パンチの独り言

(2012年3月26日〜4月1日)
(職業、激励、分かる、正論、虚飾、筋書き無く、継続)



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4月1日(日)−継続

 いつの間にか一昔前となった。十年前にちょっとした思いつきで始めた作業は、時に書くことができない時期もあったけれど、こんなに長い期間続くものとなるとは予想しなかった。元々、地道な積み重ねが苦手な人間が、こんなことを始めたとしても、長続きする筈が無いと思うのは、当然なのだから。
 小さな頃から、継続という言葉が向けられる度に、何とも嫌な気分が漂ったものだ。周囲は心配や懸念から、そんな言葉を投げかけていたのだろうが、当人は、そんなことには無頓着であり、できれば思いつきだけで生きて行きたいと思っていた。所詮、それだけの人間であることは確かであり、無駄としか見えない努力を強いられることも、自分から進んで試してみようとも、そんなことが起きることは無かった。何故、書いてみようと思ったのか、と問われれば、答えは簡単に出る。こういう場所を管理するにあたり、ただ漫然と下らない人間の落書きと格闘するだけでなく、何か自分なりの考えを書くことが、自らにとって意味を持つのではないか、と思ったからなのだ。だからといって、すぐに、それが続くものとは思っていなかった。始めの頃の言い訳じみた書き込みからは、すぐに諦めの境地に至り、今まで同様、投げ出すことになりそうな気配が滲み出ていた。それでも、細々と書いているうちに、何となく習慣化してきて、何処かに出かける際にも、通信機能のついたものを持ち歩いたり、そんな場所の提供を事前に調べたりと、熱心さが前に出て来ることになった。こんな様子と流れを振り返ってみると、現代社会の書きなぐりの流れが、この気楽さから出ているような気がする。でも、十年はどう考えても長い。今後はどうなるか、やっぱり判らないままなのだが。

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3月31日(土)−筋書き無く

 茶番に終わるのか、田舎芝居なのか、劇中の人物たちも、本当の所は判らないのではないか。勢いがついた末に、何処に向かうのかが不鮮明となり、その一方で、ある結論が導かれる。関わった人々にとっては、一つ一つが重要なことに見えて、現実には全てが幻に終わることさえあるのだから。
 今までとは明らかに違う態度に、本来ならば期待を抱くのが普通だが、身銭を切らされる立場にとっては、理不尽な行動にしか見えないのだろうか。どうにも煮え切らない態度をとる人々は、兎に角悪者になるのだけは避けようと、様々な工夫を凝らす。しかし、嘘を吐きたくないとか、騙したくないとか、そんな言葉を並べているのを見ていると、あの手の人々には、軽重の区別がつかず、好悪ばかりが気になるようで、国の命運を左右するような決定は、できないものらしい。宰相として評価が高かった人物も、非常事態の中での活躍ばかりであり、平和な安定期には、手詰まりとなると言われているが、それはある意味当然のことではないか。非常事態、緊急、危機といった言葉が並ぶ中では、いくら能天気な国民とても、穏やかな気分を保つことはできない。日々、自らの命が脅かされる中で、どんな形でも、解決法を示してくれれば、それに縋りたいという気になる。それが正しいか間違っているか、更には自分自身にとって有利か不利か、そんなこととは無関係に、今の状態を脱することさえできれば、という欲望しか無い中では、様々な方策が実行可能となる。だが、安定した平和が長く続く時代には、危機感を誘う手立ては簡単には見つからず、改革は殆どの場合頓挫する。現状で十分だからこそ平和が続く。だが、いつかは断崖絶壁に出くわすこととなる。その時、何をどうすれば良いのか。危機が訪れたから、救世主が、とは必ずしもいかないものなのではないだろうか。

