パンチの独り言

(2012年2月20日〜2月26日)
(道案内、外遊、金属疲労、育成、欲求、自省、内圧)



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2月26日(日)−内圧

 他人への批判を口にするのは憚られる。そんな空気が出来てしまったのは、何が原因なのだろう。隣近所への目配りが無くなり、組織の縦割りは嫌われつつも、明確化するばかりとなる。声が飛んで来たからこそ、他人の目を気にすることとなり、自分の行いにも目を配る。制動が無くなった途端、無軌道な人が増えたのか。
 こんな書き方をすれば、若い世代に向けた言葉のように受け取られるだろう。だが、社会全体に、こんな傾向が強まりつつあり、自分が常に中心にあり、周囲との関係も相互よりも、一方的なものが目立つ。自己分析を繰り返し、自己批判へと繋げるという図式は、一見成立しているように思えるが、現実には、分析での取捨選択から、都合の良いものを並べる性癖は、周囲からの圧力を受けていた頃から、弱まるどころか、却って強まっているように見える。一方的な擁護論では不都合とばかり、少数派として厳しい意見を紹介する。中立性を保っているかのように映る自己評価も、基となる資料が公開されることは少なく、装飾を施されたものが表に出る。そこからの改善策や反省には、それなりの論理性が保たれているものの、それ以前に問題があるとすれば、何の意味も成さないこととなる。組織が常に外部の意見を汲み取り、それを基に改善を図るという仕組みが、挙って採用されることとなり、そのままであれば、以前と比して、格段の進歩があるように思えたが、現実には、人間の行うことに大きな違いは殆ど無い。特に、社会的な責任が重いとされる、報道関係については、この仕組みを自己研鑽に導くものとし、改善が進められている筈だが、深夜早朝に流される、その手の番組からは、現実からの乖離が際立つばかりに見える。やはり、強い外圧だけが効果を持つのだろうか。

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2月25日(土)−自省

 一時程自己評価を重視する動きは激しくない。何が出来、何処に特長があるか、そんなことを並べ立て、宣伝に腐心する姿に、違和感を覚えていた人々は、一時の喧噪が収まり、落ち着きを取り戻しつつある。だが、売り込みの為の評価とは別に、自らを省みる為の評価は常に必要であり、無くてはならぬものだろう。
 自分の能力を測る手立ては、容易に手に入るものではない。主観と客観と対比されるように、見る立場を変えることで、同じものが違って見えることがあるからだ。特に、他のものに違う見方を適用するのと異なり、自らを二つの見方で分析することは、私情が入り込む余地が多く、簡単には行かぬものだろう。とは言え、評価の必要性は常にあり、それなくしては反省も向上も立ち行かない。現状分析の上で、改善を図ることこそが重要とされ、その欠落は重大な問題を生じる。過大評価も過小評価も、どちらの場合も判断の誤りを導き、迷走を招くこととなる。唯一無二の答えは、元々ある筈の無いものだが、それにしても、ある程度の範囲に収める必要はある。だが、現実を眺め回してみると、余りの隔絶に唖然とさせられることは多く、現実との乖離に危うさばかりが目立っている。自分の評価が出来ない人の多くは、実は、他人の評価も覚束無いわけで、結局、評価が苦手と決めつけた方が良いように思える。そんな状況が生まれる原因には、する側、される側に関わらず、批判を忌避し、上から目線などと揶揄される行為を、忌み嫌う傾向にあるように思う。自分はきちんとしているのだから、兎や角言われる筋合いは無いとする人の多くは、実は他人の目を気にし、評価を恐れているのではないか。

