パンチの独り言

(2012年1月2日〜1月8日)
(良薬、始まり、立つ瀬、略奪、品位、支え合い、金言)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



1月8日(日)−金言

 言葉の力を信じる人が居る。救いを求める人への力とすれば、このところ実感を持って見つめられている。だが、窮地に追い込まれた人々だけが、その力を感じるのだとしたら、それ以外の境遇にある人は、何とも無様に思えてくる。言葉の真の意味を汲み取れず、身勝手な行動を繰り返すのでは、情けなく思える。
 言葉の力が論じられる時、必ずと言ってもいい程に、大間違いをしでかす人が居る。その力があるかないかは、言葉そのものにあるのであり、その要因は全て、発せられた言葉の中にあるとする考えのことだ。下らない話に力がないのは当然だが、同じ言葉を受け取ったとしても、人それぞれに反応が大きく異なるのは何故か。そんな問題に目を向ける人は、ごく一部に限られる。昔から語り続けられて来た言葉に関して、どんな気持ちが芽生えたか、自分のこととして思い返してみれば、この辺りの事情が少しは理解できるのではないか。若い頃には何も感じられなかった言葉に対し、ある経験の後には、驚く程の感動を覚える。この違いは、言葉そのものにある筈も無く、それを受け止める人間の状態によるものとするしかないのでは。いつかは分かる時が来る、といった表現が度々使われるのも、同じ人間といえども、全く違った反応を示すことが、はっきりと分かっているからなのだ。同じ本を繰り返し読む人々の多くは、その度に違った発見がある悦びを訴える。そこにあるのは、同じ文字の連なりに過ぎず、違いはそれを読み進める人間の心にあるとするのが、当然ではないだろうか。そこに思いを馳せれば、言葉の力が、単に言葉だけによるものではなく、それを取り巻く環境、正しくは、受け止める人間の心情によるものだということになる。とは言っても、所詮、下品な言葉には、そんな力が宿ることもないのだが。

* * * * * * * *

1月7日(土)−支え合い

 癒しとか安心とか、他人から与えられることを望む態度が、露骨に出るようになったのはいつ頃だったか。自分の心の不安定を、誰かが救ってくれる筈と望むことが、必ずしも悪いこととは言えないものの、その態度に違和感を覚えた。何故、自分の問題を自分で片付けられないのか。その原因は何処にあるのか。
 何でも売り物にしてしまう時代には、その特徴を表現する方法が肝心となる。その一つとして、癒しという言葉が多用され、心の救いが得られるような感覚を芽生えさせる。特に、音楽に使われることが多かったが、心がへしゃげた時に聴くという話からは、根本からの解決ではなく、一時しのぎに過ぎないことが見える。その度に新しいものに飛びつく姿勢は、同じ時代に強まっていただけに、この売り口上はいとも容易く受け入れられた。心が弱まるばかりで、救いを求める声に応えたとも言えるが、どちらが先だったのかは分からない。いずれにしても、誰かが手を差し伸べてくれるという期待は、こんな世相と相俟って高まり、一人で立てぬ人間が世に溢れることになる。人間は弱い生き物、との表現も度々目にすることになったが、それが指す内容と現実には、大きな乖離が見える気がした。安心という言葉は、もっと複雑な状況にあり、それを希求する人が居る一方で、不安を好む傾向が高まり、そこに巻き込まれる悲劇こそが、自らの進む道と思う程に見える人々が、不安とは似ても似つかぬ表情を見せて、町を動き回る。何故、こんな事態に陥ったのか、と現状を憂慮する人が居るけれど、その意味は彼らの耳には届かない。他人との関係で社会が成立することは、少しくらいは理解しているのだろうが、相身互いとの思いは皆無ではないか。互いに支え合うという思いがあれば、もっとまともな行動をする気が起こるだろう。社会は、こんな人間をも抱きかかえ、時間の流れに乗らねばならないものなのだ。

