パンチの独り言

(2012年4月2日〜4月8日)
(悪化、徒為、科学、青い鳥、馬車馬、変異、変心)



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4月8日(日)−変心

 遅い、と心配しているうちに、いつの間にか、その季節がやって来た。季節の移り変わりは、少しの違いを表しつつ、結果的にはいつも通りに進む。不安などという言葉が毎日のように聞かれるこの頃では、いつも通りは過度な緊張を解すことになるのではないか。春の訪れに心躍らせるのも、そんな現れの一つなのかも知れない。
 大きな変化に見舞われた時、それまでの安心は消し飛び、安定さえも危ういものとなった。深い考えを持つこと無く、ただ漫然と過ごして来た人々に、特にそんな圧力が強くかかったのだろうか。他人の意見に惑わされることの多い人々は、浮かれ易さをも持っている。不安に沈んでいるように見えた人々が、花見の宴で騒ぐ姿を見せると、はて何のことかと疑問が浮かぶ。だが、そんな浮き沈みを見せながら、人はその命を繋げているのではないか。ただ沈み続けることや、ただ浮かれ続けることでは、命を保つことも、生活を為すことも叶わない。不安定を悪いもののように捉える人にとっては、こんな意見はとるに足らぬものに見えるだろうが、浮き沈みは、それなりに当然の成り行きと見るべきだろう。但し、上がったり下がったりがあるからこそ、その意味が出てくることになる。春の訪れを悦び、それを楽しむことが憚られたとき、人々の心はそれまでに無い不安を抱かされた。それをそのままに持ち続ける人も居るだろうが、花見の宴を見る限り、多くの人の心には違ったものが芽生えているように思える。良い事と手放しで喜ぶのは早いだろうが、それでも、心境の変化は季節の移り変わりと共に、ゆっくりと進んでいる。

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4月7日(土)−変異

 例年ならば春先に数えられない程多くの白い大きな花をつける樹が、今年は何も付けていないかと思う程、静かに佇んでいる。徐々に暖かさが感じられるようになり、ふと見上げてみたら、やっと十にも満たない数の花が寂しそうに開いていた。花芽はいつの間にか落ち、花の後に出てくる葉芽が早くも覗いている。
 こんな光景を見れば、多くの人は異常を思い浮かべるだろう。地面の大きな揺れが何かを及ぼしたとか、いつまでも続く冬の季節に時機を逃したとか、はては、放射能がとまで言い出す人が居そうだ。そうでなくとも、本格的な春の訪れを告げる薄桃色の花も、堅い蕾が中々膨らまずに居た。こんなことを次々に並べ、異常を証明したかの如く装う人々にとって、今年はまさに時が訪れたと思えるのではないか。普段の異常さに比べ、格段に多くの材料が揃い、それを並べるだけで、楽しみが盛り上がる。そんな人々の気持ちを理解することは難しく、偶然の一致の如くの論理を受け入れるつもりも無い。だが、一部の人々は、自らの不安を確実なものにする為に、耳を傾けているようだ。不安定な意味での不安を、何故に、確実化したいのかも、理解不能な要素の一つだが、今の社会では、そんな傾向が強まりつつある。自然の営みを楽しむどころか、そこに悲しみや苦しみを見出そうとする動きには、賛同する気持ちはさらさら無いが、そんな人々の心の動きに対し、掛ける言葉は依然として見つからない。そっとしておいて、何が起こるのか。