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2月24日(金)−欲求

 何か間違ったことをした時、その原因を欲望に帰する人は多い。欲に駆られて悪事を働くのは、そんなことの現れだろうが、悪いことをする方ではなく、欲を持つことを悪いとする考えは、どうだろうか。悪い結果を産んだ原因を探る過程で、こんなことを繰り返すと、無欲が最善となる訳だが、おかしくないだろうか。
 無欲の勝利を誇る話や、雑念が入らぬことの意義を説く話に、異議を唱える人は少ない。だが、その勢いに乗って、欲望そのものを否定する考えに至るのは、行き過ぎどころか、お門違いと言うべきものだろう。もっと知りたい、もっと分かりたい、という考えを抱くことは、人間の成長を促し、生来の能力を開花させる手立てとなる。これを欲望と呼ぶことに、違和感を抱く人々は、始めに取り上げたような、悪事に結びつく欲望との違いを、強く意識するのだろう。だが、欲しいもの手に入れるために、努力を積み重ねる過程には、大きな違いは無い。そこで進められる行為に、常軌を逸したものか、倫理観に背いたものか、といった判断基準を当てはめた時、大きな違いが生じるのだ。間違いを繰り返す人の多くが、欲の問題を第一に挙げるようだが、現実には価値判断などによる、正誤の確認こそが重要となる。欲を否定し、宗教への道を歩む人々にも、根底となる思いは残るものだ。雑念や邪念が否定されても、純粋な考えが否定されることは無い。この辺りの見込み違いは、特に最近著しくなりつつあり、倫理観の減退と相俟って、社会の秩序を崩壊に導く風潮が強まる。一部の病的な欲望を例に出し、それを根拠とする論理展開では、人間にとって必要不可欠な要素を捨て去り、根本的な拠り所を失うことになる。あるべき姿を見失った人々に、正しい判断は下せない。

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2月23日(木)−育成

 買い手市場と呼ぶのだろうか。若者が行き場を見つけられず、不平不満の声や不安の悲鳴が紹介される。その一方で、あらゆる組織で人材不足が深刻とされ、人狩りとも思える奪い合いの様相は静まる気配がない。一見、全く異なる事情と状況を表す話題なのだが、同じ鍵を探すとすれば、有能な人間だろうか。
 内定を勝ち取れぬ人々は、画面の向こうで悲嘆に暮れる顔を見せる。時代や環境を原因と、彼らを擁護する人々からの意見が出るが、その他大勢の職を得ていく人々との違いが、論じられることは少ない。意思疎通が覚束無い、知識欠乏が著しい、自己評価が出来ない、などといった問題を抱える人々を、人材と呼ぶことに躊躇を覚える人は少なくない。原石であることを主張し、磨けば光ると信じる人々に、努力の言葉は当てはまらず、一生を原石という名の石ころで終わる。そんな人々が増えたと感じるのは、触れ合う機会が増えたからだろう。学ぶ悦びを知ること無く、闇雲に目標に向かって走る。本来積み上げていく過程こそが重要とされたが、最近の考え方は、ただ広げることだけが推奨される。積み木に喩えられた人生も、崩れることを表現した物語以来、忌避される場合が増えたようだ。そんな中では、磨くという努力も、積み上げるという地道さも、全て捨て去られ、一時の快楽を追い求めることとなる。対象がそんな気質を持ってしまえば、環境も徐々に訓練や教育の必要性を失う。負の螺旋に乗り始めた時流に、どちらが先かが見えない現状では、新たな手立ては見出せそうにも無い。だが、本当に追い求めねばならぬものなら、奪い合ってでも、それらの人材を活かす環境だけは維持しなければならない。そんな中では、競争が当たり前なのだ。

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2月22日(水)−金属疲労

 伝統と聞くと、同じことを繰り返すことを思い描く人が多い。だが、その代表格とされる古都では、全く違った見方をする人々が居る。伝統を守る立場では、それに縛られるのではなく、常に新しいことを試みるのが大切とするのだ。同じことの繰り返しは、同じように見えて、徐々に劣化を重ね、結果、廃るという訳だ。
 技術や工芸の世界で、こんな言葉が聞かれるのは、それを継承し続けた誇りがあるからだろうが、製品とは違うものを作り出す、芸術の世界でも、見せるものの儚さに、常に研鑽を続ける必要性が問われる。そこでは、自分たちの変化だけでなく、社会や世間の変化が、違う見方や要求を招き、それに応える必要が出てくる。時代の停滞は、そのような変化にも影響を及ぼし、同じことの繰り返しが許されるような錯覚へと繋がる。だが、停滞を打破するきっかけを、周囲からではなく、自分たちが出すものとの自覚こそが、真の伝統の強みとすれば、停滞期にこそ、その真価が問われるのではないか。一部の特異な人々の話、と受け取る向きもあるだろうが、こんな図式は、ごく普通の人々にも当てはまる。安定期に入った時代には、大体の予想がつく風潮が強まり、そこに胡座をかく人々が増える。人間の能力の劣化が、これ程強調される時代は、無かったのではないかと思えるが、その原因の一つに、同じことの繰り返しがあるのではないか。予想通りの展開に、傾向と対策が構築され、それに基づき反復作業を続ける。次々と人が変わり続けても、同じ環境であれば、同じで構わないという考え方は、新たな工夫や状況把握といった、積極的な対応を排除し続ける。同じように見えて、徐々に劣化を繰り返す為、いつの間にか元の姿を留めぬ程に変貌する。こんな状況が、企業でも、教育現場でも、何処でも起きていることに、気付かぬ振りをしていいものか。

