本を読め、と大人に言われたことのある人は多いと思う。それを実践し、育った人々が居る一方、そんな声を無視し、子供の楽しみに耽った人も居る。そのまま、文字を追うことの無い人生を送る人も居れば、いつの間にか、活字を追いかける時間が増える人も居る。人生とは所詮こんなもの、なのかも知れぬ。
本を読むことの大切さは、大人たちの間では当然のものとされて来た。だが、最近の傾向は、少しずつ変わって来ているのかも知れない。ただ、書籍の売り上げが落ちたからと言って、読む人の数が同様に激減したかと言えば、そうでもないらしい。自分で買うことが減っても、何処かで借りる人は減らず、また古書の売れ行きは中々のものだからだ。金銭的な余裕の無かった時代には、図書館や古書店が賑わうことが当然だろうが、今の時代、それと同様の状態とは、少し信じ難い思いが残る。何かしら、心の持ちように変化が起きたのだろうが、どうしたものか。文字が発明され、それによる継承が可能となった時、口伝によるだけだった知識が、その裾野を大きく広げた。伝えなければならないものだけでなく、楽しみさえも伝えるようになり、識字率の上昇に従い、対象は増えるばかりだったが、最近の傾向は少し違うだろう。そんな中で読書の有用性は、強調されることは有っても、否定されることは殆ど無かった。だが、読む行為とはどんなものか、といった話は触れられること無く、ただ、読むことの大切さだけが訴えられる。そこに、違和感を覚えた人も居るだろうが、勧める人々には、そんな感覚もない。そんなことに無理矢理引き込まれたとしても、何の役にも立たず、頓挫してしまうこととなる。時期が来ていなかったのだと思えばいいが、不向きだと思ったら、二度と触れることも無い。そんな気持ちを抱きながら、勧めを裏切り、活字から離れた時代、何も思わなかったが、いつの間にか、触れ合う時間が増えた。そんな経験から思い当たるのは、読むこととは、ただ受け入れるだけではなく、自ら働きかけることが含まれる、ということだ。ここに大きな違いがあることは、あの昔には気付かなかった。そんなつまらない時間に、魅力を感じるのは無理というものだ。そんなことを感じつつ、最近の読書事情を眺めると、新聞書評の勧めの杜撰さに、呆れることが多い。話題を集めるだけで、何も残らないものに、注目する感性に違和感を覚える。
自分の弱点を知ることは大切だが、それを克服しようとする余り、時間の使い方を誤り、自らの長所を伸ばし忘れては、何にもならないのではないか。そんな当たり前のこと、と呟くのも良いけれど、この国の趨勢はまさにそちらに向かうものとなっている。そんな病気が有識者にまで感染しているのだろうか。
何度か書いたように思うが、この国の教育制度の特徴の一つに、母語で高等教育を受けられることがある。そんな環境に育った人間は、その優位性に目を向けることも無く、ただ単にそんなものという意識しか無い。その代わりに表面化するのは、国際化に立ち後れるという弱点であり、意思疎通に難儀する部分のみに意識が集まる。だが、話が通じる前に、どんな話が出来るのか、という問題を考えて欲しい。知識も含め、様々なことを考える為には、それなりの思考力が必要となる。それをどんな言語で行うかは、それぞれの育った環境により、多くの場合は母語で進めることとなる。そうなった時、高等教育をどの言語で学んだかは、実は大きな影響を及ぼしかねない。母語とは異なる言語で受けた場合、人によるかも知れないが、言語変換を行いつつ進める必要があり、違和感を抱きながらの思考となる。それでも通用する場面は多いとは言え、極める必要が出る場面では、不満が残ることもある。考えを的確に表現しきれない言語能力の問題は、別の不満を生じるのかも知れないが、無い所には何も芽生えない。その部分を棚にあげ、思考能力不足のままに言語能力を伸ばしても、不満は膨らみ続けるだけであり、目の前の壁は高く聳えたままとなる。本当に意味を成す思考さえあれば、後はじっくり時間をかけてでも、相手に伝えることだけが残る。無意味な思考ばかりでは、何も始まらないことに、もっと意識を向ける必要がある。
国の間の移動が簡単になり、境が無くなったと言われる所もある。互いに自分たちのやり方や規則を守れば済んだ話が、何時の頃からか、相互理解が求められるようになる。主体性のある者同士であれば、相互の歩み寄りが見られる筈だが、この国で屡々見られるのは、一方的な受容や譲歩であり、偏向が著しい。
