傀儡と揶揄される人々は、誰かの言いなりになる行動が目立ち、自主性の無さを批判される。力を握る人の傍らに居る姿には、信念が欠片も感じられず、同情の余地がないとされる。その一方で、自らの信じる所を主張し、反論を前にしても怯むこと無く挑む姿勢を示す人々も、一部から厳しく批判される。
世論という存在は、何かしら特別なものとして扱われ、民主主義の核として尊重される。本来の意味からすれば、多数であるかを論じるだけでは駄目な筈だが、極論を信じる人々は多数を是とするようだ。その勢いは、論理的な筋立てによらず、感情的な流れによることが多く、議論の余地は著しく小さい。その中で、大勢に従わず、自らの信じることを展開する人々は、異端として厳しい批判の矢にさらされる。その論の正しさが検証されること無く、罵声を浴びせられる姿には、民主主義の光は差し込んでいない。冷静な判断を下す力が、民衆に備わっているかの議論もあるが、迎合主義の台頭から、そんな吟味は忘れ去られたように映る。こんな状況下で、まともな意見交換が可能とは思えないが、その機会を捨ててしまっては、秩序を自ら失うことになる。駄目元は言い過ぎとしても、繰り返し正論を突きつけることで、相手の変心を待つしか無い。元々、論理的判断力を欠く人々には、どんな言葉も意味を成さないが、恐怖や不安から、冷静さを失っただけの人々には、正しい論理が届くことは可能だろう。その日を信じて、持論を展開し続ける人に、支援が届くことはあるのだろうか。ただ、この展開はよく見ると、狂気の沙汰の曲論を展開することで批判を受ける人と、時流に逆らう正論を展開することで批判を受ける人を、ごた混ぜにしかねない危険性を孕むことが分かる。要するに、正誤の吟味が始めに来ないと、いけないわけだ。
了見の無さを憂う声は、ずっと昔からある。分別の無さはいつの時代でも問題とされ、子供じみた行動に冷たい視線を浴びせるのも、そんなことの一つだったのだろう。確かに人間としての判断が、自己中心的なものか、周囲への配慮を含めたものか、それだけでも大きな違いを産む。人間の考えが変化していない証左だろうか。
この違いを狭い、広いと評することもあるが、思慮の幅は単に心の問題だけではなく、視野、視界の広さの違いからも来る。身勝手な考えは、他人の思いを取り入れること無く、自分の見方だけで済ますことから起きることもあるが、たとえ、自分だけの判断でも、それが広い視野に基づくものであれば、随分違った結果に繋がるのではないか。そんな考えを巡らすと、視点の多彩さが人の器の大きさを表すものとして、時に引き合いに出されることに、気付かされる。子供は夢中になっていることだけに目が向き、外への視野が広がらないことから、危険に巻き込まれることが多々ある。それに比べれば、大人たちは様々な危険を考慮に入れ、視野が狭まることを避ける傾向がある。これもまた、成長に従って身に付くものだけに、時代の違いによらず続いて来た習慣のようなものであり、どんな時代にもそれが維持されることで、社会はある秩序を持って保たれて来た。それが崩れた時、社会も崩壊へ向かうこととなり、滅亡に向かったものの多くは、それを食い止める力をも失った為と思える。了見と言うと如何にも高尚なものと見る向きもあるが、まずは、身近な存在として自らの視野の広さを考えてみてはどうだろうか。取り組んでいる問題に、どれほどの数の可能性を考慮するか、好悪を基準として何かを排除していないか。そんなことに思いを巡らし、自分の考えを整理すれば、また違った視界が広がるだろう。想定外などという言葉は、実は何かが足らなかっただけなのかも知れない。
ネット社会の利便性ばかりが取り上げられるが、その影で悪質な行為や仕組み自体の欠陥が取り上げられることは少なく、天秤にかけた上で、心配無用と断言されることが多い。良識に基づく判断に、異論を唱えることは難しいが、この社会における良識の不在にこそ問題があるとすれば、楽観視は出来ない。
