春の訪れを見つけ出せないまま、女の子たちの祭りを迎えた。例年なら、とっくの昔に淡い匂いを振りまき始める花も、今年は大人しくしたままだ。旧暦とは違うから、流石に節句に因んだ花は堅い蕾のままだが、それにしても、どうなっているのか。またぞろ、異常を訴える声が大きくなるのだろうか。
そんな中で、有り難くない春の声が聞こえ始めた。猛暑の夏ではなかったから、大した量は予想されていないものの、こちらの方は少し出遅れたとは言え、しっかり飛散を始めたようだ。様々な異常を見つけ出し、それを端緒によからぬ話をする人々にとって、例年通りとか、いつものこと、といった話題は、忌避すべきものらしい。そんな話題が流れてくる度に、物事の捉え方次第で、これ程に違った筋書きが作れるのかと、驚くばかりとなる。だが、他人の話に更なる脚色を施し、想像を極める話の中には、異常とも思える思考が加えられ、不安を煽るのみと思えるものも多い。他人の不幸は蜜の味と言われるが、不安に沈む人々の姿に接し、優しい言葉をかけるといった行為にも、そんな優位を感じさせるものがあり、異常な性向の現れとも言える。春を迎える浮遊感は、楽しみの反面、不安定を招くものがあり、その中でのこの手の話は、良からぬ方への誘いとなりかねない。他人事と片付け、知らぬ振りを決め込むのも、不安を隠す手立ての一つだが、つい陽気に誘われて、外に出てしまうと、訳の分からぬ話題に振り回されかねない。楽しいことを楽しめない春では、困ったことになりそうだが、それとて自分で何とでもなるものだろう。余計な雑音は切り捨て、目の前の楽しさを大いに享受してはどうか。
指示を待つ人々の自主性の無さに呆れたこともあったが、今巷で問題となっているのは、もっと重症の人々である。守ろうにも指示の意味が理解できず、呆然とする姿に、罵声が浴びせられる。動き始めたとしても、全く間違った行動を起こし、何をすれば良いのか、分かっているとは思えない。どうしたことか。
自主性を養う為に、様々な方策が取り入れられたのは、20年近く前のことだったか。機会を与え、自ら動くことを促すやり方に、異論が噴出していたが、問題の核心は露にはなっていなかった。本当の問題が表に出始めたのは、こんな教育を受けた人々が、教育の枠から社会に飛び出し、周囲の人々と対等の立場になった頃からだろう。話が通じないとか、空気が読めないとか、そんな表現で、これまでとは異なる人種が目立ち始めたことが伝えられたが、現実には、それらは単なる序章に過ぎず、その後、同様の教育を受け、個性という名の虚ろな飾り物を身に付けた人々が、続々と世の中に出てくるようになる。今では、こんな欠陥品とも思える人は、日常的に目の前を過ぎていく存在となり、被害を避ける為の方策として、選別を厳格化する組織が目立っている。人と違うことを特徴とする人々も、そこには何の良さも見えず、欠点ばかりが並んでいる。何とか優良品を探した時代と違い、傷物を除くことを第一とし、その後に姿形を眺めることが普通になる。自己分析さえ覚束無い人々は、原石と呼ばれることに何の疑問も持たず、いつか光り輝くことを夢見る。だが、磨く手立てを身に付けていない原石には、光る機会など与えられる筈も無く、そのまま放り出されてしまう。恐ろしい話だが、そんな原石はいつの間にか忘れ去られ、ただの石ころとして一生を終えるのではないか。
必死で謝る姿を目にすると、人間は情けをかけたくなるものだろう。「情けは人の為ならず」との言葉は、大いなる誤解を招いたようだが、それと無関係に、謝罪の姿に真意を探ることが、少なくなったように思う。「ごめんなさい」の一言が、全てを決めるように言われるが、怪しさは強まるばかりのように見える。
