パンチの独り言

(2011年12月26日〜2012年1月1日)
(危機対応、裏口、roller-coaster、盲従、卑陋、不平等、節目)



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2012年1月1日(日)−節目

 節目に様々なことを思い浮かべるのは、人間の性かも知れない。時が循環することに気付き、それに沿って生活する知恵を身に付けた時、人々はある程度の予測を立て、そこからのずれを測ることで、対策を講じるようになった。確実な生活を営む為に、天変地異もある範囲までは、対応可能となって来た。
 幾ら知恵が付いたとしても、全てに答えを出すことはできない。予測不能な出来事が起きた時、多くの犠牲を出すのもやむを得ないこととして、過ぎたことを振り返るより、先を見据えた行動を起こすようにするのも、一種の知恵と見なせるのかも知れない。だが、こういった窮地では、自然との戦いより、周囲の人間との軋轢の方が、遥かに大きな障害を産み出すように思える。号令一下、整然と動いていた人々が、定まらぬ号令に振り回され、行き先が見えなくなった時、好き勝手な方向への動きが目立ち始める。一度、四散した集団は、それが精神的なものに過ぎないにせよ、再び同じ箱に収まることは無い。混沌は広がるばかりで、収拾がつかなくなることも多い。こんな時代が続けば、人々の心に潜む不安が大きく広がり、混乱は極まることとなるが、これまた時の循環は、こんなことさえ清算してしまう。そんな時期が来るのをじっと待つのは、そこで生きる人々にとって、辛いものにしか映らないのかも知れないが、どうだろう。待つことの大切さは、動きに乱れが生じた時にこそ、感じられることなのだろう。節目毎に、そんなことを思い浮かべながら、喧噪を横目に、自分なりの生き方を貫くことは、難しいけれど、大切なことだろう。

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2011年12月31日(土)−不平等

 役立たずと罵声を飛ばすのも勝手だが、それらの人々を選んだのは誰なのか、考えてみたことがあるのだろうか。そんな意見が出た途端に、自分たちは騙されたのだとする人々は、山のように居る。このような状況は、国内に限られたことでなく、民主主義と目される国は悉く、こんな憂き目に遭っているようだ。
 こんな状態を、一部の人たちは愚民政治と呼ぶ。だが、自らを愚かと呼ばれて、喜ぶ人など居る筈も無く、こんな見解は明らかな誤りと片付けられる。外からは当たり前のように見えることも、こんな遣り取りでは何の答えにも至らない。結局、愚かな判断が繰り返された挙げ句、自分たちの責任は無いとする、そんなことが起きる原因は、何処にあるのか。民主主義の根幹を揺るがす意見は、現代社会では暴言と扱われ、唾棄すべきものとされるだろう。だが、これ程に自分たちのことしか考えられない人に溢れ、泡沫の夢を追うばかりで、将来の問題への取り組みも、過去の問題の清算も行われず、甘い話に乗せられ続けるという社会では、こんな乱暴な提案もあり得るのではないか。この国でも、選挙制度が導入された時代には、全ての民に権利は与えられず、一部の資格を持つ人にのみ、権利が与えられた。平等という言葉に押し切られる形で、こんな偏った制度は排されることとなったが、今の状況は、そんな仕組みの復活をも考えたくなる程、腐れ切ったものとなっているように思える。利他主義とまではいかぬものの、全体主義を標榜する為には、自分しか考えられぬ人間や今しか考えられぬ人間を、排除することこそが意味を成すのではないか。出鱈目で乱暴な考えが、後の時代に当然とされることは多い。平等は全体に行き渡ってこそのことであり、上辺だけで大きな偏りを残したのでは、全く無意味なことにしかならない。不平等を導く平等主義は、こんな問題を抱えていないか。