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4月6日(金)−馬車馬

 話をするのが厭になる程の人が居る。何を言っても同意せず、自分の意見を押し通す。それが正しいことならば、厭になることも無いのだろうが、明らかな間違いを押し通そうとし、その誤りを指摘されても納得しない。こんな人物の相手は、誰もが嫌がるものだろう。でも、今の報道やネットには、こんな人が溢れている。
 目の前に居る人間であれば、無駄と分かっていても、遣り取りを続ける努力をするかも知れない。だが、画面の向こうにいて、勝手気侭な論を展開する人や、悦に入りながらキーを叩く人たち相手では、遣り取りは成立しないか、無視されるのが関の山といった所だろう。こういった頑迷な人の多くは、あるものに拘る傾向が強い。拘りは肝心なものを見出す為に必要なものの一つだが、全体的な視野を保ちつつ、集中することによって、初めて発見へと繋がるのに、頑固な人の拘りは、他のものには目もくれず、それしか視野に入らないという欠陥を伴う。一大事となれば、話題のことだけに注目し、周辺の事情を汲み取る努力は行わない。というより、何と何がどんな繋がりを持つのか、そんな思考回路が存在しないのではないか。関連性を読み取り、その繋がりから芋蔓式に、本質を引き出すという手法は、ごく当たり前のものとされて来たが、最近の傾向は、全く逆の様相を呈する。他人が示した一欠片の情報を頼りに、全ての思考を始めようとするから、考えは広がるどころか、一点に収束するしかない。他人の意見に振り回され易いのは、疑いを挟むことを知らないだけではなく、視野を広げる手立てを持たないからなのではないか。危険を察知するという大切な行動に於いても、目の前の危険ばかりに目が奪われ、周囲を見回すことをしない為に、結果的に、一つは逃れられても、次のものに襲われることとなる。一つずつ片付ければ、という指摘もあるが、次が来ることが見えていて、一つずつも無いものだ。

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4月5日(木)−青い鳥

 危険という言葉は危うすぎて聞きたくない。誠にその通りとでも言いたくなる意見だが、では、安全という言葉は安心だから心地良い、とでもなるのだろうか。安全安心を追い求める人々には、どんな心理が働いているのか、そうでない人たちには全く理解できないだろう。追求することのみが目的となっている場合でも。
 自らの生活が脅かされた時、それへの対応に努めるのは当然のことだ。だが、その必要が無いとされた時、何もしなくていいということになるのか。安全を手に入れる為には、あらゆる努力を惜しまないという人でも、危険の全く無い世界の存在は、信じていないだろう。死を恐れるあまり、死を逃れる手立てを講じる、というのは、昔の王様が追い求めて来たことだが、それを手に入れた人は未だに存在しない。ある海洋生物が、再生を繰り返していき続ける、という話題が取り上げられるのも、そんな夢の実現との繋がりからなのかも知れない。夢は夢として、そのままにしておくのが良策と思うが、実現できるものと信じる人も居る。確かに、死を恐れぬ人は居ないだろうが、その一方で、確実に死が訪れることも否定できない。何とも微妙な状況だが、そんな中で生きていくことが、あらゆる生き物に課せられた課題なのだろう。知恵が身に付いた為か、余計なことばかり考える生き物は、そんな中で、危険を分析し、安全を過度に追い求めるが、冷静になって見ると、様々な矛盾を抱えた話ばかりが目についてくる。放射能という怪物に襲われた人々は、突然現れたと信じているが、その実、この星の上の生き物は全て、それとの付き合いを続けて来た。制限を厳しくすればより安全、という論に反対するつもりは無いが、その言葉を信じる人々の心の中にある、絶対安全、という夢は、決して実現されることは無い。そんなものを追い求めて、何を手に入れたいのだろう。

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4月4日(水)−科学

 人間には敵味方の区別がある。自分の方に立つか、あるいは、反対の方なのか。その区別をまず始めにして、その後の対応を考える訳だ。では、科学と呼ばれる人間が作り出したものには、そんな区別があるだろうか。客観が強調されることから、区別の前に全てに通用することが分かり、そんな区別など無い、となる。
 ところが、巷で話題になっているように、科学を生業とする人々を、どちらの側につくかで区別しようとする動きがある。御用などと揶揄されるに及んでは、庶民にとっての科学は、理解できぬ対象であり、無視すべきもの、といった感覚が大勢を占めているように感じられる。ただ、これも、一部の愚者のみに光を当て、下らない論を殊更取り上げる風潮に問題があり、姿を現さない大多数の庶民は、判断を下せないままなのではないかと思われる。科学的な解釈を用い、客観的な判断を下そうとする中に、敵味方の区別を槍として突き刺すのを見ると、その連中の愚劣さが際立ち、馬鹿を馬鹿と見なせぬ社会に憤りを覚える。危険性の表現についても、様々なことを同じ指標で分析する姿勢は、無駄なものとして切り捨てられ、騒ぎを大きくすることだけに腐心する。例えば、発電の仕組みの違いによる、様々な事故の要素の違いは、列挙してこそ意味を成す筈だが、知力に欠ける人々は、一部を取り上げることに終始し、全体を俯瞰する姿勢さえ見せない。豊かな生活を維持する為に必要なことに、何の危険性も伴わないとは、決して言えないことは科学の見地からは明らかだが、全体を見渡す力も気持ちも持たない人々にとっては、そんな見方は無用とされる。事が起きる度に騒ぐ人々には、この意味を見出す力は無いとは言え、そんな愚者の戯言に取り合わず、十分な分析に基づく方策を編み出す賢者の活躍を、邪魔することの無いようにしなければならない。