* * * * * * * *

1月6日(金)−品位

 品格が話題になる時もあったが、それを保つべき危機に対し、下品な話ばかりが取り上げられ、すっかり忘れ去られることとなった。当初、海外の評価が高いことから、希望の光が覗いたと思う人も出たが、その後は、残飯に群がるハイエナのような人々が続出し、再び、暗闇に落とされた気がしてくる。
 紳士とか高貴な人を表現するのに使うのが常であり、矢鱈に使う必要が無いと言われるが、更なる危機に瀕した時に、どんな態度をとるのかを眺めると、品格や人品といった言葉が、実は市井の人々にも十分に当てはまるものだと思えてくる。そんな中で、金品の要求を高めるだけの人々や金勘定しか頭に浮かばぬ人々には、下品以外の言葉は当てはまらない。卑しいという表現がより適切かもしれないが、そんな言葉の意味など気になる筈もない。日々の生活に追われ、人より如何に楽に生きるかを、常に考えている人にとって、差し伸べられた手には、縋るのが当然という考えしか、浮かばないのではないか。社会の構造において、これらの下賎な人々は、ある程度の割合が居ることは、当然と考えられている。それを無くすことが可能とされた仕組みも、いつの間にか破綻を来たし、競争社会へと変貌し、著しい差を産み始めている。それが適用されて来たこの国は、そんな国々の中で異常な程低い割合しか示さず、不可思議な現象と見られて来た。ここに、品格なる言葉が当てはめられ、他国とは違う感覚に注目したようだが、この手の本の著者が憂いていたように、既に、こんな感覚は失われつつあり、無くした人間が賢かったり、被害者だったりする時代になってしまったようだ。だが、自分だけは違う、と言うことは難しくない。実は、迎合するより、余程気楽なのでは、と思えてくる。

* * * * * * * *

1月5日(木)−略奪

 8万円、これだけの金が財布に入っている人は、どの位の割合居るのだろうか。一度に出せと言われたら、強盗に襲われたような感覚さえしてくるだろう。だが、家族四人で一年間に、となると、さてどんな感覚が過るのか。出すことに変わりは無く、額のみを見れば大きく思える。その通りだけに、こんな見せ方に憤りを覚える。
 正確には収入の多少により、負担が変化することだろうし、消費の形態により、大きく変化しうる話だが、どんな基準によるものか、生命保険会社関連の組織による試算は、500万円程の収入の家庭で、8万円余りの負担増加となった。一日あたりにすると、200円強の負担を大きいと感じるかどうか。確かに、少しでも安い品を、とばかりに売り出し品を買い込む人々を見ると、市販のボトル飲料二本分にも満たない、などとは言い難い。それほど、苦しい生活を強いられている中で、こんな負担増は拒絶の対象となるだろう。だが、そんな行動自体、当然のものとすべきことか、疑問を抱かないのだろうか。全てを平均化してものを考えることは、ある意味危険なことも含まれるが、平均家庭が全てとし、総人口を4で割れば、約3千万世帯となる。8万円をそれに掛ければ、税収増の試算もできる筈だが、これは捕らぬ狸の何とかだろう。2兆4千億円の収入増は捨て難いものの、すっかり忘れられている消費税の徴収率は、こんな時に捨てられる金のように見える。金の計算は、その額が膨大なものになった途端に、訳が分からなくなる、というのは、まさに庶民の抱える問題なのだろうが、それにしても、勝手な計算が勝手に行われ、持論の展開に有利になるように飾り付けられる。数字は単にそれを比較すれば、ごく簡単に理解に結びつくものの筈が、間に人の心理なるものを入れ込むことで、こんなに歪曲できるものかと思えてくる。そりゃ、財布から勝手に引っ張り出されては、たまったものではないけれど。