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12月30日(金)−卑陋

 様々な情報を集めることが大切と、ずっと教えられて来た気がする。確かに、情報を集め、取捨選択をし、その結果から判断を下せば、自分なりの道をつけられる。だが、現実はどうだろうか。溢れる情報に溺れ、玉石混淆に区別をできず、ただオロオロとするばかり、そんな人々が満ちた世界は、混沌の極みか。
 遠く離れた国の出来事だけでなく、近隣の国々の話題が、毎日のように流される。何でも知りたがる人々を相手にするかのように、何が大事で何が瑣末かを見極めず、ただ垂れ流しを続ける。峻別を捨てた結果は、判断基準を失うことへと繋がり、馬鹿げた騒ぎを起こしたり、無駄な心配を募らせる。こんな行動を下らないと切り捨てることは簡単だが、それが国中を挙げた行動となると、どんなものか。国を捨てることへと結びつける人も居るが、それが何の解決にも繋がらないことは明白だろう。重要な順に流される報道が、何故ある人物の死に拘るのか。国の状況に大きな変化が訪れ、不安定要素が高まるから、との説明も、何とも弱々しく聞こえる。何故なら、変化を見極める為に、死を悲しむ人々の姿は、何の意味も成さないからだ。こんな馬鹿げたことを、殊更に取り上げる姿勢に、どんな思惑が潜むのかは分からない。けれど、こちらから見たら下らないとしか思えない報道は、彼の地では、自分たちへの注目とだけ映るだろう。それが、誇り高き人々にとって、何にも増して重要なものだとしたら、これ程有り難いことは無いのではないか。そんなことを考える度に、不安を煽ることに終始する連中の、別の情けない面が浮き彫りとなる。無意味なことを繰り返し、無駄を次々に作り出す。それが経済活動の典型とすれば、経済こそが下らないものとなるのかも知れない。

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12月29日(木)−盲従

 本人にはその気が全く無いのに、周囲から罵声に近い意見がぶつけられる。正しいことを続けている筈が、何処でどう間違ったのか、明らかな誤りのみが浮かび上がるのだ。正論のことを塵のように扱う人々は、この辺りの振る舞いに揺らぐことは無い。だが、その一方で、自らの論の狭隘さに、気付かぬことが多い。
 一つ一つの事柄を捉えれば、どれもまともなことを主張しているように聞こえる。しかし、全体として、一貫性を無くす論理では、他人を説得することはできない。始めに取り上げた人物たちの多くは、自らがそんな穴に落ち込んでいることに気付かず、一貫して同じ筋の話を続けていると考える。それが他の人々にどれほどの悪影響を及ぼしているかに思いが至ることも無く、ただ自らの信じる所を押し切る。こんな人は昔は沢山居たが、その割に影響が広がることは少なかった。何故なら、周囲の人間が自分たちの判断基準を持ち、無理筋を押し通す人々の意見を吟味する力を持っていたからだろう。それに対し、そういった考えを微塵も持たず、吟味すること無く鵜呑みにする人が増えた現代では、この辺りの事情が大きく変貌している。上に立つ人間の狭量さや判断力の低下が、最近では大きく取り上げられ、問題視されているのは事実だが、それより大きな問題と見なければならないのは、下で従う人間たちの、異常な程の従順さと自己判断の欠乏ではないか。こんな状況で、全体としての判断が正しく向かうことは殆ど無く、一度誤った方に向かえば、それを修正することも無く、ただ暴走を繰り返すこととなる。何とも情けないことで、どうにもならないとも思えるが、さて、どんな道が残っているのか。自分たちが関わるものだけに、その人々が気付くしかない。それが無ければ、今と同じままに、誤った指示と盲従による、迷走が続くだけのことだろう。

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12月28日(水)−roller-coaster

 右肩上がりが当然だった頃、成長に疑いを挟む人は少なかっただろう。しかし、下落を経験した後、長く続く停滞を眺める人にとって、成長とは約束されないことと映る。そんな雰囲気が満ちているにも拘らず、伸び率を声高に訴える態度が改まることは無い。安定は停滞へと繋がるとの不安が、大きいからなのか。
 成長著しい新興国も、ある水準に迫ると、その勢いが落ちてくる。何処に線があるのか、迎えてみなければ分からないものの、これは一種の法則のように思える。だが、多くの人々は、その時が来るまで成長を信じて疑わない。これ程明白なことで、何度も経験したにも拘らず、同じ過ちを繰り返すのは、期待が強過ぎる為なのかも知れない。ある素材企業は、食品、医薬関連で堅調な業績を上げている。だが、成長を期待する声に応える為か、成長著しい発電関連分野へと進出し、それまでの堅い商売から、浮かれた商売へと移行した。発電において、様々な問題が取沙汰されたことから、再生可能という言葉が使われるようになり、無尽蔵と言われる太陽光を源とするものは、特に安定的な供給源として、注目されている。導入への最大の障壁は、その価格にあり、それを克服する為に、政治的な動きが急となる。補助金の助けを借りて、続々と導入されたものの、肝心の政府の財政が傾き始めると、伸びは雲散霧消した。特に、ある地域において、印象からしても燦々と照ると思える国々が、凋落の雪崩に巻き込まれたことは、この業界に暗い影を落とす。主要生産国は、その気配を感じても対策を講じず、遂に極限に達する。結果、材料供給は塞き止められ、業績は上昇から下降へと一気に転じる。停滞期に伸びる余地をもつものは、こんな乱高下の憂き目に遭うのが当然だが、それに気付かぬ人々は、いつも渦に巻き込まれる。

