快適な生活を手に入れる為には、様々な環境整備が必要となる。時代が進むに従って、徐々に取り入れられて来たものに関しては、人間は何故か不感症となり、無意識のうちに受け入れて来た。それが急激な変化を見せたのは、災害などといった外的な要因によるものだが、突然の変化に対応の偏りも著しい。
確かに、害を及ぼしたものに対して、恐怖の感を抱くのは当然の反応だろう。しかし、恐怖の余り冷静さを失い、出鱈目な判断を下すとしたら、一時の錯乱が未来の混乱の種を蒔くことになりかねない。科学技術の発達により、様々な便利さを手に入れ、その楽しさを享受するだけなら、科学の力は絶対のものとなる。だが、事はそれほど単純ではなく、明るい面があれば暗い面があるのは世の常だけに、このところの混乱はそんな両面に直面した為のものと思われる。もしそうなら、その他諸々のことにまで、同じようなことを適用せねばならず、安易な言い方をすれば、昔の暮らしに戻ることこそが、全ての解決に結びつくといえるに違いない。だが、誰もがその意見に賛成しないのは、今の暮らしを捨てる意味も勇気も持たないからで、このままの便利さを維持し、より安心できる環境を、という何とも身勝手な欲求から来るものなのだろう。だが、既にそんな循環を始めてしまったものに、今更後戻りなどできる筈もなく、より良い仕組みを追い求め、ケチのついたものは捨て去るのが良策という考えが社会を独占しているようにさえ見える。だが、その矛盾に気づかぬ愚者は横に置き、もっと冷静に目の前の問題を解決する手段を考えるべきではないか。どの仕組みにも明暗があり、絶対といった決定的なものは無い。その中で、恐怖の対象との付き合いを続けるのも、一つの選択であることに変わりはなく、他の選択が必ずしも望むべき方向とは限らない。こんな時に下らぬ議論を続けるのは、恐怖に焦る人々には辛い仕打ちに見えるだろうが、一時の焦りが後々の大誤算に繋がった事例は枚挙に遑がないほどに積み上げられている。こんな時こそ、冷静な判断が重要なのだ。
何か事を始めようとすると、途端に反対の声が上がる。確かに、標的が見えてしまえば、何処を狙うかもはっきりとして、欠点を指摘し易い。当然のことをしているという気になっているのだろうが、その相手をする側から眺めると、理不尽な感覚さえ芽生える。新しいものが飛び出した途端に、木槌を下ろされたみたいに。
新しいことを考えるのと、目の前に見えるものを相手にするのでは、大きな違いがあることに、批判する側が気づいていないことが多い。批判でも、欠点を指摘し、そこに新たな提案を加える作業が含まれるから、新規創出をしている気になれるからだ。だが、真っ白な画用紙に絵を描き始めることと、誰かが描いた絵に筆を入れることでは、大きな違いがあることくらい、分かりそうな気がする。批判者の多くは、思いつきの範囲が狭く、限られた視野でしかものを考えられない。それに対して、新たな道筋を作り出す人々は、広い視野と幅広い知識を持ち合わせ、何もないところに築くべきものが何かを見つけ出そうとする。どちらの人間も、事を進める上で重要となるのは間違いないが、どうも批判者たちは、批判に終始するばかりで、新たなことを始めようとする人を評価しようとしない。ここに大きな違いがありそうに思える。批判を受け止め修正を繰り返す作業は、提案を成立させる為に欠くことのできないものだが、提案者がそのことを理解している反面、批判する側は提案の重要性に気づかぬことが多すぎる。視野が狭いのだから、了見も狭くて当たり前と、大人を装うのが一番なのだが、食い下がり続ける相手に、辟易としてくることも少なくない。微妙な修正を加え、恰も自分が考え出したかのように装う人に、出遭うようになると、この思いも極まることとなる。今の世の中に溢れる無駄の多くは、なんだかそんなことから出て来ているのではないかと思えるが、どうだろう。
不思議を感じた時に、自分だけなのか、他の人もなのか、気になることがある。発見に結びつく不思議でも、誰も気付かなかったものから、皆が気付いていたものの、誰も重視しなかったものまで、様々あることからして、そんな気持ちを抱くのは当然なのかも知れない。余程鋭い感覚でないと、唯一とはいかぬものらしい。