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3月30日(金)−虚飾

 報道の姿勢に、様々に苦言を呈して来たが、今回は流石に声を荒げたくなった。ある研究者がこの国を離れる、と報じる内容に、誰がどうして、と思うのは、画面を見つめる人の殆どが感じたことなのではないか。だが、その人のやって来たことを、少しでも見聞きしたことのある人間は、全く違った反応を示したろう。
 時流に乗ることを優先し、そこにあるべき基本的な考え方に、何の思慮も感じられない人間は、現代社会では、上手く立ち回ったとして、時には羨望の眼差しを向けられる。だが、その人間性には、大きな欠陥が見え隠れし、利害のみで動き回る人間が、研究により本質を明らかにしようとする期待は、失われていく。庶民にとっては、汗水たらして納めた税金が、自分たちの生活に役立つ研究へと注ぎ込まれることに、反論を唱えることは無い。だが、何の役に立つのか分からぬ研究に、莫大な資金が注入されることには、違和感を覚えるだけでなく、声が届くのであれば、止めろの一言を浴びせたいと思うだろう。科学技術の発展にとって、基礎だろうが応用だろうが、地道な研究が重要なことは、誰の目にも明らかなのだが、その一方で、数多ある研究の中には、華々しい期待の声に反して、何の成果も挙げられないものも沢山ある。始めに取り上げた人物は、その舞台に突然登場した人間として、当時話題の中心に居た。役に立つかが明確にならない目標に、様々な言葉で飾り付けた計画が、一部の支援を受けられることになり、いつの間にか、それまでの中心が外され、その代わりとして、まんまと中心に座った。だが、始めから期待の泡は膨らみ続け、はじけることが見えた時、本人は違う場を見出したようだ。移籍場所は明らかにそれを表しているにも関わらず、報道は全く違う視点で頭脳流出を嘆く。またぞろ、あの滑らかな口調に騙された人が、全国に向かってこんな嘘を流すのか、と思うこと頻り。

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3月29日(木)−正論

 当然のことを言ったり、書いたりしているだけが、正論という言葉で括られる。正しい論を展開することに、何の間違いがあるのか、と思うのだが、正論を使う人々の心理には、その意見に対する異論が渦巻いている。そんな指摘に喜びが起こる筈も無く、嫌な思いのみが残ることには、言葉の使い方の誤りのような感覚がある。
 確かに、表立った反論をする訳でもなく、明らかに異論を唱えようとする訳でもない。にも拘らず、相手にそんな気分を味わわせるのは、本当に意味のあることなのだろうか。正論の言葉を使わずとも、そこに正しい論理があることは、態度で十分に表せる筈が、余計な一言によって、互いに気まずい雰囲気のみを残す。世の中はそんなに単純ではない、とでも言いたげな態度に、それならそんな言葉を吐く代わりに、反論を展開すれば、とさえ思いたくなる。ただ、反論が無駄に終わることが、始めから明らかになっているだけに、言葉として「正論」しか残らない、となる訳だ。であれば、どんな表現や態度が必要なのか。人それぞれに対応は違うだろうけれど、無駄を知りつつやってみることの重要性は、薄れることは無いだろう。何故かと問われても、やってみたらとしか返答のしようは無い。環境を見る限り、無理筋としか思えないとしても、やってみることが必要、というのでは何の役にも立たない、と言われてしまえば、反論の余地はないのだろうか。だが、と思うのは、正論を吐く人間の特徴かも知れない。そんな社会にどれほどの意味があるのか、などと考えたとしても、自分たちが暮らす社会はそこにある。少しでも変えられれば、という思いは、こんな形で水泡と帰すのだろうか。

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3月28日(水)−分かる

 分からないことを恥ずかしいと思うことは、必ずしも全ての人に当てはまるものではない。恥の文化の話をもう一度、とは思わないけれど、最近の傾向には、不思議なものがあるように思える。例えば、誰にも分かるような説明が求められるとか、何も考えなくても直感で分かるように工夫をするとか、そんな所に。
 理解できるかどうかは、人それぞれの能力にかかっていると言われる。だが、先ほどの分かる話には、そんなことは無関係な前提があるのではないか。全ての人が理解できるように、という姿勢を表明することが、何よりも重要との見方は、一見正しいものに思えるが、その一方で、状況によっては不可能なのでは、とも思える。分かり易い説明とは、まさにその為のものの筈だが、直接的な説明より譬え話を優先し、全般的な内容より、一部を抜き出したものが好まれる。その為、正確な表現が脇に追いやられ、理解できる範囲に留まる形で、簡単な部分だけのものとなることがある。それでも分かって貰うことの方が先、と思えば、これも当然のものとなるが、そこでの焦りが、真の理解を妨げ、結果的に多くの誤解を産むとなれば、明らかな誤りとすべきとなるのではないか。これが情報の送り手にとっての大きな課題と捉えられるようになってから、様々な問題が生じているようだが、実際にはその問題が説明不足から来るもののように扱われることが多い。簡単にすることにこそ、問題があると捉えれば、もっと違った対応を考えねばならないが、明らかに誤った対応を続けることで、解決への道は遠退くばかりとなる。原因を探れば、おそらく受け手の問題こそが重要との意見も出てくるに違いないが、一度説明責任なる言葉が出てくると、あらゆる責任が一方的に設定される。意思の疎通では、互いの歩み寄りこそが重要の筈なのだが。