* * * * * * * *

1月4日(水)−立つ瀬

 指導者交代の年、と言われているようだが、どんな期待が抱かれているのか。持ち上げたり、扱き下ろしたりと、乱高下する評価に、一喜一憂を繰り返すことは、人々を導く役割を負う人にとって、本来あるべき姿ではない。先頭に立って突き進む姿を見せることこそが、指導者の真価を示すことになる筈なのだ。
 選ぶ仕組みがどんな形をとるにせよ、人々の期待が集まり、それに応えるべく選ばれし者たちには、大きな責任を負う。だが、期待に添わぬ結果に、落胆の声を上げるだけでは収まらず、罵声を浴びせ続ける風潮は、負わせた筈の責任まで奪い取る勢いを見せる。こんな状態で、指導者がその責務を果たせる筈も無く、達成を目指した方策も、その殆どが頓挫する結末となる。能力不足などと揶揄する声も聞こえるが、それなら何故、選ぶ段階でその欠陥を見抜けなかったのか、自らの力不足にこそ、問題があるとすべきなのではないか。狂った社会は、自と他の区別が明確となり、どちらの側に立つかで、全く異なる評価を下す。仲間意識は、余りに卑近な例に過ぎないが、こんなことが全てに当てはめられる程、偏見に満ち溢れた考えが、当然の如く扱われる。国を単位とするものも、それより小さな組織を単位とするものも、何を目標とするのか、今一度考えてみた方が良いのではないか。甘い言葉に誘われ、騙されることは、日々の生活でも起きることだが、選ぶ段階では、更にその傾向が強まる。約束を果たさないことは、よくあることと流せた時代と異なり、あらゆることに細かく、厳しい基準が設けられることとなった挙げ句、動きがとれなくなったのは、指導者の問題ではなく、庶民が抱える問題なのではないか。愚かさが露呈するより、批判を続ける方が楽とばかりに、文句を並べる人々も、所詮、自らの責任を考えられないだけのこと。自分が立つ場所を、きちんと見つめるべきだろう。

* * * * * * * *

1月3日(火)−始まり

 新しいことを始めるのに良い時期と言われるが、それが何時まで続くかは人それぞれだろう。別に、続かなくても良いという考えもあれば、継続こそ力なりという意見もある。どちらにしても構わないことで、各人が自分のことをどう思うかだけが肝心なのだろう。それにしても、やることは一杯あり、無くなることは無い。
 流行っているからやるというのも、人がやっていないからやるというのもある。いずれにしても、やりたいことをやれば良いだけのことで、誰かに押し付けられてやることは無い。一年の計は、とばかりに、既に何かを始めた人が居るかも知れないが、何時まで続くかは、誰にも分からない。要するに、本人次第のことだけれど、その本人でさえ、何時まで続くか知る筈も無い。始める時に止める時を決めておく人がいるのかどうか分からないが、多くの場合は、始めておいて後は続く限りとなるのではないか。まあ、そんなことはどうでも良い。何を始め、何を止めるか、本人以外に何の意味も無い。ここはそんな時期に始まった所ではないけれど、まだ十年にはならない。まだがもうとなり、やっとがいつの間にかとなる。どんなことでも続けば良いが、いつかは止める時も来る。まだなのか、もうなのか、まだ何も決まっていないが、はて、どうなることやら。ブツブツ書くのも、こんなことでは、読んでも無駄というものか。では、この辺で。

* * * * * * * *

1月2日(月)−良薬

 世の中で流布されている意見と違うことを言えば、当然厳しい言葉を突きつけられる。皆の言うことと違う、という意見はその典型だろうが、皆と同じであれば、それだけで良いのだろうか。そんなことを思いながら、独り言として、異質な考えを披露して来ているが、それが急に広がることなど望んではいない。
 苦言を呈するという表現も、苦しい言葉という意味ではなく、苦い言葉という意味だろうから、当然受ける側には耳の痛い話が多い。折角楽しい気分でいるのに、引き摺り降ろされるのでは、誰だっていい気持ちはしないだろう。ただ、厭な思いをさせる為の意見は、出す側も余り良い気はしない。幸いに、この頃の社会は楽しい気分で突き進む空気は無く、どれだけ不幸か、どれだけ大きな不安が漂うか、そんなことの競い合いが強まるばかりだから、反論もどちらかと言えば、嫌われるものというより、救いになるかも知れないものとなる。救いの言葉を求める人たちにとって、こんな意見は役に立つ筈だが、どうもそう簡単にはなりそうにも無い。被害者であることを重視する動きにとって、そこから救われることは、必ずしも歓迎には結びつかない。もしかしたら、そんな考えがあるのかと思える程、正しい考えや論理は賛同を得られない。しかし、漱石ではないが、馬鹿げた流れに棹を差したくもなる。急に広がることは、更なる愚行の繰り返しになる筈で、もっとじっくり考えた上で、賛同が得られるのなら良い。まあ、ここまで判断力も思考力も失い、欲望のみが残ってしまった人々が溢れた社会では、声が届かぬとも不思議は無い。

(since 2002/4/3)