朝起きて、はっとすることがある。この季節、過剰反応の原因が飛び交い、毎日悩まされ続けている人が多い。だが、昼間の姿を互いに見ることはあっても、夜の様子は知らない場合が多い。症状が悪化するとそうはならないものの、比較的軽い時には、何とか安心して眠りに落ちることが出来る。そのまま何事も無く眠り続け、十分な睡眠を取ることが出来るのは、幸いなことなのだろうが、目覚めた途端に様相が一変することがある。くしゃみ鼻水が、突然襲ってくるのだ。先ほどまで何事も無く済んでいたのが、目が覚めると共に反応が始まる。これは一体どうしたことか。呼吸の仕方が変化したのか、と考えたりもするが、そんな馬鹿なという思いにしか至らない。頭が眠っている時と、起きている時で、何か違った回路が働いているのか、とさえ思いたくなるが、何の根拠も無い。ただ、そこに何かしらの違いを見つけたくなるくらい、突然の反応が舞い降りるのである。多くの人に聞いた訳ではないが、同じような経験を持つ人は居るようだ。治療薬の効き目という意見もあるだろうが、朝食後にしか飲まない人間にとっては、本来の効果からするとそんなに長続きするようには思えない。何がどう違うのか、生き物としての性質だとしたら、どうなっているのか、などと勝手なことを考えるが、結局、答えは見つからない。
何かある度に、不安をかき立てる話が伝えられる。事実と言えばそれまでなのだろうが、事実のうちの都合の良い部分だけを削り出した話に、何の思惑も込められていないとはとても言えぬ。不安を煽る姿勢は、ある業界で際立っているものの、それに群がる人々の存在は、その支えどころか、勢いを増すものとなっている。
不安を抱く心の動きには、生き物が生き抜く為の力が込められている。危険性を察知し、慢心を排除し、色々な状況を把握する為には、悪い面を表に出す必要がある。それが不安という形になるのだが、生き抜く為ではなく、押し潰されそうな気分へと向かうものとなるのは、何かが間違っているような雰囲気を漂わせる。何処でどう間違ったのか、不安を抱く事は、生き延びる為の知恵ではなく、自らの意欲を失わせる無知へと繋がるようになる。内容の理解は及ばず、理解不能の感覚のみが際立つ、そんな行動に、何の違和感も抱かないのは、心の中が不安で満ちているからだろう。未知への不安は誰もが持つものだろうが、その理解を進める意欲を失えば、解消の手立ては無くなる。そこに、更なる言葉が浴びせられ、更なる出来事が重なり、沈み込んでいく姿に、差し伸べる手は見つかりそうにも無い。他からの影響により、不安の淵に沈んでいるように映るが、現実には、浮かぼうとする意欲が失われ、自分の力を発揮する機会を捨てているのではないか。様々な言葉に踊らされ、振り回されるのは、実際には無知から来るものだとするのも、渦中の人々に冷や水をかけるものと批判する人が多いが、自分の心の中に芽生えた不安を消し去るのは、やはり自らの力を信じるしか無いのではないか。癒しや導きといった話ばかりに群がるようでは、何ともならぬ事なのだ。
自分たちの意見が汲み上げられるという理由で、民主主義に希望を託す人は多い。確かに、人々の意見を集約し、それに基づいた判断を下すというやり方は、区別も差別も無く、社会の構成員にとって公平な扱いを保証するように映る。だが、投票が行われた途端に、少数が無視される事に、不公平を思う人も居る。