罪を裁く時、謝罪を含めた反省の態度が、酌量されることが多い。人間は間違いを犯す存在であり、その罪を深く反省し、次へ繋げることこそが成長に結びつく、という考え方があるからだ。これ自体を否定するつもりは毛頭ないが、最近話題とされる謝罪の表明に、違和感を覚えるのは、同じ罪を繰り返す人の存在が気にかかるからだろう。再起が何度でも可能であることは、再犯も同じであるとなる。特に、画面や紙面で取り上げられる事件ではなく、身の回りで起きていることについて、犯罪程大きな問題ではなくとも、迷惑や被害を及ぼす事例は数多あり、その度に改めて謝る姿を見せるが、そこに心からの反省があるかどうかは、即座に見抜けるものではない。甘い対応と批判されても、数度の機会を与え、当人の行動を見守ることで、見極める手順をとることが多いのも、間違いを無くすことの難しさからだろう。だが、そんな期待が裏切られることも多く、間違いの意味さえ汲み取ることが出来ず、反省が上辺だけのことに終わることとなる。これが、「情けは」の句の誤解の理由の一つとなったのかも知れない。それにしても、謝罪の意味も解せず、過失の内容が見えない人間は、社会での活躍は期待できない。厳罰が犯罪者に対して課せられるのも、そんな風潮が何かしらの反映をしているのだろうか。
直後にはどんな手立てがあるのか分からず、殆ど噂に頼るような様々な試みがなされた。地道な研究に基づく、確実な成果を約束する手法、などというものは存在せず、闇雲に試され、再現性さえ検討されなかった方法でも、成果があったと噂されれば、即座に試される。だが、期待に反して、殆どが効果を持たなかった。
皆の反応から測れるように、危険性ばかりが強調されるものに対し、地道な研究は行われ難い。ほんの偶に起きる漏洩事故を機会に、様々な手法を試してみたとしても、結果の確かさを調べる為に、同じことを繰り返すことは殆ど不可能だ。同じ汚染の問題でも、重金属や毒物に関する除去と違い、実験そのものも回避される傾向にあり、偶にしか起きないことを理由に、無意味と断定されるのではないか。だが、起きてしまった地域では、確率の問題を取り上げるまでもなく、確定したこととなる訳で、何としても、解決策を見出す必要がある。危険性が無くなるまで、手を出さなければいい、との提案もあるが、現実にはそうも行かない事情が多々あるらしい。そんな中で、無策のままに、例年の繰り返しを進めたいとの声が起き、それを許す決定がなされたと報道される。何処に論点があるのか、未だに明確とはならないが、全てを測定する準備が間に合わないとか、経費が膨大とか、そういった指摘より、汚染が起きない手立てを探ることの方が、重要に思えるのは、こちらが無知だからだろうか。土を育てることが、農家の重要な仕事と言われたのに対し、その土を捨てろという意見に、どう対応すべきか、答えは明らかではない。この状況がどう変わるのか、秋の収穫までではなく、春の田植えまでには、何か見えていないと、混乱の芽が大きく育つだけとなる。
その言葉を生まれてからずっと使って来たのだから、何の問題も無いと信じる人は多い。駄目なのではないか、悪い所があるのではないか、といった形で悲観的に考える必要は、無いと思うものの、一方で、何故的確な表現が出来ないのか、首を傾げたくなる人も居る。昔より増えたとの意見に、納得してしまう所もある。
言葉が連なり、漢字が並んでいる印象を受ける話の中には、全体の意味が通じない、といった感覚が残る。難解な言葉を好んで使う人の話が、意外な程に中身の薄いものとなるのも、何故と思う対象だろう。隣の国からの学生たちが、自らも使い続けて来た漢字の成語を、頻繁に使うのを見ても、中身の薄さとの対比が際立つように思う。拙い言い回しでも、相手に強い印象を与える話は、十分に可能な筈なのだが、話の内容より表現に目が向く人々は、最終的な成果を気にすることが少ない。難解な言葉だけでなく、こういった不自由さが表に出る人々の多くは、全体の構成に工夫を凝らすことも無く、流れを作る繋ぎの言葉にも誤用が目立つ。生まれ育った土地の言葉に、何の違和感を持たないことは当然だが、自分の話が相手に通じるかどうかは、それだけで決まることではない。言葉を知ることは、その意味を知り、使い方に通暁することこそが肝心となる。他人に通じる話は、自分だけの使い方ではなく、一般的な使い方があってこそであり、それを身に付けていなければ、成立する筈の無いものだろう。こんな簡単なことが分からないのか、と思うこと頻りの人も多いだろうが、理解の有無を考えること無く、ただ話をし続ける風潮に、こんな状況は当然と見る向きもある。相互理解の重要性が強く言われる割に、こんな状況が続くのは、何処に溝があるのだろうか。
