パンチの独り言

(2012年1月23日〜1月29日)
(逸脱、対照、変化、国際、愚蒙、大多数、確率)



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1月29日(日)−確率

 確率の話は分かり難い、と思う人は多い。皆に分かる数字なのに、その意味が一定しないからではないか。例えば、発病率の話があるとする。集団の中でどの位の割合が発病するかを表すものだが、発病した人にとってその率は最大値の1となり、他人がどうであれ、変えられない。立場による違いは、理解を妨げる。
 分かり難くする要素は他にもある。ある事象が起きる確率が示された時、その事象が起きてしまうと、その確率はどう変化するのか。そんなことに思いを馳せると、話が分からなくなる。十円玉の表か裏か、を思い出せばすぐに分かるように、その場の確率は履歴とは無関係に決まる。毎回、袋から出しては戻しを繰り返す場合の確率は、こんな具合に決まるが、袋にあるものを出し続ける場合には、変化を繰り返す。そんな場合分けも、学校で習った頃に無理矢理覚えたものだが、現実ではどちらが当てはまるか決められない話ばかりとなる。いずれにしても、確率の数字は困った存在となる。大地震が起きた後、大きな歪みが生じたからか、地震の頻度が増えたように感じる。そんな思いを裏付けるように、学者たちは将来の確率を修正する話を始めた。学問的には、様々な可能性があり、それらを論じつつ、持論を展開するのだろうが、結論のみを取り上げる人々は、騒ぎを大きくし始めた。数字の独り歩きは、こんな時に便利な道具であり、それに付随する説明は、それぞれの思惑に従って変化する。恐怖を何とか押し込めた人々に、こんな話が心穏やかに聞ける筈も無く、やっと落ち着いた心に波風が立つ。それを煽るような話をする人には、別の考えがあるのだろうか。だが、不安に苛まれるしかない、と思うのは無駄だろう。起きることを心配するより、起きた後のことを考えておくことが、余程重要だということは、ついこの間のことで分かった筈ではないか。ああしてこうして、そんなことを考えておけば、不安の種も膨らまない。

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1月28日(土)−大多数

 ほんの一握りの人々が、大部分の富を手にする。そんな社会の問題が取り上げられ、重大な課題として扱われる。大多数の貧しい人間にとって、自分たちの境遇が一握りの人々によって作り上げられたものであり、その仕組みを打ち壊すことが大きな目標となる。一見当然とも思える展開に、何処か腑に落ちない雰囲気が漂う。
 自由であり、資本主義が続く社会では、こういった不均衡は当然のものではないか。長く続いた制度の下で、人々はそれぞれに小さな不満を持ちつつも、何とか自分の暮らしを保って来た。それがここに来て、破綻を来すように見えているのは何故か。資本主義そのものが抱える問題、との指摘もあるけれど、何がどう極まって来たのか、今一つ見えてこないように思える。仕組みの問題という考え方は、常に失ってはならないものに違いないが、一方で、それ以外の原因を探る努力も必要となる。現時点で、何かを指摘することは難しいものの、徐々に変貌を来したものを探してみると、そこに人々の考え方があるように見える。倫理観、という括りが適切かどうか、定かではないものの、このところ頻繁に指摘されているのは、社会の構成員が、社会に属する感覚より、個人としての利害を最優先に考える傾向の高まりであり、学者が指摘する点も、その辺りに集中しているように見える。他の原因に思い当たらないことが大きな理由だろうが、確かに、周囲の人間を眺めていても、そんな雰囲気が感じられる。自由が基本となる社会では、そういった選択も妨げられること無く、極端に走っても、法を犯さぬ限り問題とならない。だから、その範囲内であれば、何をしても構わない、といった考え方が蔓延ったのだろうか。そんなに簡単な問題ではないだろうが、こんなことしか思い当たらない。ただ、この指摘の持つ重大な問題は、その解決手法が見出せないことにある。

