パンチの独り言

(2011年12月19日〜12月25日)
(土台、戯画、風説、陥穽、初志貫徹、得心、心荒ぶ)



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12月25日(日)−心荒ぶ

 人々の心が荒んでいると感じるのは何故か。ごく普通に過ごしているように見える人々が、いつの間にか「金」に振り回され、詐欺の被害に遭ったり、借金に苦しむ。どちらも被害者なのだから、心が荒れている筈も無い、という意見が出るのも当然だろうが、時に、被害者と思える人々にさえ、そんな雰囲気が漂う。
 ここで言いたいことはただ一つ、「金」に取り憑かれた人々の心は、何処か普通でない感覚が潜み、他人との触れ合いや心遣いに、違和感を覚えることが多くなる。被害を受けた人々の多くは、素直な心の持ち主との解釈が横行するけれど、どうにも無理な筋書きに思える。子供の為に、といった行動に、同情が集まる一方で、子供への信用は何処へ、といった見方が出ないのは、何故なのか。金で解決できれば、という考え方も、責任の取り方への誤解に結びつくし、身勝手な考え方と見えなくもない。こういったものが全て、心の荒びによるものとは言えないかも知れないが、どうもそんな気がしてならない。金銭の多少を天秤にかけ、心が重しにならなくなった人々は、人との交わりに関しても、異常な状態になる。働きたいけど、安い金では無意味と、生活保護を受ける人々を、責める声は少ないが、社会を築くのは誰なのか、彼らの頭を過ることはあるのだろうか。荒んだ心に癒しとなるのが、金銭的な安定だけだとしたら、何とも情けないとしか思えない。本当に困っているのだから、といった声が出るのも解るけれど、人の心のもつ意味は、そんな声とは別の所にある。倫理とか、協調とか、大切なものを失った心は、やはり荒んだとしか表現できない。

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12月24日(土)−得心

 納得という言葉が殺し文句のように使われる。本来の意味は、自分の気持ちを表すものであり、他人への影響を伴わないものだが、今や他への影響の大きさが強調されるばかりとなる。本来ならば、その対象を思い浮かべるべきものも、言葉の強さに酔う人々は、何の根拠も無く使うのだから、始末に負えない。
 他人の考えや提案を否定する為に、納得できるかどうかを基準とする人々が、毎日のように画面に現れる。自慢げに、自分自身の判断の正しさを表すが、殆どの人が何が起きても反対、という主張しか持たない。こんな状況を許しているのは、それを正しいものかの如く扱い、貴重な意見とする連中が居るからだろう。だが、それより根深いと思えるのは、まともな考えをしなくても、得になることは非常識ではない、という狂気にも似た考えをする人が増えたことだ。働くより、保護を受けた方が「得」と主張し、心の悩みが遊興に走らせるなどと、馬鹿げた主張をする人々に、同情の念を抱く必要は何処にあるのか。彼らの頭には、金のことしか無く、どちらが多く手に入れられるか、それを働かずに増やすには、博打に手を出すのが一番、といったことしか無い。保護が有利と言うなら、それを受けさせて、只働きをさせたらどうか、そんな思いまで浮かぶ程、怒りを覚える。増税に反対する人々は、納得を度々口にし、政府の努力不足を批判する。だが、議員を80人減らす効果を論じる時に、年金受給者3700万人余りへの総年金額との比較をすれば、微々たる効果しか期待できないことに気付ける筈だ。年金を千円減らせば、それで370億円の支出減となる。議員の全経費が5億円弱とならないと、この比較は成立しない。下らない比較と断言するのは簡単だが、金のことしか頭に無い人間程、こんなことをしようともしない。納得の言葉は、舞い上がるばかりで、重みは無くなる。

