パンチの独り言

(2012年3月19日〜3月25日)
(教養、異変、危険、一方的、盛り、無恥、受身)



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3月25日(日)−受身

 季節の移り変わりが教科書通りに運ぶことは無い。色々な例外を伴いつつ、それでも何とか全体としては滞り無く変わっていく。季節が一つ飛んでしまっては、四季などという言葉は無くなるし、様々な弊害が出てくるだろう。愛でる対象が無くなってしまっては、生活の潤いも失われ、楽しみなど吹き飛んでしまう。
 どうも変だ、という声が多く聞かれるが、その一方で、少し遅れたとは言え、やっとのことで間に合ったものもある。期待した暖かさは安定せず、まだ油断できない状態にあるけれど、それでも朝晩の冷え込みは緩み、昼間の気温も徐々に上がって来た。それでも、自然の営みを見渡すと、遅れ気味のものは依然として歩みが鈍く、一夜にして変化するとはいかぬようだ。早過ぎるのも困るが、遅過ぎるのも、と勝手なことばかり言い続ける人々にとって、恰好の標的が出来たようなものだが、どんな具合だろう。人間たちの社会と違い、自然はちっぽけな存在の戯言に振り回されることなど無い。こちらの都合はそれとして、聞き流すどころか、耳も傾けてさえ居ない。思い通りにならぬことに、腹を立てる人も居るのだろうが、そんな傲慢さが何の役に立つのか。一方で、不安をかき立てられ、日々の暮らしさえ危うくする人々も、自分で書き上げた脚本通りの展開に、どんな思いを抱くのだろう。何があっても受け入れるという考えが必ずしも正しくない、という意見もあるのだろうが、自然の温もりも厳しさも、小さな存在には何ともならないものであり、無駄な抵抗は無用なのでは。

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3月24日(土)−無恥

 恥という言葉と結びつく教えは、思いつくままに挙げても、次々と出てくる。旅の恥は、とか、聞くは一時の恥、とか、生き恥をさらすなどといった表現まで出てくる。この国を支配する考え方を、「恥の文化」と評したのは、海の向こうの女性学者だったそうだが、戦後の発展はこんな伝統さえ、捨ててしまったのだろうか。
 独り言を読む人々の多くは、未だ「恥の文化」の中で生きていると思うが、いつの間にか、そんな人の数は減り始めてしまったようだ。それより優れたものとして、自らを「罪の文化」の中に置き、様々な批判を浴びた考え方も、極端過ぎるものとして、好まれる存在とは言えなかったようだ。ただ、言われた側には納得できる部分もあったようで、一つの見方として長いこと心の片隅にしまわれていた。それを今頃引き合いに出すのは、時代錯誤も甚だしいと言われかねないが、人間性の変化という視点から、改めて取り上げてみることにした。間違いを繰り返さない為に、罪と罰という考え方を優先するか、他人の目を気にする考え方を先とするか、東西の文化の違いが、そこに現れていたとしたら、現代のこの国で豊かさを享受する若者たちには、その伝統は価値あるものとも、意味あるものとも、映らないようだ。権利を手に入れることばかりに心が奪われ、それに伴う努力や必要となる水準に目が向かない。不思議に思うのはこちらの方ばかりであり、当人たちは権利を当然のものとしか見ない。そこでの不手際は、まさに恥をさらすこととなるが、それを恥じるどころか、権利が手に入らぬことを悔やむばかり。こんな心理では自らを磨くことなど有り得ない、と思うのも、こちら側の勝手な思いか。