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1月27日(金)−愚蒙

 箱物とは、入れ物だけで中身の無い、無駄遣いの典型として揶揄されるもので、見かけ倒しという意味では、まるで張り子の虎のようである。政策において最も重要なものは、予算の配分という思い込みが、表面化したものだろうが、何の進展も無いのに箱だけが残ることで、恥曝しが続くことは痛々しく感じられる。
 目に見える形のものだけで、中身の無いことへの批判は強いが、それに加えて、最近は制度や仕組みなどの形ばかりが整えられ、実質的な運用が叶わぬものが増え、批判の的になりつつある。箱という実物が無いだけに、熱が冷めた後には何も残らず、馬鹿げた行状が消し飛んでしまうことから、やり逃げが見過ごされる。だが、愚策に振り回される人々は、その度に被害に遭い、下らぬ出費だけでなく、時間の無駄も著しい。政治家の様々な思いつきは、こんな場面で批判の対象となるが、その背後には官僚の存在が見え隠れする。所詮、永田町や霞ヶ関で作り上げられる、筋書きに沿った形の展開であり、想定外との言葉で片付けられるだけのことだが、その浅はかさに呆れ返る。対岸の火事を眺めるが如くの絵面だが、社会の荒廃はこんな所にも及んでいるのか、最高学府に属する人々の、制度への梃入れに注目が集まる。国際化の典型と見なされる動きに、支持が集まっているように見える割に、どんな展開が予想されるのか、全く見えて来ていない。見えないものへの不安が、様々に取り上げられる一方で、こんな所では、見えないものへの期待が話題になるのだから、腐った世の中は理解の対象とはなり得ぬ。始めてしまえば走り続けるしか無く、何か起きる度に、付け焼き刃に似た方策が講じられる。箱物が暫く後に廃墟と化すのと違い、制度は次々に繰り出される新手に助けられ、生き延びることとなる。改善が繰り返されたとしても、元が悪ければ、単なる厚化粧としかならない。こんな事態に陥って、頭の良い人たちは何を思うつもりだろう。

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1月26日(木)−国際

 国際という言葉が踊っている。その意味が何なのか分からぬままに、使う人々が沢山居て、その行動自体に首を傾げる。だが、長い期間閉ざされた仕組みを維持し、孤立を貫いた国に生まれた人々は、その意味が何か分からなくとも、貴重なものと飛びつく習性を持つようだ。情けない姿と見えなくないか。
 国を跨いだ形のものがそれにあたるのか、それとも不特定多数の国々が集まった中での何らかの活動を指すのか、いずれにしても、人それぞれに受け取る意味は違うだろう。だが、多彩な意味が漂う中で、恰も決まった方に向かってるかの如くの扱いには、どんな意図が潜んでいるのか。開国後、輸出を主体とした貿易により、成長を続けて来たが、その収支が赤字になったとの報道があるくらい、状況の変化は著しい。国際的な活躍は、そんな中で続けられて来たものだが、そこに翳りを感じたせいか、改めて国際という言葉を強調する気運が盛り上がっているのだろう。だが、その対象の絞り込みは不十分で、論拠は脆弱なものばかりに見える。自分たちの成果に不満が残り、足らない部分を補おうとする行動は、ごく当然として扱われるが、その実、それが自分に向けたものではなく、人生の後輩たちに向けたものだけに、何だか歪んだものにしか見えない。環境を整え、そこで能力を伸ばせば、新たな才能が芽生えるという期待は、如何にもありそうに見えるものの、現実はそれほど甘くはない。この問題が視野狭窄と思えるのは、上手くいく話ばかりを優先し、どんな障害が生じるかに誰も目を向けない点だろう。たとえ向けたとしても、些末なものばかりで、本質的な所へは向かない。そんな表層的で軽薄な考えが、国際という言葉を付けただけで、重みを増すように思うのは、やはりこの国の特徴の一つなのかも知れない。

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1月25日(水)−変化

 数字は客観化の為に重要と言われて、反対する人は居ないだろう。数字は誰が見ても同じものであり、文章の言葉のように受け手によって微妙に変化することは無い。そこから数字を細工して、様々な見せ方を工夫する。それによって、数字そのものの意味は変わらずとも、そこから導き出される結論が変えられる。
 これでは連日同じ話を聞かされている、と思う人も居るだろうが、ここから少し変化を施す。数字に比較が重要と指摘して来たが、そこで使われる比較の中でも、変化率が最も分かり易く、比べ易いものではないか。変化の状況を眺めれば、その事柄がどんな変遷を辿ったかも理解でき、今後の予測を立てる助けとなる。それぞれの変化からは、その時々の背景から、どのような影響を受けたのかが見出され、次の対策への端緒となる。そんな具合に様々に利用される変化と変化率だが、その基礎となる変動がどのような性質をもつのか、殆ど考えられないままに、数字だけが独り歩きしている場合が多いのは、問題と言えるのではないか。例えば、自然界には負の数値は無く、人間が仮想的に考え出したものと言われるが、零に限りなく近づいた時、変化が見えなくなることに気付かずに、大層な議論が行われることが多い。また、成長率などといった言葉が使われる時に、それが永遠に続くという前提が、いつの間にか入れられることがある。明確に示すこと無く、隠れた前提としておかれる場合が多いだけに、受け手が気付くことも少ない。少し専門的になるが、線形性の問題も、まともに扱われていない。それが一定率で増えるものか、倍々となるような性質のものか、目を向けること無く議論が続く。人間の能力は、単純なものを理解する程度に留まるだけに、複雑な背景を単純化し、様々な前提をおくことで、結論を分かり易いものにすることも、多用されることだろう。そんな操作を施された数字に、どんな意味が残るのか、注意した方が良さそうだ。