国際化やグローバル化といった言葉が多用されるのは、そんな背景からすると、かなり警戒せねばならない状態にあると見えるが、当事者たちは依然として追いつけ追い越せの気分を失わず、山積する問題に、一面的な取り組みを進める。他国の制度をそのままに取り入れれば、同じ基準によるものと見なせ、如何にも確実な道を示したように思える。だが、競争という状況の中で、基準が同一だからといって、優位な立場に立てる筈も無く、自らの独自性を捨てることで、失うものの方が遥かに多く、大きいという見方もある。そこにあるべき姿に関して、主体性を無くした中での検討は、本質的な要素を見失う可能性が高い。制度とは、所詮表面的なものであり、本質的なことがそれにより左右されることは無い、と主張する人々も居るが、主体性や独自性を失う中で、そんな主張が意味を持つとは思えない。有利な点を強調し、不利な点を覆い隠す形で、何とか、自らの主張を押し通そうとするあまり、複雑怪奇な論理を振り回し、単純な考え方を避ける。高尚と思える論も、こんな背景では、その意味を成すことも無く、頓挫する可能性が高まるばかりだろう。自分たちがあるべき姿や、すべき事柄などを、確実に理解した上で、今現在の環境下で、成すべきことは何かを考えることこそ、複雑に入り組んだ関係の中で、活躍する為に必要なことではないか。制度ばかりを弄くり回し、それにより振り回される次代を担う人材は、育つどころか、腐る心配さえある。まあ、自分の立場さえ守れば良いと思う人間には、こんなことは口先だけの問題なのだろうが。
実害が無いのに騒ぎ立てる。そんな行動を、昔は見て見ぬふりをしていた。被害に遭ったのならまだしも、何の損害も生じていないのに、何故と思いつつ、その人の行動を遠巻きにするだけだった。ところが、何時頃からか、行動様式に変化が見えて来た。被害が無くとも騒ぐのだから、大事に違いない、とでも言うように。
二極化はこんな所にも大きく影を落とし、被害と加害の区別を明確にしようとする。害がないのに、何故そんなことをするのか。意味不明にしか思えなかったことが、最近は有意義な行動として、大きな評価を受けているかの如くの印象を与える。冷静に眺める立場からすると、まずは粘り強く火をつけることから始め、中々火がつかない湿った薪を、何度も種火にさらすことで、ぶすぶすと煙を立てることへと繋げる。一度煙が起これば、後はこちらのものとばかり、更なる種火を投げ込み、少しの変化を大きく見せることで、騒ぎは想定通りの大きさへと結びつく。そこまで行けば、思い描いた通りに被害と加害が明確となり、無かった筈の被害そのものでさえ、いつの間にか有ったかの如くの話になる。そんな展開を冷静に眺めれば、馬鹿げた創作としか見えないものだが、渦中の人々は如何にも真剣な雰囲気を漂わせ、真実を訴えようとする表情を見せる。こういった行動の根底にあるのは、被害と加害の区別への拘りもあろうが、最も大きなことは、被害者の利用価値にありそうに思える。被害者さえ出来れば、その後の展開は容易であり、その保護を前面に出すことで、正義の味方を演じることが出来る。悪事が懲らしめてこその正義が、火をわざわざ起こしてから発揮されるものとなれば、自作自演と言われても仕方ない。だが、社会全体がこういった傾向を示し始めると、こんなことを冷静に眺める人より、一緒になって舞台に上がる方が、遥かに面白く思えるのだろう。いつの間にやら、そんな騒ぎの輪に加わる人が、増えてしまったのではないか。どんな良いことがあるのか、こちらにはさっぱり見えてこないのだが。
経済の低迷が問題となるが、自分の所の改善を急げば、何とかなると信じて、それに務めて来た人も多い。だが、安定的な成長を誇っていた国々が、次々に悪化へと転じるのを見て、どうしたものかと思えてくる。一方的な成長や揺るぎない安定が有り得ないことが明らかとなっても、まだ足らない部分があるようだ。
