パンチの独り言

(2011年12月12日〜12月18日)
(言論、選ぶ、作為、責任転嫁、非科学、自尊自重、凡眼)



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12月18日(日)−凡眼

 計画を立て、節目節目に進捗状況を報告する。ごく当たり前の行為が、批判を受けた時、そこに露骨に現れる悪意に、憤りを覚える。弱い者の味方を自任する人々は、ここぞとばかりに攻勢に出るが、何が重要なのかを見失っているのではないか。こんな時に必要なことを見出せず、戸惑いばかりが空気を満たす。
 何かを作り出す計画であれば、その進捗はある楽しみを持って受け取られる。だが、ここでの計画は、壊れたものをどう回復するかであり、楽しいという感情は見つけられない。それどころか、計画を立てた以上、それに従い、それを守ることが絶対条件となり、少しでも筋道を外せば、途端に罵声が浴びせられることとなる。そんなことが予想できた時に、勇気を持って地道な活動を盛り込んだ計画表を提出した人々は、どんな思いを抱いていたのか。予想通りの展開により、計画通りに事が運んでいるのか、大きな不安を抱かされ、精神を擦り減らした人が多かったのだろうが、それでも何とか、予定通りに展開し、一つの節目を乗り越えることができた。その報告の最中、再び下らない質問と推測が飛び交い、報告自体の重要性を認めること無く、身勝手な批判を依然として続けるメディアには、そろそろ辟易とした人も多かったのではないか。利害のみを前面に出し、持論を展開し続ける首長には、賛同の声も殆ど聞こえないばかりか、自らの計画は皆無という現実に、退陣を願う声も出ている。そんな遣り取りが、この時期にすべきことでないことは明らかだが、平和惚けした頭には、その程度の思考しか浮かばない。進捗の報告に対し、最終目標への長い道程を根拠とした批判は、問題のすり替えに過ぎないことに、気付く力は残っていないのだろう。

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12月17日(土)−自尊自重

 偽物と本物の違いは、と言っても、骨董品や絵画の鑑定に関する話題ではない。科学者かどうかを区別する手立てに、何があるのだろうか。数値を扱い、そこから結論を導き出す。そこだけ眺めると、俄評論家や活動家の多くも、科学に関わる人間と同じ能力があるように見える。では、違いはないのだろうか。
 十分な知識を持たない人にとって、その区別をすることは難しい。殆どの場合、結論が正しいかどうかを判断基準とするだけに、狂気に満ちたものを除けば、同じようにしか見えない。このところ話題に上るものに関しては、心配の種がそこにあるだけに、その解消へと繋がるものと、正反対にそれを芽生えさせるものが、微妙に入り混じった感覚が続く。そんな中に、不安を煽るだけのものが含まれていても、納得してしまうことも多い。データの吟味も、比較も、ごく当然に見えるし、結論の導出も無理なくできているように思える。そんな部分からは、彼らも科学者の一員であり、立派な主張をしていると見られるかも知れない。だが、そこに大きな違いがあることに、気付いて欲しいと思う。彼らの多くは、結論ありきの議論に拘り、数値の扱いや取捨選択も、都合の良い方向に流れる。客観性を第一とされる世界では、結論は数値などの結果から導かれるべきものであり、数値そのものに軽重を付けることは許されない。それを平然と行えば、その資格を失うのは当然で、捏造などの行為に厳しい処分が下されるのは、自らの矜持を保つ為と映る。そんな見方をすれば、巷に溢れる意見の多くが、独善的な判断に基づくものであり、それを尤もらしく見せる為に、本来客観的である筈の数値を、都合良く歪曲した結果である。だが、捏造で騒がれる程、科学の世界も毒されており、矜持を失った人々が現れ、大衆に迎合するかの如く、暴言を吐くようになっているのも事実のようだ。

