パンチの独り言

(2012年2月13日〜2月19日)
(難解、滑舌、補強、虚構、作為の責任、相互理解、異状)



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2月19日(日)−異状

 例年になく冷え込む冬に、生き物の姿はまばらとなる。春の訪れを待ち焦がれる生き物たちにとって、この寒さは必要なものと言うより、待てど暮らせどやって来ないものを表しているように見える。だが、四季の移ろいがある場所では、こんな変化は当然であり、幾ら厳しくとも、寒さは必要なものなのだ。
 例年とか平年といった言葉が付けられるように、平均との比較が常となるものだが、その一方で、齢を重ねて来た人々からは、昔と比べた気温の上昇という声が聞こえてくる。降雪量についても同じことが言われて来たが、実際に量が増えた途端に、そんな声が取り上げられることは殆ど無くなる。冷静な判断からすれば、何故という感覚が強まるが、人々の困惑を強調したい人々は、滅多に無い出来事であるとし、厳しさに話題を集中させようとする。暖冬とか温暖化といった、変化や問題を際立たせる言葉も、こんな状態では使うことも出来ず、まさに冬眠に入っているかの如くの状況だが、変動の激しさに話題を向ける気配もない。何事も捉え方次第という、データの取り扱い方の重要性は、こんな時にこそ注目すべきと思うが、心理的なものを利用したい人々は、冷静さを取り戻すより、一時の方針変更でも、不安を取り上げる形に拘りたいのだろう。例年と比べて、著しく違う様相でも、困っている人々に光を当てていれば、満足できる。そんな所に拘る人々の多くは、おそらく困っている人自身に興味があるのではなく、別の所に目が向く。季節の移ろいはそんな人の思惑など無関係に、いつの間にか春が訪れる。生き物たちには、それで例年通りなのだ。

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2月18日(土)−相互理解

 意思疎通の能力を問う声は度々聞こえてくるものの、何処に問題があり、どんな解決法があるのか、そちらの話題はまとまり無く、掛け声ばかりに思える。何故、自分の思いを伝える方法が、これ程注目されるのか、その必要性を実感する機会を得たことの無い人には、殆ど理解できず、ただ圧力を感じるだけとなる。
 方法の伝授を優先させた結果、細々とした技術論が展開されるのみで、その必要性と意味を論じる機会は無かったように思える。その結果、方法を教えられるばかりとなり、表面的な捉え方が主体となる。その上、圧力を伴う働きかけに、身に付けないと大変なことが起きる、といった感覚が芽生えるが、その実態は全く見えて来ない。教育の基本が押しつけであると見なせば、こんなことはごく当たり前となるが、その力が失われつつある中、様々な説明が施され、実しやかな必要論が台頭している一方で、旧態依然とした押しつけ法が、大きな役割を成すのは、どうにも理解に苦しむものとなる。そんな時代が暫く続き、その効果の程が眺められるようになると、如何に杜撰なことが行われて来たか、徐々に分かってくる。方法を身に付けたように思える人々が、自らの思いを伝えようとしても、中身の無い話に派手な装飾が施されるばかりで、無意味な遣り取りといった印象のみが残る。何故、こんなことをしなければならないか、説明が必要だとしても、当然すぎて妙案が浮かばず、それが技術論へと繋がった。だが、本当に大切なことは、その意味とか成果を事細かに伝えるより、損得勘定で話を進めた方が、良いのではないだろうか。折角の自分の考えが伝えられず、互いに誤解を招き合う関係では、先へ進むことは出来ない。無いことによる損は、どんなものへと繋がるか、流石の若者たちも、その位の理解は出来そうだ。と言った途端に、安直な考えと批判が飛んできそうだが。