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2月21日(火)−外遊

 内向きの指摘が強まり、その解消に様々な方策が提案される。だが、数値に裏付けられたとされる志向に、違和感を抱く人が多いのは何故か。一つには、自らの地位を高める為に、必要な要素としての外遊に、その効果を疑うことがあり、別の要素としては、自分の地歩を固めることを優先する風潮がありそうだ。
 他にも、子に旅させる為の資金不足や、家庭そのものの内向き志向などが挙げられるだろうが、そういった、お家の事情を脇に追いやり、環境整備を訴える声に、特に強い拒否反応が催される。自助努力の上での支援ならば、それほどの反応もでないものが、これ程強い反応を招いたのは、当事者たちの能力を高めるという目標が、これ一つで可能となるとする夢物語にあり、目の前に居る将来を担う筈の人々が、抑圧により諦めるというより、基礎能力への到達が最大の問題となっているからではないか。それでも、周囲から優しい言葉をかけられると、その気になる人々は頻出し、様々な外的課題を訴え始める。注文を受け付ける店舗と同様に、客の足下を見ない人々は、無闇に手を差し伸べ、無駄遣いはその勢いを増す。必要性を論じる声も、追い風を受けて順風満帆のように振る舞うが、対象の吟味を怠り、評価基準を整備しないままでは、何もかもをどぶに捨てることになりかねない。認識不足を現場に対して言い放ち、狂ったように数の増加を目指せば、その無意味さは早晩白日の下に晒される。人々の欲望は、いつの時代も勝手な方を向いており、束ねることの難しさは尋常ではない。にも拘らず、政策や方策と言われるものの多くは、それを一方向へ導こうと目指す。個人の力を伸ばす為に、最も重要なことは、と問われたら、誰もが、当人の努力を第一に挙げる。それを妨げる悪環境を取り除く為と称しつつ、迷走へ向かい始めた人々に、かける言葉は見つからない。

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2月20日(月)−道案内

 何処かに一本筋が通る中で、様々な意見を集約する役目を負っていた時代、体制に与する側より、逆らう動きが目立っていた。道筋が通っていても、その道自体が誤った方向へのものだとしたら、それに沿った動きは、間違ったものとなる。そんな可能性を示すことこそが、論を戦わす人々の役目、といった所だろうか。
 自信が裏付けとなり、一本の筋を示せた時代と異なり、伸びが失われた結果、不安ばかりが目立ち始め、正しいか誤りかに関係なく、筋の通った話が見かけられなくなった。多くの筋道の中から、好ましいものを選べば良いという考え方は、自由意志を尊重する時代に、より良いものが示されたかのように映ったが、暫く時が経るうちに、綻びだけが目立ち始め、場当たり的な対応ということが明らかとなった。そんな中で、論客たちはどんな対応をして来たのか。筋が明確になっていれば、始めから終わりまでを見通せ、その中で問題となるものを示せる。その能力に長けている人たちも、批判の対象となるものが、論理性も無く、場当たり的なものとなると、肩を並べるように、怪しげな指摘や形だけの批判が繰り返される。記憶喪失と、全体的な批判が突きつけられたのも、業を煮やした大衆が、声を上げた結果だったのだろう。だが、いつの間にか、時代は大きく変貌し、そんな遣り取りに何の違和感も感じず、次々に繰り出される、魅力的な提案に吸い寄せられるような大衆が、目立つ存在となって来た。その中では、論を戦わす人々は、世論を操る存在と、自らを評価することとなり、その責任感より、それによる高揚に酔う姿が見えて来た。愚民を操る楽しさに、目覚めた人々には、論理より心理が優先され、その揺さぶりの技術だけが磨かれる。世論を操作したければ、我々に任せろ、という態度には、以前とは異なる傲慢さのみが、はっきりと現れて。

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