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12月16日(金)−非科学

 科学者の言動を批判する人々の多くは、その内容が不明確だと感じるようだ。不安から解放される為ではなく、ただ安心を手に入れたいだけの人間にとって、完全な保証のみが重要であり、微々たる可能性でさえ、受け入れ難いものとなる。だが、科学の世界では、様々な要因から可能性を皆無とすることは不可能とされる。
 となれば、彼らの意見を聞く必要は無く、何の根拠もない悲劇的な筋書きや感情的な批判にばかり耳を傾ける。無視された側から見れば、論理性の欠片もない人々に、かける言葉は無く、感情の昂りを抑えきれない人々の怒りは、恐怖としか映らない。報道機関も、冷静な分析を披露した途端に、集中砲火を浴びることとなり、ネット上では炎上することになる。事故後に地上に降り注いだものを、フォールアウトとか降下量と呼ぶが、原水爆の実験が盛んだった頃から、その記録が残されている。その元データは、国の機関が発表しており、週刊誌や新聞で取り上げられている。ある新聞は、これと事故直後の実データを比較する為に、その図上にデータ点を加えたものを発表し、その値の危険度を実験が盛んだった頃とさほど違いないと結論づけたようだ。これが一部の人々の怒りを買い、「ひね○○日記」と名付けられたブログでは、データ比較における巧みな操作により、誤りを指摘したこととされ、「××対策コム」では、非科学的な座標操作をした上で、自らの主張を展開した。こんな代物が巷に出れば、尻馬に乗る人々が出るのは世の常であり、最悪の事故との比較まで登場する始末だ。最悪とされたものでは、同じ単位で一桁以上違う値が発表されており、そのまま比較することには、科学は微塵も感じられないが、この主張の主は、七千キロ程離れた所の値と百キロも離れていない所の値を、平然と比較するという暴挙に出る。これで科学者をやっつけたと思っているのだろうか。

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12月15日(木)−責任転嫁

 年の変わり目、何かと機会を捉えて、集まる会が多くなる。飲むことも増え、時間の使い方も大きく変わってくるが、一時のこととて諦めることが多い。体のことを考えれば、連日の深酒は良い結果を産む筈も無く、適度に抑制をかけながら乗り越えるしかない。楽しい会話の一方で、不平不満の塊となるのも警戒だ。
 飲む機会では、会が長引くことが多い。時間制限をかける店が多くとも、次々とハシゴをしてしまえば、結果的に、長時間の付き合いとなる。都会ならば、様々な交通機関が深夜まで動き、帰宅の足に困ることはないのだろうが、地方では繁華街を除けば、真っ暗となってしまった町を、歩いて帰るのも難しくなる。そんな時に利用するのが、タクシーとなるのもやむを得ない。景気の動きに振り回される業界として、その代表格となる職業では、乗客からの情報もあり、様々な事柄に話題を向けることができる。酔っぱらいを相手の会話では、閉口することも多いだろうが、こんな時に必ず景気に話題を向けることにしている。随分長いこと、悪い話しか聞こえてこなかったが、流石に飲み会が盛んとなる時期には、少しはましになるようだ。ただ、その運転手との会話は、まるでマスコミの誘導に振り回される大衆とのもののようで、下らないものとなってしまった。世の中の悪いことは全て他人のせいであり、自分が関わるとしても、ちっぽけな存在だから無意味と結論づける。典型と思えたのは投票行動であり、たった一票しか無いのだから意味がないとする。では、その一票はどんな思いで入れたのかと問えば、明確な答えは返らず、おそらくここで何度も取り上げたような、魅力に惑わされたものだったようだ。情報の多くは、様々に脚色されたものばかりで、自分の目で見たものより、他人が伝えるものを取り上げる。今の苦境の原因も、自分以外の人々にあるかのように。

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12月14日(水)−作為

 言葉の難しさを実感する機会は多い。何気ない一言が誤解を招き、関係が悪化することがある一方、冷たい言葉に思えたものが、不思議な暖かさを伝えることもある。同じ言葉が、受け取る側により全く違って伝わり、予期せぬ結果を招く。喜ばしいことばかりなら嬉しいが、そうもいかぬことも多々あるようだ。
 何が鍵となるのか、解っていれば備えもできるが、見つからないままに伝えるしかない。相手による違いは、言葉の使い分けを示唆するものの、不特定多数を相手にする場合には、役に立ちそうにもない。そんな中でも、伝達すべき事柄を持てば、正確に伝えることを念じて、言葉を選び出す。そんな作業が当たり前と思う人は、言葉を大切にしていると言えるだろう。誤解を恐れず、独善の弁を続ける人々は、言葉遊びは得意だろうが、大切にするとは言えない。社会全体に、被害妄想の空気が満ちた中では、どんな言葉も真意を失い、勝手な解釈に振り回される。慎重に選び出したとしても、悪い結果しか導けないのであれば、いい加減なままで良しとする、というのでは、発言者の責任は問題外と言うべきか。煽り文句を連ねて来た結果、更なる悪化が導かれ、誤解を招くことを意図したとしか思えぬ、思惑に満ちた言葉が並ぶ。こんな状況で、情報を正しく伝えることは不可能で、当事者は異なる目的を持つ。九ヶ月以上経過した中で、ある意味の安定状態が続くが、それでも悪い情報はもたらされる。それをどう扱うかは、携わる人間の責任だが、Tから始まるテレビ局の記事の見出しには、言語能力の欠如を思わせるものがあった。「汚染水45トン漏れる、海に流出か」とある見出しの報道は、十日程前に放送されたものだが、既にファイルは削除されている。だが、この言葉から伝わるものは何か、どう解釈されるのが当然か、ここで書くまでもない。事実は受け取られた意味とは全く異なり、真っ赤な嘘と言っても良いもので、言葉を道具とする人間がこれでは、情けない限りだ。