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12月23日(金)−初志貫徹

 確固たる考えを貫くことの難しさが、度々取り上げられる。実際には、正反対の取り上げ方であり、考えの迷走ぶりを伝えるだけだが、その裏側には、ある考えを貫けない人々の苦悩ぶりやら、いい加減さが見え隠れする。前者を際立たせることで同情を買わせ、後者を強調することで反感を買わせるということだ。
 ある世界では、一貫性が何よりも大切とされる。考えの論理性そのものだけでなく、それを持ち続けることの重要性は、確かな考えを持つことの証明として、注目される。そんな世界がある一方、人気取りに走る人々が居座る世界では、次々繰り出される新手、奇手に、大衆は振り回され、猫の目の如く変わり続ける考えに、一喜一憂を繰り返させられる。何事にも賛成と反対があり、その割合が人気取りにとっては重要となる。一貫性は大衆の側にも問題となり、出された手に対して目移りする人々は、考えを定めることができない。移り気で飽きっぽい人々は、人気を欲しがる連中にとって、扱い易さと扱い難さが同居する状態にあり、様子を窺いながら手を出す振りを繰り返す。これは、更なる混乱を招くこととなり、迷走ぶりは酷くなるばかりとなる。一見、一方的な問題に思えたものも、現実には双方に問題があり、互いに支え合いながら、一貫性を破壊する作業に力を注いでいる。他人のせいにするばかりの人たちも、こんな考えを持ってみれば、自分にも責任があるのだと判るかも知れない。でも、人気者を追いかける人には、そんな話を聞く気は毛頭ないだろう。結局、こんな状態が続くだけのことなのかも知れない。

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12月22日(木)−陥穽

 詐欺事件が伝えられる度に、何故と思うことが多い。何故そんなことをするのかと、犯罪者に思いが及ぶのではなく、何故そんなことに騙されたのかと、被害者たちに疑問を抱くのだ。伝え方によるのだろうが、外から見れば余りにも明白な種に、何故それほど簡単に騙されるのか。不思議としか表現できない。
 美味しい話には裏があるとか、調子のいい奴の話は怪しいとか、そんなことを聞いて育った世代にとって、騙されるのは相手より自分が悪い、との思いがある。だが、仲間意識ばかりが強調され、人を疑うことより、信じることの大切さを説かれた世代は、何の疑いも無く騙されるようだ。こういった人々の思慮の無さは、思い込みが先行することから始まり、少しの助言では揺らがないから凄まじい。懲りない連中と呼んでは、心外と思われるかも知れないが、何度も同じような話に乗せられるのを見ると、どうしてもそう呼びたくなる。一方、上の世代にも被害者となってばかりの人々が居る。こちらはどんな心理が働いているのか。おそらく、高度成長を経験した世代にとって、停滞は堪え難いものに映り、自分だけでも抜け出したいと願う。そんなことから抜け駆けを標榜し、簡単に騙されるのではないか。確かに、成長期にはどんな話に乗っても、それなりの成果が得られたものだが、こんな時代にある筈の無い話だ。にも拘らず、依然として同じことを繰り返すのは、やはり思い込みなどの先入観が大きく影響しているに違いない。儲け話で損をするのは、犯罪や事件として伝えられるが、噂話を始めとして、不安を煽る話や極端な内容を信じ込む人々は、犯罪被害に遭う人たちと何ら変わりは無いように思える。凝り固まった頭を解し、冷静な吟味をする気が起きなければ、また騙されるだけのことだ。

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12月21日(水)−風説

 井戸端で噂され、身に覚えのない話題の中心とされる。近所付き合いでは偶にあることだが、一部の悪意が事の成り行きを左右し、肩身の狭い思いをさせられる。小さな悪意から始まった話が、小さな集団に一気に広がり、悪者との認識が定着する。それでも、善意の一言が飛び込めば、救われることも多いものだ。
 あらぬ疑いを向けられた人にとって、震源地となった人間への恨みは、被害の程度に応じて大きくなる。だが、多くの場合、知らぬ存ぜぬを押し通すことで、悪意は無かったかの如く、いつの間にか消えてしまう。社会全体の中で、こんなことが起きた時、最近は冤罪という言葉が屡々使われる。その大元が、公的機関にあることは事実だが、それを広げた張本人は別の所に居る。近所の話と違い、多数の人々を巻き込む為には、巨大な組織が加担しなければ、成立しそうにも無い話だからだ。何度も繰り返されたにも拘らず、いつまでも続くことには、彼ら張本人が、何の反省もせず、依然として同じことをすることが、大きく影響している。公的機関の情報が、ある操作を施されていることに、責任を押し付けようとしても、何度も同じ轍を踏むようでは、話にならないと思う。情報操作が、大元でなされているならまだしも、流された情報の取捨選択において、明らかな失態をしでかすのでは、責任の所在は明らかとなる。ある交通事故は、親子三人の死傷へと繋がり、車の運転手が逮捕されたと伝えられた。当然、加害者の名前が公開されたが、翌日の新聞には、車側の信号が青とある。事故を起こしたことは確かだとしても、この時点でどんな過失があったのかは不明確であり、状況からすれば、名前を出す必要は無い。それでも、悲劇は死傷した側のみにあるかのように伝える姿勢には、冤罪と同じ空気が流れる。何が重要か、彼らの頭の中には、近所の悪意と同じようなものが、溢れているのか。