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2月17日(金)−作為の責任

 情報収集の重要性が強調されるが、その反面、情報作成の誠実さが注目されることは少ない。これこそが、吟味の必要性を訴えるもの、という見方もあるが、何故、嘘で塗り固められた情報が垂れ流され、その選別を受ける側のみの問題とするのだろう。源と終点の間には、情報が流れる媒体があり、その問題もあるのではないか。
 一般大衆にとって、情報源になる機会は少なく、役割としては流れの媒体か、受け手になるくらいのものだろう。その中で、当然身に付けておくべき能力として、情報の真偽を吟味し、表に現れぬ意味を推測することが必要となる。鵜呑みを当然とし、都合の良し悪しで真偽が左右されるのは、この見方からすると、大いなる誤りと見なされる。だが、現状を眺めてみれば、間違いを繰り返す人ばかりで、勝手な誤解を他人のせいとする人の多さに、呆れるばかりとなる。こんな指摘を聞く度に、何をすべきか戸惑うだけの人々は、手の付け所さえ見出せない。全てを見通す力を付けるべきとの指摘も、その為の努力からすれば、腰が引けるのも当然であり、責任を全て下流に押し付ける風潮に、違和感を覚える人も居るだろう。源も流域も、本来なら、もっと責任を果たすべきで、互いの信頼の下に情報の授受がなされないと、どうにもならない気がする。画像や数値は真実を伝えるものとして、信頼の度合いを高く見る人が居るが、一部を切り取る作為がなされた瞬間に、真実は確実に歪められることとなる。思惑に沿わぬ事実には蓋をし、塗り潰しを施す。処理後の情報を受け取る人々に、元に戻す手立ては無いだけに、こんなものを鵜呑みにすることは、避けねばならぬこととされる。だが、そんなものを捏造し、意図的に伝達する連中に、何の罪も無いとしては、下らぬ社会が築かれるだけではないか。

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2月16日(木)−虚構

 噂は根も葉もなくとも流れていき、いつの間にやら尾鰭まで付けられる。出所は定かでなく、その思惑もぼやけたままで、流す媒体にも、大した意図の無いものが多い。にも拘らず、膨張し続ける流言に、その対象となった人々は、ありもしない話の打ち消しに躍起となる。ただ、無いものを消すのは簡単ではない。
 たとえそれが事実に基づくとしても、その対象を広げることで、話を大きくする噂には、事実という裏付けがあるだけに、嘘という反論が成立し難い。一部の事実を全体に適用することに、一種の推定手法が使われるのだが、論理的に正しそうに見えても、想像に基づく創造には、不確かな部分が残る。反論には、その不確かさを質す手立てが重要となり、別の事実を検証するのが適切とされる。だが、かたや、いい加減な推測に基づき、勝手な論を展開するのに対し、もう一方は、堅固な事実の証明に、かなりの労力を注ぎ込む必要がある。前者が人力も金力も必要としないのに、後者は理不尽な出費を強いられる訳だ。この所風評なるものに振り回される人々の悲哀が伝えられるが、被害者の悲劇ばかりが伝えられ、真の問題が取り上げられることは殆ど無い。汚染の広がりに付いても、想像力の豊かさは、捏造とも思えるデータの取捨選択をも施し、創造の世界へと人々を誘う。見えぬものへの恐怖と合わせ、不安を膨らませ続ける人々の、頭が弾ける様子は無く、結局は、一時の気の迷いで片付けられる。だが、その度に、火消しに走らされる人々には、休む間もなく、仕事が持ち込まれる。この汚染の問題は、単に見えないことにあるだけでなく、量的な解釈にあることは、この手の話題で取り上げられぬ。何らかの手段で重さを減らしたり、一部に集めたりすることで、問題が起きるのは、その現れなのだが、気付かれること無く、見過ごされる。

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2月15日(水)−補強

 一生懸命考えて出した意見を、単なる思いつきと切り捨てられる。組織の中で、経験の浅い人々が、一度はやられたことがあるのではないか。自分なりに全体を把握し、様々な可能性を検討した結果として、絞り出したものを、咄嗟の思いつきのように扱われる。その理不尽に腹を立て、嫌気がさしてしまうことさえある。
 こういう人々の多くは、こちらの努力が評価されないことに、差別のようなものを感じ、年齢や経験の違いが、そこに反映されたと考える。だが、肝心の意見の中身がどうだったのか、意見の質や説得力の有無に付いて、考えることは少ない。既に切り捨てられたものに、未練を抱くことを潔しとせず、やられたことだけを記憶に残す。こんなことの繰り返しで、経験の浅い人々が成長するかは、怪しいものだろう。周囲が扱いに注意し、頭ごなしに批判したり、全面否定することを避け、評価できる点を見つけ出したり、改善の道を示すことが大切、との指摘もある。だが、大切に扱うことばかりに注意が向き、自立させ、独立させることを遠ざけることには、組織を保つ為に逆効果のこともある。助けたり引き上げたりと、上に立つ者にとっての課題は、大きく重くなるばかりだが、当事者自身に自覚を促すことも、それらと並行して進める必要がある。そこに、批判や切り捨てがあるのは、ある意味やむを得ないことであり、その道を経てこそ意味を成すものだろう。その過程で、自分の頭で意見の中身を検証し、その視野の幅を検討することで、思いつきを重要な意見に変貌させる、何かしらのきっかけを掴めるかも知れない。その上、冷静になってから見直すことで、思いつきの論理を補強する、後付けの説明の必要性に気付くこととなる。こんな経過は大切に扱われても達成できるとする向きもあるだろうが、周囲の状況から察するに、その効率の悪さばかりが目立ち始めているように見える。