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12月13日(火)−選ぶ

 経済の停滞が世界中に広がり、大きな危機が迫り来るように伝えられる。ところが、危機迫る場所に出向いてみると、意外な程の落ち着きと楽観に満ち溢れ、肩透かしを食わされた気分となる。ある元記者の弁によれば、長い年月を費やして築かれた生活の基盤は、強固なもので崩れる筈もないとの感覚らしい。
 ただ、それに継いで、一時の幸福を享受することに躍起となり、先行きの不安に目を向けないことに、大きな問題があるとの指摘をし、最大の問題は政治家の能力不足にあると断じていた。政治家の無能ぶりは、危機が迫る国々で悉く指摘されており、それが最大の原因であることは、おそらく間違いないだろう。しかし、どういう理由で、そんな無能者が政を引き受けることになったのかを、指摘する声は少ない。政治家は、自分がなりたいからなれるものではなく、自分の希望を民衆が受け入れてくれた時に、初めて願いが達成される。その見方からすれば、無能な人間を選んだ方にも責任があり、その点を強調することも重要ではないか。愚民政治と一部で揶揄されることも、こんな考えから出てくることで、甘い言葉に振り回される人々が、次々に欲に駆られた行動を繰り返し、結果として、真っ当な政策を排除して来たことがあり、その牽引役が無能な政治家と呼ばれただけのことなのだ。当事者の責任が重いことを否定するつもりはないが、選ばれし者への批判は、同時に選んだ人間への批判に繋がるべきであり、この所の流れから、表面化している風潮は、所謂無責任体質にあるように思える。何時までこんな状態が続くのか、心配する人も居るだろうが、今のまま進むとすれば、確実に、破滅を迎えねばならないように思える。他人の責任を問うばかりで、自らの役割に目を向けぬ人々は、底知れぬ穴に落ち込み始めて、やっとそのことに気付くのかも知れない。

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12月12日(月)−言論

 言論の自由を謳歌する時代なのだろうか。一部にはそんな雰囲気があるが、実態は大きく違うように思える。自由を保証する場として、無制限な参加を促し、様々な発言を招く。そんな状況から自由を確かなものにしたとする見解もあるが、その一方で、自由な場が一方的な弾圧の舞台と化すことには、目が向けられない。
 言論の自由と言っても、昔の状況は、それに関わる人が一部に限られ、その場を守り抜くことが、活動の中心と思われていた。特権階級などと呼べば、当時の彼らからは大きな反発が届くだろうが、今の時代から見ると、特別な保証としか思えない。種々雑多な人々、特別な能力を持たない人々、そんな人たちの活動の場が、ある時期から提供されるようになり、言論の自由の範囲は爆発的に広がることとなった。その結果、自由を束縛する動きも、予期せぬ方に向かい始め、自由と抑圧が同居する不思議な状態となった。発言の機会を得た人間の一部は、自らの考えを披露する歓びに、自制心さえも失い、暴言を繰り返す。苦言を呈した途端に、同じ傾向を持つ人々が集まり、集団による弾圧を繰り返す。こんな状態になると予想した人は居ないだろうが、現実の世界は深刻な病に取り憑かれている。その症状を更に重くしているのは、本来の言論の場が、同じように自由とは正反対の方に向かっている為で、矜持をも失った人々に、怖いものは無いようだ。言論にとって、その観点だけでなく、論理性が重要であることは当然だが、こんな場ではどちらもが失われていることに、真の問題がある。例えば、証明する必要のない事柄を取り上げ、証明を迫る発言や、保証されたことの無いものを、保証されたと置き換えるなど、冷静な判断からすれば、狂気としか思えない発言が、場の空気を満たし、すっきりとした論理を追い出す。そんな論理性の欠如が、本来の場にまで及ぶのを眺めると、その場に生きる人々の無能と欲深さに呆れるしかない。

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