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1月24日(火)−対照

 数字を見て驚き、不安になる。こんな行動が何度引き起こされたのだろう。その度に、不安に苛まれ、落ち込んだ気持ちのままに、日々の暮らしを続ける。後になると不思議にしか思えない行動も、その場では切羽詰まったものであり、他のことを思うゆとりも無い。こんな時、多くの人は、不安を解消する手立てを求める。
 当然の成り行きと思う人も居るだろうが、この展開に首を傾げたくなる思いがある。不安に落ち込んだときの典型的な行動様式、といった見方もあるのだろうが、落ち込みの原因に目が向けられていない。始めに書いたように、そこでは数字が大きな役割を担い、見る者に強い印象を与える。多くの場合、全ての数字がずらっと並んだ場面より、その中で一部に光を当てたものの方が、効果を挙げると言われる。数値はそれ自体に意味があると受け取る人も多いだろうが、実際には比較することで意味が出てくるものの方が遥かに多い。変化を見出そうとする動きが常に必要とされるのも、比較が基本となるからだろう。冷静な分析では、様々な方向から比較を繰り返し、その結果を総合的に判断する。ただ、それを目の前で行われると、多くの数字に目が奪われ、判断への道程を理解することは難しい。その為、結果のみを示し、強い印象を与えることとなるが、そこに作為が持ち込まれたとしても、最終結果のみからでは、それを見抜くことは難しい。分かり易くする為の手立てと言われるものの多くは、誠実な手順を追っていけば、何の問題も生じないのだろうが、少しでも思惑に基づく手順が持ち込まれると、そこには全く違う結論が現れることもある。比較さえあれば、客観的な判断が下せると思うのも、実は大きな落とし穴があり、比較されるべき数値が、どんな処理がなされたものかによる場合もある。生の数字の重要性を強調しても、その扱いの難しさを考慮に入れれば、直接触れることは難しく思える。となれば、ある程度の作為が入るにせよ、何らかの処理をしたものを見るしか無い。最小限の処理と比較、そんなことが必要不可欠なのだろう。

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1月23日(月)−逸脱

 冷静に事実を伝える。その役割は重要だったのだが、ただ一つ大きな欠点が有った。右から左へ事実を伝えるだけでは、自らの存在を示す楽しみが無い、というのだ。そこで登場した人々は、理解し難い事柄を丁寧に説明したり、事実に関わることだけでなく背景に言及したり、様々な工夫を施して来た。
 始めは事実を伝えるだけだった役割に、新たな飾りを付けることが許されると、挙ってそちらへの展開へと進む。報道姿勢は、活字や音声で訴えるものより、画像で訴えるものに大きな変化が生じて来た。だが、それが当たり前のこととなると、自らの存在は平凡なものに見え、新たな特徴を加える努力が進められる。丁寧さや背景の広さといった方向への工夫は、地味な展開にしか思えず、画期的な大転回とするには、思い切った決断が必要となったのだろう。事実を伝える中で、様々な脚色を施す工夫が加えられ、説明などに事実と無関係な事柄や、全く方向違いのものが加えられることとなった。面白い展開と言えばその通りだが、これも遠慮勝ちに行われていた内は、何の問題も生じなかったが、脚色の技術を競うようになると、いつの間にか、事実と異なる話を付け加え、心理的な衝撃を高める工夫に、力が集中されるようになった。詐欺紛いと言われる煽りの姿勢が目立ち始めたのは、そんな時期なのではないか。心理的不安を高め、様々な心配を生じさせる。冷静な事実の伝達だけでは、その展開は受け手の想像力に任されるのみだったのが、それを導く為の展開までもが伝達の中に含まれることとなる。世論を導く役割とまで、自分たちの役割を自負するようになると、何とも奢り高ぶった考えなのか、と思えてくる。全国規模の試験制度での問題が明らかにされた時、実害の無い所に被害者を生まれさせるような扱い方をしたり、汚染の広がりが明らかになる度に、その後の展開を悲劇的な筋書きに沿わせようとしたり、事実を伝える役割はすっかり影を潜め、自分たちの思惑に結びつく脚色を、巧みに交えようとする。目を向ける価値は無いと思う。

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