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3月27日(火)−激励

 次代を担う人々を励ます手立てを、という言い回しを良く聞くが、それが本当に役立つものとなるかは、全く別の見方が必要だろう。一見、他人の為と称することが、第一のように扱われるが、現実には、その発言の主が考えた一つの手法に過ぎず、多くの場合、次世代の人々の心に響くものでないからだ。
 一方的な押しつけに過ぎないものを、こんな形で人々の前に置くことは、若者の為と主張する人々の、現実からは少しずれた提案なのだろう。だが、対象となる筈の人々からは、何の反応も無く、ただ変化に応じようとする動きが出てくるだけとなる。これが単純な励ましと同じかと問われれば、多くの人々は一つの変化として受け取る以外には、何の感覚も持たない。この辺りの世代の隔たりは、今に始まったことではなく、ずっと続いて来たものなのだが、以前との大きな違いは、そこに歩み寄りのような姿勢が示され始めたことで、それが恰も重要なことのように扱われることだろう。実際には実情に合わない変更と、度重なる変化に対して、対象となる人々は振り回され続ける。効果を優先する考え方から、続々と新手を編み出すことこそが重要視されるが、真に必要とされることや要望に添ったものは、多くの場合取り上げられることが無い。一方的なことを批判するだけでは、不十分と思えるのは、対応に腐心する人々に、自らの望みが見えて来ないことであり、やるべきことは対応しか無い、という状態には、手立てを編み出した人物の思惑も、本当に必要な整備も、満たされないことが現れている。何故こんな状態に陥ったのか。一つには与えられることに慣れた人々の存在と、この機に乗じて自らの地位を築こうとする人々の存在が、巧みに組み合わされた結果があるのかも知れない。

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3月26日(月)−職業

 玄人と素人の違いは何か、と問われれば、多くの人は、それによって収入を得ているか、と答えるのではないか。同じ競技を行う人を、そんな形で区別したのは、それが実力の差を表すものであり、就業時間外にしか練習を積めない人と、四六時中練習をしている人で、そんな差が生まれると言われて来た。
 歴然とした差、と言われて来たうちは、この区別も成立したのだが、いつの間にか薄っぺらな差もあるかないか、はっきりしなくなり、何の為かさえ分からなくなり、その上、企業に雇われていた人が、働く場を失い、競技そのものの活動から、糧を得る必要が出るようになると、区別は一段と怪しいものとなった。どちらにしても、実力を競う世界だけに、結果は明確に現れてくる。それと所属する組織との問題を論じる向きもあるが、批判には便利としても、実力向上への答えが出せる訳ではない。競技での玄人と素人の差が見えなくなるのは、実力による判断からだが、それ以外の場所でも、最近その区別が出来なくなっている。ずっと昔、全国区なる制度があった時期には、人気取りの人選が問題視され、人数合わせの意味を問う動きが出た。これにより制度の変更が起きたものの、あの職場では、依然として俄と呼ばれる人々が、大きな顔をして怪しい持論を披露する。その裏で、拠り所と慕う実力者にすり寄る姿からは、生き残り以外の考えは見えて来ない。あの世界に、玄人という考えがあるべきかは、歴史を振り返る限り、はっきりとはしないものの、現状の高収入に支えられた人々の姿からは、その区別は明確である。にも拘らず、任期中に目立つことも無く、徐々に忘れ去られる人々の姿には、素人の影しか見えない。そんな連中を選ぶ人の識見には、本来ならば、もっと厳しい目を向けるべきなのだろう。

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