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3月23日(金)−盛り

 季節のものを愛でる。そろそろそんな時期がやって来たようだが、いつもの年に比べて、異常に思える程に遅れていると言う。春の足音が聞こえ始めるのも、随分遅れ、心配する人も多かったが、同じ科に属するからか、本格的な春の訪れを伝える花も、今年やゆっくりとしか歩を進めていないようだ。
 暖かさを運ぶ風も、吹く機会を失ったらしく、異常の声は大きくなるが、いつものように春を告げているものもある。穏やかな湾で網ですくわれる小魚は、ある地域では春の風物詩として、家庭料理に使われる。他の地域に住む人々には、想像もつかないだろうが、キロ単位で買って来た新鮮な小魚を、調味料を混ぜた中で煮るだけで、簡単に佃煮が出来るのだ。その地域では、近所に配る人も居るようで、互いに交換することもあるという。連日作って配り歩く人も居るという話には、おそらく驚きだけが残り、その理由は理解不能となるのではないか。旬のものを味わうことの悦びは、経験したことのある人にしか理解できない。農産物だけでなく、水産物にまで、養殖技術の発展が及び、本来なら口にすることが出来ない季節に、見かけるようになった。珍しいものを手に入れたい欲望に、こんな形で応える商法は、一時は勢いを増すのだが、いつの間にか珍しさが無くなり、ごく普通のものとなる。ただ、珍しさが先行しただけに、味の問題が取り上げられることは少なく、旬を破ってまでも、求めた結果を論じることは少ない。そんな中で、未だに旬を楽しむことが出来るものとして、その人気は衰えることは無さそうだ。加工品の値段を見る度に、自作の悦びだけでなく、値ごろ感も満足に繋がることとなる。

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3月22日(木)−一方的

 表現力にとって、言葉を操る技術が最も重要なものと言われるが、異論もあるのではないか。言葉を的確に選び、論理も構築できているのに、目の前の人間は不思議な顔を続けたり、的外れな反論を浴びせる。送り手にとって、表現力不足を指摘されそうな状況だが、単に受け手の問題とすべき時もあるからだ。
 意思の疎通にとって、どちらか片方だけの責任という話にはなり難い。相互理解には、送る側の表現力だけでなく、受ける側の理解力も問題となるからだ。それが多くの場合、表現する側の問題にされることが多いのは、その時点での不正確な形のものは、如何なる理解力を持ってしても、本来の形に戻ることが少ないからだろう。だが、そんなことばかりに皆が注目した結果、理解力不足が問題の核心とされなくなったことは、かなり大きな問題を産んでいるように思える。どんなに言葉を選び、単純な話にしたとしても、理解力の足らない人間には、難しい話との区別が出来ない。色々な所で問題となっていることの多くは、実は双方の力不足の組み合わせ、といったことから来ることがあり、それを一方的な責任へと結びつけ、判断の誤りへと導く。こんなことは、社会でも、組織でも、どんな所でも起きているのだろうが、不的確な手当てに対して、何らかの措置がとられることは少ない。何が悪いのかを考えず、ただいつも通りの対応を続けるだけでは、この問題の解決は遅れるばかりだろう。どうすれば良いのかは分からないが、誤解を解かないままでは、何も始まらないように見える。

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3月21日(水)−危険

 危険なものを目の前にして、心穏やかで居られる筈は無い。そんな心遣いからだろうか、冷静な判断よりも、心情の理解が優先されているように見える。人々の生活を守るという観点からすれば、様々な要素を総合的に考慮してこそ、公正な判断が出来ると思えるが、現状は程遠い所にあるとしか言えないのではないか。
 公平とか平等とか、そんな言葉が顔を出す度に、とって付けたかの如くの論法に、嫌気がさしてくる。全員が同等の権利を得る為に、同等の役割を担う、という話には、小さな社会であれば可能だろうが、少し大きさを増せば、あっという間に破綻する危うさが見える。地域による違い、立場による違い、そんな違いが次々に飛び出し、平等という観点だけで、総合的な判断が出来るとは思えない。根本的な違いがある所で、どのような形の平坦化が出来るのか、それぞれの差異を認め、その間での役割分担を既存のものとし、それらがある中で、どんなやり方が公正と見なせるのか、を考えていかねばならない。にも拘らず、今目の前で展開されている物語には、不公平という言葉が、心の問題として扱われ、感情を優先することばかりが進められる。周囲の人間の不平不満を聞き入れ、最適解を導くことは、一見正しい道に思えるものの、範囲が広がれば、全てを組み入れることは不可能となる。当然の展開に思われるが、それがそうならない所に、人間社会が抱える問題がある。豊かな生活に必要となる電力を、どう供給するかが問題とされるが、ある危険性のみに注目した判断では、明らかな誤りを導きそうに思える。それぞれに異なる危険度を持ち、違った危険性を抱える。それを見ないようにして、一つのことに目を向けただけの判断では、また間違いを繰り返すだけだろう。安全を第一と考えることが悪いとは言わないが、安全の基準が定まらぬ中で、こんな議論が罷り通ること自体に、最も大きな危険があるように思う。