巷で見かけるおばちゃんたちの、横暴な行動に眉を顰める。一方、年寄りの長話に辟易としたことの無い人は、まず居ないだろう。こんな具合に書くと、加齢現象の一つとして、人間の欠陥が表面化するかのように映るが、現実には、横暴なおばちゃんは、若い頃から傍若無人だったし、長話の老人は、簡潔な話が苦手だった。
齢を重ねる毎に、様々な能力を手に入れ、自らを成長させ続ける。文字を連ねる限り、大した難しさも感じられないが、実行にはかなりの困難が伴う。周囲との関わりや配慮を手に入れ、年の功を見せる人が居る一方、いつまでも成長できない人も沢山居る。違いが何処にあるのか、不明なように扱われることもあるが、現実には、若い頃から既にその兆しは見えている。長話はその典型のように思われ、結末が見えない物語を、縷々として続ける人々は、相手から呆れられても、何をして良いのか分からない。母親にその日の出来事を報告する際、いつまでも喋り続ける子供たちは、母親の暖かい眼差しに見守られて来た。親子の愛情の現れ、と表現される、好ましい姿との見方もあるが、子供の成長と共に、話の長さや構成は変化し始める。忙しい母親に話を聴いて貰う為には、注意を引く必要が出てくる。長々と続く話より、結論を先に出したり、展開を大きく変えたりと、手短にする作業が必要となり、工夫を重ねる。子供にとって、初めての話し相手は、その多くが母親になると言う。ここでの訓練が、その子の将来を決めるとすれば、親の責任は重い。それだけでなく、学校に行くようになれば、そこでの訓練も重要となるだろう。だが、最近の教育現場に、その役割を担わせることに、違和感を覚える人が居る。事柄を覚えさせ、計算をやらせ、といった具合に、決まりきった行為を身につけることに大半を費やし、意思疎通の工夫へは力を注ぐ暇も無い。教え育む環境の不備が、こんな結果に繋がるとしても、不足を感じた本人が、何かしようとすることの方が、重要なのかも知れない。
安定が停滞を招き、改革が望まれる一方、安定こそが第一であり、無駄な変化を不要とする声も聞こえる。どちらが正しいかに答えを出すことはできず、一歩一歩進むことにより、それを確かめるしか無い。それでも、事前に情勢を読み取ろうとする動きは激しく、あれこれと意見や批判が飛び交う。何処に向かうのやら。
制度の変更は、停滞を打破する為の特効薬のように受け取られる。確かに、大幅な変更は、大きな変革を導き、停留した形自体を変えることとなる。だが、実際に絵に描いたように展開することは、殆ど無いのが現実と言われる。その理由は、変更が額面通りにならず、実際の違いが余りに小さく、小手先のものとなるためらしい。鳴り物入りで伝えられたもの程、この傾向が著しく、夢と現実とか、机上の空論などと揶揄されることとなる。今も、世界との差を問題視し、それを解消する手立てを探る人々が、あれやこれやの新制度の導入を訴える。新たなと言えば、聞こえが良いように思えるが、現実には、本質的な変化は殆ど無く、小手先の誤摩化しと、始まってから批判の矢が集中しそうな雰囲気だ。その一方で、別の誤摩化しまでが登場し、両者を天秤にかけようとする動きまで出てくる。実際には、五十歩百歩の違いしか無く、本来議論すべき課題には目が向けられない。安定とは、それほど急ぐ必要も無く、危機感からは程遠い状態にある。それだけに、自由度が増すこととなる筈が、目の前の展開は、全く正反対の様相を呈する。様相を一変させる手立ては、効果より悪影響に注目が集まり、いつの間にか、妥当な線に落ち着く。今回の教育改革に関しても、一見劇的な変化のように見えるものを、妥当な形に落ち着かせ、受け入れられ易くする。その結果、無意味な徒労が始まるとしたら、何の改革なのやら。