのではないか。何故の繰り返しは、次々に疑問を産むものだが、問題の本質に迫ることは少ない。相手を見る目の違いに、思いを馳せること無く。
 あんなに良い人だったのに、どうして裏切られたのか、と思い悩む人が居る。彼らなりの事情があり、全幅の信頼を寄せた人に、ここ一番で異議を唱えられる。それを裏切りと思うかは、本人次第だろうが、単なる反対ではなく、当人の提案に潜む欠陥に気付き、意を決して諌言を示したのかも知れない。それを受け入れること無く、落胆に沈む人には、ある意味、人を見る目がないと言えるだろう。騙され易い人の多くも、甘い言葉に乗せられたり、うまい話に手を出したりと、後から考えれば何故と思えることが多い。だが、それが何度も続くのでは、考えが甘いという片付け方は適用できず、これもまた、人を見る目で括った方が良さそうに思える。そんな能力を持つかどうかが、全てを決めているというのでは、一部の人々が救われないことになるが、それもまた仕方ないのかも知れない。直感だけでの話では無く、じっくり眺めることでの判断もあり、結局は、様々な情報を得た上での判断となれば、人を見る目というものも、ぞんざいに扱うことができないのではないか。騙され易い人の多くは、同じ情報を得たとしても、その中での順位付けに偏りが生じ、ある都合に引き摺られる形で、判断を誤る。思い込みや期待は必ずしも悪いものとは限らないが、結果として、そういったものに惑わされることが、悪い方に繋がる訳だ。人それぞれに勝手な見方があり、それはそれで良いことだと思う。そういえば、損失隠しで話題となった企業で、解任された人の姿には、何の魅力も感じなかったが、これも勝手な判断か。

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12月7日(水)−実存

 そこにあることが当然という考えから、あってはならないという考えに変わったのか。知識の有無も関係するが、それ以外の要因も考えられるようだ。汚染とか暫定基準とか、毎日のように流される情報には、一部の人々にとって重要な内容が含まれる。別の一部には、取るに足らないという意見もあるのだが。
 放射能は恐怖の対象として、この国では特に力を入れて伝えられて来た。そこではある筈の無いもの、といった姿勢ばかりが前面に出され、保証するかの如くの伝え方が、好まれていたようだ。だが、無い筈のものがあるきっかけで外に出された途端に、状況が一変した。そこにも大いなる誤解があるのだが、誰も指摘すること無く、恐怖感のみが煽られる結果となる。冷静に考えれば大禍無しと思えることも、知識と判断力の欠如が高まり、身動きの取れない状況が続くと、どうにもならない事態となる。そんな中の恐怖は、拭い去ることが困難であり、次々に舞い込む小さな不安も、それに加わることで雪だるま状に膨らむ。今一度、知識を深める態度に戻って欲しいものだが、落ち着かない心理が災いとなり、意味を汲み取る所まで至らない。この星は誕生の時から、人々の恐怖の対象とともに、時代を経て来た訳で、生命誕生から今まで、繰り返されて来た生存と進化は、その存在を当然の前提として来た。そのことに触れること無く、人災と称されることで漏れ出たものを、特別に扱う姿勢には、科学の知識も冷静な判断も感じられない。確かに、新たに加わったものとしての扱いは、重要な視点には違いないものの、重要となるのはそこにある差異である。そこに目を向ける為には、関心の対象のみならず、当然の存在にまで情報としての価値を認める必要があるのではないか。そうしない理由には、始めに示したあってはならないという感覚が、妨げになっているからだろうか。

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12月6日(火)−疑惑

 何が悪いのか、理解できぬままに批判の声を上げる。現代の風潮を如実に表す光景だが、何度も見せつけられると、良識ばかりか常識の喪失に嘆かざるを得ない。細々とした分析に目を向け、そこにある問題の本質に迫ってこそ、批判の矢も鋭くなるだろうが、隣近所を眺めた上で放つのでは、勢いは全く感じられない。
 様々な事件に関わる話題だと思うが、此処で取り上げたいのは損失隠しとして、何度も取り上げられた優良企業のことである。優等生として、事ある毎に褒めそやされたのも、ついこの間までのこと、事件が発覚するや否や、一気に評判は凋落することとなり、悪者の代表として劣等生の張り紙が付けられることとなった。確かに、公表された内容と明らかに異なる使途には、詐欺とか背任といった言葉が当てはまるだろうし、それを長年続けた人々の責任は重い。更に、批判の声を強める人々は、株主を裏切るといった表現を使い始めるが、これを素直に聞き入れるかどうかは、別の問題ではないかと思う。最近の株主の心理は、更に複雑なものとなりつつあるが、兎に角、利益を上げることが第一となる。その為に収益は最優先のものであるが、逆に見れば、損失は見たくもない存在だろう。本業と全く違う所で、莫大な損失が発覚したのは、あの時代に、多くの企業が経験した難事だったが、それを乗り越える為の方策は、それぞれに異なるものだったようだ。損失として報告し、借入金に組み込んだ上で、返済を地道に続けた所もあれば、それに見合うものを売却し、一気に解決へと結びつけた所もある。いずれにしても、全体として見れば、損失は明らかであり、言い逃れようも無い。件の企業がそれをも隠し、長年その穴埋めを続けて来たことは、裏切りとして追求されるべきものだが、その一方で、それだけの収益を上げ続け、結果的に埋め戻せた経営努力は、価値の無いものだろうか。それは別、との声が聞こえてきそうだが。

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12月5日(月)−氷解

 何が重要なのか判らなくなった時、どうすべきなのか、悩む人は多いと思う。何の解決も得られなかった人は、次の機会も失い続け、結果として、答えを得ることはできない。だが、解決を得た人々は、何をしたかではなく、そこでの経過について、何らかのきっかけを得たと感じる。何処に違いがあるのだろうか。
 対策本が巷に溢れ、解決法の発見に、皆が頭を悩ませるが、簡単に見つかるくらいなら、本の売り上げは伸びる筈も無い。次々にぶつかる壁に、準備万端取り組む手立てを築く人も居れば、安易な考えで突進する人も居る。そこに何らかのヒントが加われば、もっと確実に克服できる筈、と考えたくなるのも当然だが、事はそれほど簡単ではない。焦れば焦る程、答えは遠ざかるばかりとなり、更なる焦りが加わる。どんな対策本でも、全ての例を挙げることはできず、自分の悩みとの違いは、いとも簡単に見つけられる。となれば、他力本願では何ともならず、自力でどうにかするしかないが、それが見つからないからこそ、悩んでいる訳だから、困ってしまう。重要かどうかにしても、選択肢の選び方にしても、悩みは深まるばかりで、活路は見出せない。だからこそ、焦りが募るばかりとなる訳だが、苦しむことで答えが見つかるくらいなら、皆苦しんでみようと思うだろう。そうならないからこそ、悩みやら焦りやら、心の問題ばかりが浮き上がり、落ち着く暇も無くなる。こんな時、ふと思い当たるのは、多くのことが手立てによる解決ではなく、ある意味の時間による解決を見たという点で、その間にどんなことをしていたとしても、大して変わりがないことだ。じっと待つことの難しさは、経験者にしか判らないが、経過について解ったこととは、そんな所にある。立ち止まるのではなく、ただ歩き続けるのは、簡単なようで、実は難しいことのようだ。

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