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12月20日(火)−戯画

 外国人にとって異様に思える光景の一つに、電車の中で漫画を読み耽る人々の姿がある。子供だけでも驚きと思うのに、背広を着た人々が夢中に読む姿には、理解し難いものがあるようだ。これは何も、外国人に限ったことでなく、同じ国に育った人間とても、不思議に思う人は多い。何故、字でなく、絵を追うのかと。
 一時に比べるとその数は減って来たようだが、そこには別の楽しみを見出したから、という理由があるのかも知れない。機械の画面を一心に見つめ、釦を押し続ける姿は、更なる異様さを醸し出している。流石に取り上げる価値もないからか、余り話題にもされないようだ。いずれにしても、文字媒体より、画像媒体を好む傾向は高まるばかりであり、それは別の所へも大きな影響を及ぼし始めた。文字媒体で伝えられた内容が、話題をさらった後に、画像媒体で伝えることで、更なる人気を獲得する。小説の映画化などは、その際たる例として、昔から続けられて来たことだが、最近は事情が徐々に変化しつつある。文字文化自体が衰退しつつあり、依然として活況を呈する漫画文化が、それに取って代わるようになった。動画への変貌は、想像力に見合う形で、現実感を持たせるように、工夫されて来たが、それだけでは満足しない人々が、別の企画に取り組み始めた。実写化と名付けられた変化は、何とも不思議な試みに思えたが、動画への変化とは異なる形で、そこに面白味を感じる人が居るようだ。ただ、動画への移行に続く実写化という手順が、いつの間にか一足飛びに役者が演じるようになると、様子は大きく変化して来たように映る。小説からの変貌と同様に、原作として扱われる漫画には、筋書きとしての面白さが優先され、絵としての面白さは無視される。それだけ、文化らしくなって来たとの評価もあろうが、乱立具合を眺める限り、玉石混淆、話題性のみを謳うものが多いのも事実だろう。

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12月19日(月)−土台

 今が一番と思うことが肝心、と考える若者が増えていると聞く。将来への不安は、膨らむことはあっても、抑えることができないとなれば、そんな先を考えるより、当座の幸福を楽しむことこそが重要となるらしい。問題の核心から目を逸らし、場当たり的な対応に走った結果に思えるが、評価する声もあるようだ。
 先行き不安などという言葉に踊らされている中で、別の見方を導入した意味はあるだろうが、少し考えれば、長続きしそうにもない話に思える。今が一番となれば、悪く見え始めた時に、その後の展開にどんな期待が持てるのか。結局、将来への楽観を言い換えただけのことであり、言葉のすり替えに過ぎないことは明らかだ。そんな遊びに踊らされる方が、不安に苛まれるよりも、遥かにましなことは確かだが、問題の本質はそこにはない。将来とは見えぬのが当然で、それを見通せるとする考え自体が、傲慢で独善に過ぎないことに気付くことこそ、こんな時代に必要なことだろう。その一方で、今の自分があるのは、過去の出来事の積み重ねであることを、もっと認めていいのではないだろうか。家族の歴史や国の歴史に対して、忌み嫌うばかりで目を向けなければ、経験が役立つこともない。歴史認識などと言われるように、各人が独自のものを持てばよく、何が正しく、何が間違っているのか、そんなことに目を向ける必要はない。但し、異論が並んだ中では、それぞれの特徴を見出し、吟味を重ねる必要がある。思慮なく受け容れたり、負い目を感じて謝ったり、といった行動は、一見混乱を収める為に必要に思えるが、現実には正しい判断と言えぬことが多い。歴史を知らぬ人々と呼ばれることが多いものの、現実には自分なりの認識を持つことこそが、こんな時代に必要なのではないか。

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