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2月14日(火)−滑舌

 声を出す練習をする人々が画面に映される。演劇に関わる連中かと思ったら、そんなこととは無関係な大学生との話だ。文字媒体による会話に終始し、声を出す機会が減ったことから、発話による自己主張が無くなったとの理由で、そんなことを訓練する組織が出て来て、その能力を測る仕組みまで登場したらしい。
 不足する部分を補う。傾向と対策の常道として知られる部分だが、次から次へと繰り出される新手法に、驚かされる一方、首を傾げたり、呆れたりという反応が出る。確かに、成長を促す為の一策として、足らない部分を知り、それを補う手立てを講じるのは、当たり前のことかも知れない。だが、何が足らずに、何が問題となっているかを知ると、その捉え方に違和感を覚えるのだ。確かに、手書ではなく、機械を通して伝える文字媒体には、様々な便利が感じられる。正確に覚えていなくても、それらしい文字を表示し、定型文であれば、ボタン一つで次々繋いでくれる。更に、意味不明とも思える絵を、文字の代わりに用いることで、直感的な理解を得ることさえ可能となる。自分の言葉が急速に消え去る状況に、その環境しか知らぬ人々は、何の不安も抱かず、能力の低下より、仲間の広がりを優先させる。そんな状態に不安を抱くのは、その経験の無い人々ばかりで、本当の問題は、実際には何も見出せていないのではないか。だからこそ、付け焼き刃的に、発音や言葉遣いの練習に励み、自分の言葉を探す手立ては、依然として脇においたままとなる。拙い言葉遣いでも、不明瞭な発音でも、その中身が確かであれば、聴く価値を持つだろう。だが、練習熱心な人々の多くは、何処かにあった話ばかりで、自分の意見が出せる訳でもない。そんな状況では、解決より悪化を招くだけではないか。

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2月13日(月)−難解

 思惑はどうあれ、意思を伝えることの難しさは、常に感じられる所だろう。何気ない一言が誤解を招き、修復不能な程の関係に陥ってしまったり、婉曲な表現から、分かり難いと批判されたり、煮え切らぬ言い回しから、正反対の意見と受け取られたりと、様々な問題が生じ、前言撤回にまで追い込まれることさえある。
 失言ばかりが目立つのに、いつまでもその地位に居座ることが出来る、特殊な業種の人々と違い、一般大衆は、自らの立場を守る為に、日々の言葉遣いに気を配る。そんな所から、この国で生まれた表現方法の一つに、敬語があるのだが、その乱れ一つ捉えても、気配りが行き届いていないことは明らかだろう。ただ、幾ら綻びが目立つと言っても、人との関係を悪化させるきっかけを、自ら与えるようなことをしたくないのは、人間として当たり前のことに違いない。少しでも間違いを減らし、正確に伝える為の言葉遣いを、心掛けたいものだろう。ただ、現実は甘くなく、言葉の問題は発する側だけでなく、受ける側にもある。受け手の理解が多様であることは、誤解を防ぎたい人にとって、最も大きな問題であり、如何にして一つだけの意味を伝えるかが、重要な課題となる。そんな日々の活動と比べると、正反対の活動をする人が居ることには、理解に苦しむ人も居るだろうが、どちらも意味のあることではないか。偉大な賞を受けた人物の文章は、難解なものとして有名だが、個人的には興味の湧かないものとして、その著作を手に取ったことは無い。難解とは、すぐに意味が通じないこともあるが、折角意味が見えた気がしても、それが時により、人により、違ってくることに、その真髄があるのかも知れない。意味を任せるのは、発する側の怠慢との指摘もあるが、受け手の自由を保つ為には、そんな選択肢もあり得る。ただ、そんなことがあるにしても、何らかの意味を成す言葉であることには違いないのだが。

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