連鎖反応のように、制御不能に陥る話は、不安を募らせると扱われる一方、ネット上の連鎖は、意外な程軽視されている。それでも、デマや偽情報が意図的に流され、それを無垢に流し続ける人々には、何の罪悪感も芽生えず、社会の成長は期待できそうにない。だが、良識の存在を重視し、受け取る側に判断力が備わっていれば、一部の無知は無視できるとする考えは、この事態に対して何の心配も抱いていないようだ。大人の対応を期待することは、こんな事態を好転させる為の一つの考え方だろうが、肝心の大人たちが、子供じみた考えや行動を繰り返し、子供まで巻き込んでしまう。非常識な発言を繰り返す人々が、連なる鎖に乗ることで、その存在感を膨張させ、恰も真っ当な考えを持ち、多くの支持を得ているように見えるのも、この仕組みが作り出した虚像と言うべきものだろう。非常識を非常識が取り巻く図式には、本来ならば無視されるだけのことだが、この社会では異常な広がりさえ起こす。常識による反論も、非常識から無視され、非論理的な罵倒が繰り返され、不毛な議論が続くだけとなる。これらの非常識に共通するものと思えるのは、分かり易さと過激さだろうか。現実にはこの二つは強く結びつき、過激で乱暴な話には、直感的な理解が得られる代わりに論理性の欠片も無い。こんな異常事態にも、能天気で居られるのは、ある意味、自らの良識を信じていて、何処かで連鎖が断ち切れると思っているからだろうか。
マスメディアの劣悪化が大きな問題として取り上げられる。少し眺めただけで違和感が湧いてくるのは、問題を指摘する人々が媒体として利用するのも、同じメディアだからだろう。自作自演という表現は不適切であり、無意味だろうとは思うが、自らの問題を自らの中で解決できない現状が、こんな事態を招いている。
画面に現れる姿や紙面を賑わす言葉には、何か特別な能力を誇示しようとする、そんな思惑が満ち溢れている。だが、実態は事実をそのままに伝えるより、その裏にある問題を掘り出そうとする、そんな動きばかりが目立つ状況にある。事実を際立たせる為に穴を穿つのであれば良いのだが、その作業には確実性が伴わず、日々の成果を求められる人々は、その代わりに自らが立ち上げた筋書きを提示し、それに基づき、それに見合う話題を「事実」として伝える。筋書き通りに事が運べば、真実報道として評価を高めるのだが、現実は小説より奇なるものであり、勇み足による黒星ばかりが並ぶ。業界の問題は、皆が横並びで同じ行為を繰り返すことで、互いの批判の目がないままに、身勝手な行動が横行することにある。痛い筈の黒星も、直ぐさま忘れ去られ、何事も無かったかの如く、同じ轍を踏み続ける。目に余る行為が続いたことから、外からの目は厳しくなるばかりで、批判の声が高まる。だが、それを流す役割を担う業界自体が、腐敗を極めているだけに、正当な議論が成立する兆しは見えない。都合の良い数字ばかりを拾い上げ、都合の良い発言を切り取る。全体の数字や前後の発言は、覆い隠せば思うがまま、といった所だろう。それらを発した人々にまで、その害毒を広げる行為は、倫理や道義からすれば、唾棄すべきものになるが、自省の念が欠片も無いのでは、垂れ流しが続くだけだ。こんな状態が続いても、何も変わらないのは、構造的欠陥と見なすべきものだろうか。
知らない言葉に接し、その意味を調べたいと思った時、昔なら書棚に手を伸ばす人が多かったろう。大型の国語辞典を始め、様々な辞典が出版されており、百科事典を揃えるのが夢と言われた時代もあった。今は様相が一変し、多くが小型の電子辞書に手を伸ばす。書棚の一角を占めた辞書が小さな機械に詰め込まれている。
便利と言えばその通りであり、単に空間的な問題解決だけでなく、運搬の簡便さや金銭的な節約にまで繋がる。ある意味画期的な発明と言えるのだが、使い勝手として、紙をめくる行為の無さに僅かな不満が残るようだ。視野の広さが問題となるのは、特に、英和辞典においてであり、初習者たちにとって、英単語のもつ意味の多さに、戸惑うことが多い。多彩な意味のうちで、最も適切なものを導き出す手立てには、一種の馴れしか無く、そこでは全体を見渡す必要が出てくる。ところが小型化が肝心とされた機械では、全てを一度に提示することが出来ず、他の単語との関連も作り難い。この欠点を補う仕組みは、まだ開発されていないようだが、利用者の要望が出てこない所に問題があるのだろう。調べるという行為は、更に広がりを見せ、ネット検索がその要望に応えるものとして、いつの間にか、当然の存在となった。中でも、ネット上の辞典として君臨するウィキペディアと呼ばれるものは、その語彙の豊かさやネット上の繋がりを利用する利便性から、利用者の数は増え続けている。その一方、この手軽な仕組みを酷評する声も多く、対照的な反応として取り上げられることが多い。