パンチの独り言

(2012年3月5日〜3月11日)
(思い出、掛け声、採算、回復、窮乏、気質、自然)



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3月11日(日)−自然

 季節の移り変わりを愛でる。この国に住む人々にとっては、ごく当たり前のことに過ぎないが、そんな楽しみとは無縁の国の方が、遥かに多いようだ。自然豊かな環境を天の恵と受け取る向きもあるが、その豊かさが必ずしも有り難いものとは限らぬことは、中々に難しい状況を招く。災いと書くのは、嫌なのだろうが。
 快不快に関わらず、上から降ってくるのが自然の力なのか。人類は、それを思うがままに操れるのでは、という夢を抱いて、長い時代が過ぎて来た。一時的には、夢が実現したとの思いに至ったようだが、現実は、それほど甘いものではない。最近の考え方は、共に生きるとか、恵みを受けるといった形であり、操るという表現は殆ど聞かれなくなった。だからといって、全く忘れ去られたのかと言えば、そうでもないだろう。技術が進歩すれば、何事も可能となると信じる人は、今でも多くいて、目標へと向かっている。ただ、容易なことではなく、自然の営みの仕組みさえ分からぬ中で、可能とする道が見える気配はない。一部の人々を除けば、身の回りの自然を楽しむことさえできれば、それだけで十分なのかもしれない。それで満足できるかは別にして、大それたことを考えずに、楽しむことに専念しさえすれば、大した苦労も湧いてはこない。それが害を及ぼすものだとしても、そんな成り行きと思うことで、楽な気分にもなれる。春先に襲ってくる自然の脅威にも、為す術無しと諦め、その時期が過ぎるのを待つのは、ある意味一つの付き合い方と言えるのではないだろうか。あれやこれやと治療を受け、時間と金をかけるのも一つだろうが、その一方で、成り行き任せというのも、一つには違いないのだから。

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3月10日(土)−気質

 社会の中での若者の行動が、様々な形で取り上げられる。冷たい視線を送るものや、批判的なものに混じり、自主性の確立や感心を伴ったものがあり、一時代の一方的な評価に比べて、大きな違いを感じさせられる。これは、本人たちによるものか、それとも見る側の変化によるものか、俄には判断しがたい。
 大災害の後、この国の人々は世界中から高い評価を得た。だが、徐々に綻びが目立ち始め、今では、正反対の声が上がるまでになっている。そんな中、社会での若者の評価も、高低入り混じったものとなり、一概に見ることができないのは、どちらも同じと思われる。どんな状況でどんな行動が、といった分類をすれば、だいたいの傾向が掴めるものだが、国民性と評されるように、国ごとに大きく異なる傾向に基づいて、評価がなされるのだから、直後の反応もその類いのものだったのだろう。だが、同じ国内でなされる老若の間の評価には、全く違った事情がありそうだ。にも拘らず、依然として高い評価が残るのは、何か特別な背景がありそうに思える。特に、一部の若者を殊更に取り上げ、それが全体の評価に影響を及ぼすようにする動きには、どんな意図があるのか分からないが、不思議な思惑がありそうに思える。その一方で、若者たちだけで構成される狭い社会では、依然として厳しい声が占めているのは、何故だろうか。一時期話題となった「ゆとり」の話は峠を越え、正常化に向かっていると言われるものの、現場からは悲惨な評価ばかりが届く。社会に出て行く人々の環境の変化ばかりが取沙汰される一方で、彼ら自身の能力の問題は大した関心も呼ばず、悲劇の主人公と見なされているようだ。このところの話題で、最も衝撃的だったのは、偏差値の違いを最も大きく見せる大学の差異であり、その余りの小ささに、若者が共通に持つ問題の大きさが現れているように思える。