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12月27日(火)−裏口

 インターネットの仕組みはどうなっているのか。好き勝手な発言を繰り返す人が放置される一方、様々な発言が削除される。管理者が責任を果たす為に、このような対応を迫られているのかも知れないが、それが場当たり的に見えることが、不思議なのだ。全てを監視する機関があると言われても、現実は分からない。
 是非を確認しながら監視を続ける機関が存在するかどうかは、はっきりとは判らない。国全体を管理下におくような仕組みを持つ所では、そんなことも可能と思われるが、自由が当然と思われる国では、そんな方向には向かっていないように見える。大衆による相互監視の仕組みが、十分に機能していれば、その必要はないといった考えもあるが、最近の動きでは信頼を勝ち取れそうにも無い。となれば、ある程度の監視や記録が必要ということになる。そんな時思い当たるのは、検索エンジン最大手の存在だろう。全てを記録し、検索に役立てる、と言ってしまえば、それだけのことに思えるが、記録しておけば、不正をも記録できる。そのような運用はしていないとの意見があるようだが、記録は記録でしか無く、無くなるものでなければ、何かに使われる可能性はゼロではない。ただ、その為には全ての場所に入り込む必要があり、その足跡は残ってしまう。自らがその監視下にあるかどうかは、それらの訪問記録を見れば分かる筈なのだが、最近、その辺りの事情に変化が見られるような気がする。以前ならば、検索エンジンの訪問も記録として残り、カウント数の変化として見ることができた。しかし、このところ検索では最新の書き込みが記録されているのに、肝心のエンジンの訪問が記録されていないことが続く。どんな道があるのか分からないが、人間の作ったものである限り、抜け道があるということなのだろうか。

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12月26日(月)−危機対応

 危機が迫る中、秩序があり、落ち着いた行動をした人々に、賞賛の声が送られた。その一方で、責任ある立場の人々が、無責任な言動を繰り返し、決断を下せなかったことに、厳しい批判の声が上がる。その比較から、この国の人々の特徴を焙り出そうとする動きがあるが、大誤解の下に進められているように思える。
 確かに、災害時に秩序立てられた行動が、自発的に起こされたことは事実だが、この行動をした人たちと、今世間で騒ぎ立てている人々が、同じだとしたら不思議としか言いようが無い。迫り来る危機に対する強さに比して、先行き不安に対する弱さは、何処から来るものなのか、答えは容易には見出せない。同一人物が、両極端の行動を起こし、それが同じ心理から導き出されたとしても、その心理を理解することは、簡単ではないのだ。もし、前者と後者が全く違う人物が起こした行動だとしたら、そんな悩みは一気に解決できる。前者は、どんな事態に陥ったとしても、自律的な行動を起こせる人であり、直接的な危機管理ができなくとも、何とか生き延びる手立てを見出せる、そんな能力を身に付けている。一方、後者は、後追い行動に終始し、自ら決断することは無い。何故、これらの人々が、危機迫る中で目立たなかったのかは、緊急に作られた秩序に、ただ従ったからだけであり、その秩序が消え失せた後、徐々に綻びが目立ち始めたと言えるのではないか。落ち着いた行動を導き出す人々は、平時に戻りつつある時期には、その存在が徐々に目立たなくなり、恰も居ないかの如くといった状況となる。そんな中で、異常な行動を起こす人々だけが目立つこととなり、異様な状態だけが見えてくる訳だ。こう見ると、後者と責任ある立場の人々が、酷似した行動を起こしていたことが解り、それだけのことか、と飲み込めそうな気がしてくる。

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