投票に至る前にも、調査という名の下に情勢が見極められる。そこから見えてくるのは、有利不利の違いなのだが、蓋を開けた途端に、明暗が決せられる。より多くの賛成が得られたのだから、という考えに基づき、ある意思決定が行われるのだが、これで良いのかという疑問が残る。少数の意見は全て捨て去られ、多数のみが残るのは、一部とは言え、意見が無視される事になるからだ。民主主義とは何処か違ったものなのでは、と思いつつも、賛否を問う手立ては重要であり、最終的な意思決定の手段となる。これを当たり前と思いつつ、別の光景を目にすると、それは別世界の出来事のように見える。調査から少数派とされた人々が、画面を埋め尽くして、怒声を浴びせる姿に、何を感じるか。多くの人が、一握りに過ぎないと、切り捨てていた時代と違い、目に触れる機会の多さが、心理への影響を強くする時代には、こんな見せ方を民主主義と思う人も多い。自らの生活を守る為、と称する人々の狂気に満ちた行動を、どんな心持ちで眺めるか、揺らがない人間には想像がつかない。同種の恐怖を演出した話については、賛成を表明する少数派が特別扱いされ、批判を浴びていた。同じように少数を構成する人々に対して、同じような扱いをしているように見えて、何か大きな違いがあるように思える。何が問題か、まだ見えていない。
何度も書いて来た事だが、安定した社会が長い時代続く中では、同じ事が繰り返され、大きな変化が起きない。その為、同じ事を如何に巧みに行うかに課題が集中し、傾向と対策に力が注がれる。だが、横並びが当然となれば、高まる閉塞感を打破する勢いは期待できず、安定はそのままに水準が下がっているようだ。
皆が同じ環境におかれていれば、特に目立った変化は起きず、安定という見方からすれば、何の変わりもない。その割に、何処か違和感を抱く人が増えているのは、先行き不安から来る閉塞感もあるのだろうが、今立っている場所が、まるで地盤沈下するように、沈み込んでいるような感覚を覚えるからではないか。そんな不安があっても、大きな変化が出て来ないのは、自分たちの問題とともに、外の変化も拡大しない事情がありそうだ。平和は歓迎すべきものであり、その維持に力を向ける必要は、いつの時代にもある。しかし、それが安定そのものに繋がり、停滞へと結びつくとしたら、そこには何らかの要素が欠けている事にならないか。経済成長の嘘は、今更取り上げる必要は無いものの、一方で、安定という感覚的なものの問題は、それとは異なる成り行きを考えるべきものに思える。特に、社会保障制度に関して、安定が恰も悪化の原因とする考え方は、常に成長を前提とする事から来るようだが、その前提を取り除いてこそ、安定の中の整備を考える事が出来るだろう。何が足らないのか、と考え始める前に、前提を排除して、そこから始める以外には、何も出てきそうにも無い。何が必要か、不要なものを除かないと見えて来ないのではないか。
横並びはいけない、独自性を育てるべきだ、という声は、成長を続けていた頃から、大きくなっていた。このままでは、早晩限界が訪れ、袋小路に迷い込むという話に、耳を傾ける人が居る一方、そんな筈は無いと否定する声もあった。結果は明らかとなったが、それが独自性の不在によるものかは明らかではない。
ただ、横並びの弊害をあれほどに伝えた人々も、独自路線を歩むことの危うさに、躊躇していることだけは見えて来た。何か事がある度に、皆が挙って取り上げ、同じ視点から同じ話を続ける。重要な事柄になればなるほど、その画一性は高まり、何処を眺めても同じ話題が連なる。一年を経過して、どんな事があったのか、振り返る姿にはそれぞれに違いがある筈なのに、画面や紙面を飾るものは、殆ど同じになる。それほど大きな衝撃だったとの解釈も可能だろうが、人それぞれの見方が同じであるとは、俄には信じ難い。その情報を集める人々が間に入り、篩をかけた結果として、同じになる事は十分に有り得るだけに、そちらに気持ちが傾くのもやむを得ない。行事として、同様の事が行われるのは、当然の結果とは思うけれど、それを取り上げる人々が、同じ台本に従って動いているように見えるのには、違和感を覚える。脚色を施したかは定かではないものの、同じ光景が映る画面には、何か別の力を感じる。効果を狙う姿勢を、一方的に批判する事は良くないかも知れないが、報道という立場で、より強い印象を残す為の演出は、正しいものとは思えない。それが横並びになればなるほど、違和感が強まるように感じるのは、同じ効果を同じ演出で狙う、不思議な行動に目が向いてしまうからだろうか。