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3月9日(金)−窮乏

 弱きを助け、という言葉には、弱い者には援助が必要という意味が込められている。成長に邁進していた時代には、周囲を見渡す余裕も無かったのだろうが、成長が止まり、安定期に入ると、少しゆとりが出て来たようだ。だが、その一方で、経済の停滞は様々な歪みを生じ、心と生活のゆとりの乖離を招く。
 都会の特徴として、一時期挙って取り上げられた、孤独や孤立といった、周囲との断絶は、流行が去ってしまうと、話題に上らなくなっていた。これは、小さな世界への参加が可能となったからではなく、自分の生活を守ることに専らとなり、それぞれが自立した存在のように見えたからではないだろうか。だが、本当に困窮している弱者にとって、何の変化も無く、助けを必要とする状態は変わっていなかった。制度的には、様々な支援を受けられることになっているが、当事者たちにとっては、支援の大きさより、そこにかけられた制約の複雑さの方が大いに問題であり、極端な状況にある人々や、作為に基づく虚飾に彩られた人々だけが、その権利を行使することが出来る。矛盾に満ちた状況に、批判の声は高まるばかりだが、制度である以上、こんな矛盾が生じるのは、ある意味当たり前だろう。そんな中で、困り果てた人々が、行き場を失ったとしても、どうにもならないといった環境は、すぐには変えられそうにも無かった。だから、とでも言うのだろうか、公的な機関が様々な働きかけを行い、少しでも援助の手を差し伸べようとする動きが、当然のように見られるようになる。十分な整備には及ばぬものの、ここまで整えれば、との思いがあったからか、この所の孤立死の話題には、不備を叱責する姿勢が強く現れている。確かに、困った時の助けは有り難いのだが、そこまでに至る道筋に、目を向けぬ姿勢には、何処か冷たい空気が感じられる。

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3月8日(木)−回復

 悲観的な筋書きが好まれているとは言え、これ程長く落ち込んだ雰囲気が続くと、流石に嫌気がさしてくるのかも知れない。丸一年を迎える前に、どんな物語を展開させるべきか、些かの迷いが表面化しているように見える。相も変わらずでは芸が無く、明るい未来では面白くない、現実を前に何ということか。
 冷静な視線を送れば、多くの悲劇が作られたものに過ぎず、役を演じる人々の、過剰な演技に呆れることさえある。だが、それが好まれるからという理由で、何度も同じような場面が伝えられるうちに、いつの間にか、それこそが事実かのような思い込みさえ起きてくる。流す側にすれば、思惑通りの展開と言えるのだが、それさえも筋書きからは大きく外れ、何処に向かうか見えなくなる。流石に不安が催されたか、脚本書きの人々も、幾らか修正を加え始め、明るい展開も時には必要とばかり、多くの悲劇の中に紛れ込ませる。心理的には、どんな展開が好まれるのか、これ程の変動が加えられると、更に分からなくなる。状況の変化に応じること無く、馬鹿げた演出を続ける人々には、大した影響も及ぼさないが、少しの感性だけでも維持する人々にとって、この状況はかなり厳しいものに映るのだろう。当事者たちの窮地に対して、どんな手の差し伸べようが適切なのか、未だに見えて来ないけれど、本人が足元でなく、先を見るようになったことは、大きな変化と言えるのではないか。現実とは、ただ前にあるものだけでなく、それぞれの人の心の中にもあるものであり、それがどんな形で表に出てくるかが、今肝心なことのように思える。

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3月7日(水)−採算

 増税と同じ感覚なのか、と思える部分は大きいのだが、こんな言い方はおそらく受け容れられないだろう。経費が増大したとき、それが価格に反映されるのは、資本主義では当然のことだが、市場原理主義では、それを決めるのは市場であり、製造側が一方的に決めるものでは無いと言う。それを不思議と思うのだ。
 公共性の高い製品では、市場原理が入り込む余地は無いと言われる。競争が本来の形ではなく、ある程度採算性を落としてでも、体制を保つことが必要とされるからだ。電話が普及した後、新たな業者の参入が認可され、価格低下の一途を辿ったことは、よく知られる所だ。その際に、最大の問題として扱われたのは、既存電話線などの使用料であり、その低下こそが第一と言われた。既存だけに、新たな経費は殆どかからず、維持費のみと受け取られるが、そのからくりに消費者が気付くことは無い。電話代が安くなるという声に、吸い寄せられるだけだった。確かに、その後の展開を見ると、いずれの企業も倒れずに済んでいるから、これで良かったとの結論が出るのだろう。だが、その影で、どんなことが起きたのかが、論じられることは無い。この例と同じと言うと、また反対されるかも知れないが、今話題となっている電力供給の話にも、同じことが当てはまりそうに思う。値上げと言う、忌み嫌われる言葉を発した途端に、客離れが起きるのはいつものことだが、無いと困るものだけに、代わりが必要となる。そこに登場するのは、別の業者だが、電話線同様電線は、既存のものが使われる。ほぼ同じ状況と思えるのは、変電設備など、他の設備をも使うことが条件づけられていることで、その使用料の問題は、また出てきそうに思える。傾き続ける企業に対し、更なる打撃が加えられることは、どんな意味を持つのだろうか。