便利との声の一方、内容の信頼性を問題視する声が大きく、これが教わる立場と教える立場に分かれ、極端な場合、利用禁止となる。便利と思っていた人々にとって、信頼度の問題は理解し難く、禁止は理不尽と映る場合もあるが、十分な説明が行われていないのが、一番の原因ではないか。辞典の最重要課題は、正しい意味を示すことであり、ウィキペディアではそこに欠陥がある。多言語で存在するものそれぞれに違う意味が示され、辞書の本来の機能から逸脱しているのは、実は統一的な編集でなく、自由参加による編集で作成されることが、利点とともに大きな欠陥となるからだ。
不安が冷静な判断を退ける。こんな状態になったのは何故か、答えは容易には見出せない。弱者保護の考えは、彼らの不安の解消に全力で取り組む姿勢を表し、非論理的な悩みにさえ手を差し延べる。弱い者にとっては有り難いことなのだろうが、全体としては論理が通じず、狂気への道に踏み込みかねない事態だろう。
不安を前面に出しておけば、どんなに理不尽な行為も許される。そんな姿を見るに付け、立場を入れ替えた状況に想像が及ばないことに、驚きを覚える。気遣いは無用との考えもあるが、立場による違いには、考えを巡らす必要がないのか。店と客のように、最近は絶対的な立場に立ち、その範囲で行動を起こす、といった様式が当たり前となり、逆の立場への配慮は、入れ込む必要がないとされる。だが、人が生活する上で、役割の分担があり、立場の入れ替わりがあるのは、当然のことではないか。ここに現代社会の抱える病の問題があり、治療法が見出せない状況がある。不安を訴えるだけの役割を、演じ続ける人々にとって、理不尽な行動は何の躊躇いも無く繰り返される。一方で、それを打ち消す為の働きかけをする人々は、非論理的な悩みや乱暴な論理に対しても、丁寧な対応が求められる。これが当然との考えもあるだろうが、人類の長い歴史で見れば、こんな状態は異常とも思える。無知な人々の悩みには耳を貸さず、要職にある人々だけで、物事を粛々と進める。広い視野と深い知識を持つだけに、大きな間違いをする筈の無い人々に、それを持ち合わせぬ人々は従うしか無いのだ。これが当然と思われた、ある意味差別的な社会が、様々な事情で崩壊を繰り返し、万人が平等な立場にあるとされる、公平な社会が築かれて来た。その結果が、今巷で起きているような問題に繋がるとすると、果たして公平性が一般大衆にとって、歓迎すべきものだったのか、分からなくなる。
波に襲われ、町全体が沈んでしまうような錯覚を覚える。画面に映し出される惨状は、どれほど真実を伝えたものなのか。全ての人々が飲み込まれたように思えたが、現実には多くの人が逃げ延びた。ただ、惨状の跡を目の当たりにして、途方に暮れる姿は、画面に現れなくとも、十分に想像できるものだった。
そんな海辺の地方都市に、直ぐさま復興に向かう力は、残っていなかったのだろう。その地に暮らす人々にとって、まずは自分の生活を取り戻すことが優先され、町全体の復興を考える暇は殆ど無い。公的支援の人材不足が、まずは取沙汰され、遠く離れた自治体が手を挙げた。一つの県と同程度の力を持つとされる政令指定都市にとって、金銭的な支援よりも人的支援を優先させたのには、大きな理由があったのだろう。それにしても、混乱ばかりが取り上げられ、悲惨な姿を見つけ出すことに力を入れていた時期から、この問題に注目していたのは、評判の悪い報道姿勢の中では、価値あるものと映る。その流れの中で、一つの節目が見え始めたからか、中間報告のような番組が流されていた。日々の生活の復興を目指し、保健師などの派遣がなされたのは、順序として正しいものに思える。言葉の問題はあるものの、心の問題の解決には、人手が必要との考えは功を奏し、人々の表情に明るさが戻る過程は、効果を如実に表すものに見えた。それに比べて、ほぼ同時に派遣された都市計画の専門家たちは、土地の人々の考えに振り回されていた。復興を目指す中で、恐怖を優先する考えがある一方、都市機能の回復を優先する考えは、矛盾を来すものに見え、とても両立しそうにも無く映る。地元の考えは、遠く離れた所からやって来た人間には理解できない、と結論づけては、こんな取り組みは成立しない。人々が寄り集まって、最善の策を講じる。その過程には、幾らかの軋轢は、当然のものなのだから。