成長が止まり、安定を超えて、下降へと繋がる時期に、外に活路を見出すのは、戦略の一つとなり得る。しかし、より豊かな国々を対象とし、様々な付加価値を前面に出して、利益を上げていた時代と異なり、下降期に入った時期には、市場の多くは、より貧しい国へと移っていた。そこでは、付加価値より、低価格が要求され、薄利多売が強いられることとなる。輸出入において、為替の変動の影響が大きいことは、以前から何度も指摘されているが、薄利への影響はより大きくなると思える。だから、という訳でもあるまいが、経済停滞が全体に広がる中で、原因不明と言われる相場における価値の高さが、重い足枷となっていることが、強調される。だが、経済格差が大きい国の間での取引は、以前であれば、原材料を手に入れる為だけに限られ、製品を売る対象としてこなかったのが、こんな状況に変わって来たのを眺めると、そういった取引形態に、無理があることが露呈している。安い労賃を頼りにすれば、現地生産が最大の節約法に思え、そちらへの転換が当然と思えるが、依然として、国の間の取引を続ける。そこには、他の国に製品を売ることで利益を上げ、成長を続けて来た国の拘りがあるのだろうが、全体の停滞が露になってくると、企業自体は、現地での活動へと移行し、自国では内需を対象とするようにしないと、安定を目指せなくなるのではないか。人口減少の最中、そんなことは無理との声もあるが、下らない変動に巻き込まれるより、不安要素は少なくなるように思えるが、どうだろう。
嘘の情報が垂れ流され、それによって騙された人が居る、と言って騒ぎ立てる。騙された側から見れば、騙そうとした人間の罪を追求したいとのことだ。だが、人の話を信じるかどうか、こういった人々は考えたのだろうか。目の前に居る人間の話を信じるかどうかは、その人に対する信用によるのではないか。
目の前に居れば、そういった判断を下せるが、画面の向こうでは、判断が出来ない。そんな理由を出す人々は、騙されたときの反応として、判断が出来ないのだから、保証をして欲しいといった意見を出す。一見まともな考え方のように見えるが、その実、自らの判断を投げ捨てていることに、気がついていないのではないか。最近の傾向で、自分の判断より、他人の判断を優先させる人が、増えているように思えるが、こういった人間の存在が、様々な危険を産み出すことに、もっと大きな警鐘を鳴らすべきではないだろうか。集団による暴動や、異常行動の多くは、この手の人々の割合が、大きく影響している。後になれば、その異常さに気付く人々も、渦中にある時には、疑いが芽生えたとしても、それを押さえ付けてまで、異常な動きを続ける。他人任せの社会が構築され、自己責任との言葉はその力を失う。言葉だけは残るものの、意味を成さないだけに、結果としては、悪い方にしか働かない。情報の信頼性に関して、自ら吟味する気の無い人々は、その結果として、被害に遭ったとしても、仕方ないと片付けるべきではないか。こんなことを、ここまで騒ぎ立てること自体、社会の腐敗が進んでいる証左であり、その中心となる組織が、情報伝達を役目とすることが、更に問題を悪化させる兆候を見せる。嘘を流す人間を糾弾するより、それを流す媒体が持つ性格を、もっと追求することこそ、情報を扱う人々の役割に違いない。
批判する側の有利は揺るぎそうにもない。自分の得意な土俵を整え、持論を展開し、批判的結論へと導く。誰が見ても、勝負は始めからついていて、同じ土俵上での反論の多くは、その効力を失う。前提は、その殆どが強い偏りを示し、結論ありきのものに見える。その場での議論は、見物する側からすれば、無駄にしかならない。
降壇した人々は、壇上にあった時の行状に対して、様々な批判を受ける。順風満帆であることは無く、多くの波を受けて来ただけに、その対応だけでも、批判の種は幾らでもある。最近読んだ本でも、指導者とかリーダーとか呼ばれる人々の資質に触れるものがあったが、昔からの形に拘るもので、今風に思えぬ考えに溢れていた。歴史に学ぶことを強調するのは、繰り返しが多いことからも、当然の考えと思えるのだろうが、それにしても、これ程の硬直が何故、と思えるのはどうしたことか。リーダーたるもの、前線に顔を出すものではなく、本陣に留まり、指令を出すべきとの考えは、それ自体が間違いとは思えない。しかし、前線からの情報が混乱し、判断基準が揺らいだ時、どんな対応をすべきか、この手の考えに固執する人々は、思いを致すことがない。指導者の責任にしか考えが及ばず、その原因を明らかにしようとする人々は、多くの場合、彼らの資質へと考えを導く。しかし、本来の形から考えれば、リーダーを補佐する形で、参謀たる人々が居る訳で、彼らの存在を無視して戦略を論じることは、的外れの議論に陥るのではないか。最近特に問題となっているのは、頂点の存在にばかり注目が集まり、体制を論じることが無いことで、そんな環境下で責任の所在を論じても、何の意味も無いように思える。体制を整えるのも指導者の責務、と言えばその通りであり、その責任も、という論理にしても、そこに触れてこそ意味が出てくる。知らぬままに、批判の声を高めるのは、自らの無知を曝け出すようなものだ。