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3月6日(火)−掛け声

 新しいことを始める時、そこには沢山の理由があるだろう。理由は実しやかなものから、とってつけたとしか思えないものまで、千差万別だが、始める人々の意図が反映されていることには変わりがない。難しいことも、簡単なことも、どんなことでも、そこには理由があり、意味がある筈なのだが、どうもおかしい。
 長く続く安定期に、積極性や現状の打破など、簡単には実行できないことばかりが、目立つようになる。だが、マンネリとか停滞とか、そんな批判が飛び交うようになると、大きな変化が必要になる。変化が豊かだった時代に育った人々にとって、変化に恐れを抱くことはないが、安定期に育った人々には、それ自体に恐怖を感じる人が少なくない。よりよい展開を望むことからすれば、変化が必要になる場合も多く、それを忌み嫌っては、何も始まらぬことになる。にも拘らず、そういった行動に出る若者たちが目立つのは、心理的な圧迫感が、冷静な判断をも奪うことになることを表しているのだろう。少し考えれば、無駄なことばかりではなく、意味を持つ変化も見いだせる筈だが、どうもそれほど簡単ではないようだ。となれば、変化を準備し、若い世代へと引き継ぐことも、重要な役目となる。ただ、このところの動きを眺めるに、笛吹けど踊らずの人々に、新たな手立てと報酬を与え、半強制的に動かすことが、当然のように行われ、その多くが効果を引き出せないでいる。なぜ、こんなことが繰り返されるのか。提案する人々の問題とする向きもあるが、結局のところ、その恩恵に浴すべき人々に、依然として消極的な態度が目立ち、何も起こそうとしないことに、大きな問題がある。さて、笛に反応する人々は、出てくるのだろうか。

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3月5日(月)−思い出

 大惨事は突然襲って来たが、それを振り返る企画は例の如くといった感で催される。人間の記憶を確かなものにする為、という見方があるのだろうが、何故規格化されたような話に固定されるのだろう。最も印象深いものを残そう、という話だとしたら、単なる記憶の強化ではなく、一種の修正のように見えるのだ。
 直後から、様々な思惑に操作された情報に晒され、人々は恐怖に駆られながらも、何処か遠くを眺める気分を持たされた。それが遠い過去へと変貌する中で、再び、別の思惑が入り込み始め、更なる変化を施され始める。映像という事実も、編集の操作を加えられ、一部を切り出す作業が繰り返されると、その中に居る人々の状況は、ある一面に集中する形で、報じられることとなる。それも事実の一面と受け取れば、その通りに違いないのだが、全体として、俯瞰する形で伝えることより、一部を拡大する形で伝えることの方が、記憶の強化という目的は果たし易い。強化とは、元々あったものを強めるという意味だが、ここでの作業では、本来無かったものをあったかのように扱い、それを植え付けるというものに見える。何が大切かを考えると、直後の不十分な検討で流した情報より、様々な事情を検討した上で流す情報の方が、遥かに正確な捉え方をしていると思えるが、実際には、どちらも全体の一部を切り出したことに変わりがない。様々な情報を統合する能力が、こういったものに接する際に重要となると言われるが、現実には、その能力が急速に失われつつあり、その問題が顕在化することが同時に伝えられる。経験から学ぶとしても、どれから、何処を、といった問題は、常に検証されねばならない。一方的な解釈に基づく、一種の脚色を施されたものに、どんな目を向けるべきか、もっと論じ合っても良さそうに思う。

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