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4月3日(火)−徒為

 今の政治に期待できるものは無い、と断言する人も多いだろう。何をやっているのか分からぬ人ばかりが目立つ議場ではなく、場外での動きばかりが報じられる。意味も分からず、真意も伝わらず、そんな状態で、奇々怪々な行動を取り上げる。民主主義の闇が、こんな形で現れるのが、今の政治ということか。
 国を治める人々の、何とも不可思議な言動や行動と比べ、もっと小さな組織の舵取りをあずかる人々には、依然として強い期待が向けられている。言動も行動も、奇々怪々という意味からすれば、殆ど変わりのないものと思えるが、大きな違いは、結果を出しているかどうかにあるだろう。約束を守る、という見方からすれば、前者は単なる嘘吐きの集まりであるのに対し、後者は信頼を勝ち取る人となる。それが政を行う上で、どんな影響を及ぼすかは、明白な違いを見せているものの、更に長い時間を眺めた時に、どんな違いが生まれるかは、暫く様子を見る必要があるだろう。ただ、そんな中でも、減税をある修正を加えることで、落とし所を見出した上で、実施へと漕ぎ着けた首長は、その言動の異様さは脇に置いた上で、評価されるべき所がある。それ以外の部分に関しては、評価は下がり続けているとは言え、有権者の人気を勝ち取った部分を、押し通した意思の力は、何を置いても評価されるべきだろう。それが破綻に繋がったとしても、それが人々の望みだったのだから、とすべきとも思うが。もう一人、人気ばかりが上り続けている首長に関しては、実は対照的に大した成果を得ている訳ではない。それにも拘らず、評価が下がらぬ理由には、口先だけのものがありそうに思える。きちんと調べた訳ではないが、常識のある人々からは、どちらの首長も評価が上がらない。理由は、敢えて書く必要も無いと思うが、底が見えているからのようだ。ただ、そんな状態でも、何らかの達成感が見えそうな状況と、一方で、訳の分からぬ行動を続けるばかりで、何も出てこない状況とでは、大きな違いがあることは、常識の目からは明らかなのではないか。

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4月2日(月)−悪化

 機械を相手にして、思い通りに事が進まなくなった時、誰のせいにも出来ず、自分で解決するしかないと思ったことのある人は多い。機械は使う人の指示通りに動く訳だから、それが上手くいかないのは、指示が悪いとか計画が悪いとか、そんな理由しか無い。冷たい関係は、そんな所にも冷たさを表す訳だ。
 では、相手が人間だったらどうなるか。互いの思いを汲みつつ、目的に向かって協力関係を築く、といった図式を思い浮かべる人も居るだろうが、その一方で、面倒な関係を保ち、無駄な労力が必要になる、と思う人も居る。機械との冷たい関係に比べれば、生身の人間とは暖かい関係が結べる、という考え方も、冷えきった人間関係からは、機械との冷たさより更に厳しい、凍り付くような関係が生まれるという形に変えられる。確かに見方を少し変えるだけで、全く違った関係が構築できることが見えてくる。何故、と思ったとしても、相手が居る関係では、そこに明らかな理由や原因を見出すことは難しい。いつの間にか、こじれた関係が強まり、修復不能な状態に陥る。そんな過程を振り返っても、何処に誤りがあったのかを見出すことさえ出来ない。修復可能な状態が、不可能な状態に急変するのは、ほんの少しのきっかけで十分だからなのだろう。現実には、その前に気配が漂っており、良好な関係に見えたのも、一種の幻のようなものに過ぎなかったと、後になってみれば、思い当たる所があるのだ。それより深刻なのは、良好であった筈の関係が、悪化の一途を辿り、関係ないどころか、負の関係のみが見えるようになることだろう。誰もが経験することだろうが、人間を相手にした時に、相手の考えていることが見えなくなることがある。そんな時、変化は既に始まっているのだろう。確定してしまうと変えられないだけに、気をつけた方が良さそうだ。

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