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3月20日(火)−異変

 異常を見つける感覚や決断を下す精神、そんなものに目が向くのは、震災のせいなのかも知れない。だが、この注目には筋の違いが感じられる。油断大敵と表現されるように、皆が微温湯に浸かっていた感覚を、厳しく批判するもののように扱われるが、実際には、別の横並びを促しているに過ぎないように思える。
 安全安心という言葉が強調されるのは、それが不確かなものになったからなのだろうが、その原因を探る代わりに、別のものに頼ろうとするのでは、根本的なことを解決しようとしているとは、とても言えない状況にある。確かに、何も難しいことを考えなくとも、誰かがそれを保証してくれさえすれば、庶民はそれで満足するのだろう。だが、この話の元となっていることは、油断にこそ問題があるということで、それは人それぞれにどんな感覚や精神を持つべきか、ということに繋がる話ではなかったのか。周囲からの指示や思い込みに基づき、身勝手な判断を下した結果、悲劇に見舞われた人々に対して、批判の声が上がったのは、直後ではなく、暫く時が経過してからだった。被害者に更なる批判を浴びせることを良しとしない国民性は、こんな時に改革の歩を緩めることに繋がるが、今回もそんな雰囲気が溢れていた。しかし、流石に大き過ぎる被害に対して、このままではという思いが過ったのか、潮目が変わるように流れが変わった。自分の方から変えたのだから、良い方向にとの期待は見事に裏切られ、また、別の形の依存の仕組みが取り入れられようとし、その整備へと進もうとしているようだ。数値に惑わされる気分に変わりは無く、また間違いを繰り返すのでは、どうしたものか。

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3月19日(月)−教養

 安定成長を続けていた時代、人材に求められたのは、高い専門性だったのではないか。その為か、教育の現場でも、専門教育に力が注がれ、一部を尖らせることばかりに、注目が集まった。その結果とは言えないだろうが、いつの間にか成長が鈍り、止まり、下り坂に入った時、描かれた人材が無駄に思えて来た。
 専門に詳しいと言っても、それしか出来ない人々では、停滞期に入った時の打開策は、講じられない。こんな事態に陥ったのは、時代の問題と片付けるのも一つの手だろうが、現状は、全く違った所に原因を見出した方が良さそうだ。専門という尖端的なものに目が向かい、広い知識の必要性に目を向けなかった結果、専門馬鹿と呼ばれる人種が社会に溢れ、役立たずと見下される存在となった。しかし、それが組織の大勢を占める状況では、改善を図ろうにも無理ばかりが目立ち、方向も定まらぬ事態となる。流石に、社会全体の問題と見なす向きも出始め、根本解決の為の声が高まって来た。だが、その声に何が悪いのか分からぬままに、違和感を覚えた人も多いのではないか。幅広い知識とは、昔風に言えば教養であり、専門がもて囃された時代に、忌み嫌われた存在なのだ。それを今更、どう取り上げるのか、現場ではかなりの戸惑いがあるだろうが、幸いなことには、教えを受ける存在の劣化が著しく、その改善への手立てが、まさに教養教育にあるとの見方があることだろう。挙って教養を強調する風潮に、異変を感じるのは、同じような人々が以前は専門を強調していたからで、そこに確固たる裏付けが無い点にこそ、大きな問題がある。安定期には、こんな愚行も許されるというものかも知れないし、所詮、教育とはその程度のものかも知れない。いずれにしても、試されるのは、教える側ではなく、教わる側なのだから、困ったものだ。

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