寒さが和らぎ、水温む季節になって来たが、北の方はまだのようだ。北国の春として、以前から伝えられて来たのは、一度に訪れるという特徴だろう。それぞれの春の前線が、徐々に北上するにつれ、その間隔は狭まり、ついには重なると言われる。梅も桃も桜も、一度に愛でられるのは、格別の悦びと言えるのだろう。
そんな北国の特徴が、今は一気に南下したかの如く、様々な花が咲き乱れる季節を楽しむ人々が居る。初春の訪れを告げる花が遅れ、心待ちにした春がやっとのことで届いた時、次々に訪れる楽しみは、ぐっと圧縮されたようになり、これまで見たことの無い光景が、目の前に広がることとなった。これも異常と、声高に訴えるのも一興だろうが、自然の営みの気紛れは、時にこんな形を織りなすと、その違いを楽しむのも一手だろう。不安材料がふんだんに届けられる時に、更なる落ち込みを思い描く人々の、心持ちとはどんなものか、細事に拘らぬ人間には、どうにも理解できないものだが、隣近所ばかりを気にする人々には、そんな気持ちが理解できるのだろうか。人の考えとは、それぞれに違いを見せることで、一つにならぬことが、重要なことと思えるのだが、今や、一致団結たる態度が大事と、何やら不穏な声さえ聞こえてくる。そんな人間共の下らぬ営みなど、野生のもの共には一切関係ない。少しくらいずれたからと、それがどうしたものなのか、もうどうでも良いではないか。目の前に訪れた、麗らかな春の景色を、存分に楽しんでこそ、春の訪れの意味が出てくる。それが楽しめぬ人々の心に、どんな愉快があるのか、知る由もないが、隣がそんな人だったとしても、うちは違うと、花を見上げて愛でれば良い。
異様に思えるのは、こちらの感性がずれて来たからか。そんなことを思いつつ、周囲の人間と話をすると、どうも、それほどのずれは感じられない。となると、一体全体、画面の向こう側で展開されている、あの芝居じみた言動や画像は、何なのか。不思議と言うより、異常と言った方が、適切なのかも知れないのだが。
隣国の出来事を逐一伝えることは、様々な事情を考えれば、重要なことに違いない。しかし、多くの重要事の中で、殊更に取り上げる姿勢には、異常な雰囲気が漂うと思えてくる。何故、そんなことを感じるのか、と問われたとしても、異常といった感覚を返すしかないだろう。それほど、大きな違和感を覚えることが、現実に起きているにも拘らず、世間的には何の問題も無いかの如く、時間が流れていく。この所、特に、画面の向こう側が、まるでゲームか何かの世界の中のように、現実感を失いつつ、勝手気侭な展開を見せることに、異常さを感じることが多くなったが、その一方で、それに苦言を呈するような動きは、同じ画面の中から出てくることが無い。自分たちの正当性を強める為に、同じ主張を繰り返すに至っては、見る価値は皆無に近いとしか思えない。こんなことが繰り返され、何の問題も無かったかのように、次へと移り続ける人々には、反省も改善も、そんな言葉の一つも存在しないようだ。事実上とは何を意味するか、正当な対応を間違っているとするのは何故か、同じ尺度で測れないものを比較するのは何故か、この所目につくことをここに書いておいたとしても、ひと月もすれば、すっかり何のことか分からなくなる。その程度のことが、毎日のように、大切なこととして流され続ける。こんな緩やかな流れの中で、厳しい姿勢が育まれる筈も無く、単に身勝手な人間性が強まるだけなのだろう。
連日となるが、安全安心の話である。世の中には、絶対の安全なんてある筈が無い、としか思えない事件が起きた。暴走を続ける車に、逃げ惑う人々は、運良く難を逃れた人と、運に見放された人に分かれ、最悪の結果を産むこととなった。常識では考えられぬ動きに、悪夢を思い浮かべ、運命を感じた人も居るのではないか。
全く別の所で論じられている安全安心だが、こんな話が伝えられると、例のことをどんなに厳密に整えたとしても、日常には全く別の、思いがけない危険が潜んでいることを痛感させられる。だから、下らない議論なぞ止めにして、というつもりは無いが、その度合いを様々な要因とともに、同じ数直線上において、比較する必要があると思う。視野の狭い人間にとって、比較は最も苦手とする所であり、一つ一つを別のものとして片付けることを、優先したくなるのだろう。だが、人間が最終的に死ぬ運命にあることは、誰が見ても明らかであり、そこに至る道筋に、人それぞれの違いが現れることが、危険とか安全といった言葉と相俟って、複雑な様相を呈するのだ。そんな解けそうにも無いパズルの、一つのピースを摘み出して、それぞれを別々に論じるのは、何とも馬鹿げた行為に思えてくる。危険を避ける為の工夫は、各人が常に心掛けておかねばならないことで、不安とか、疑いとか、そんな心の動きは、その為のものとなる。電車を待つホームで端に立たないことや、信号待ちの横断歩道で道路から一歩離れるとか、そんな心掛けが、様々な危険を遠ざけることになるのは、皆が知っていることに違いないが、常識を外れた行為の全てに、こういった心掛けが有効かと言えば、そうはいかないものだろう。安心できる社会は、その構成員全てが関わることでできるのだとすれば、一つ一つの議論の意味は、何処に出てくるのだろうか。
安全とか安心という言葉を吐く人間は信じられない、とまで言われては、返す言葉は無い。だが、その一方で、これ程手の込んだことをやり、安心に繋げる努力を果たしている、という行為に、賞賛の声が上がる。どうにもあやふやで、不安定な心理が表に出ているように思われる言動に、やはり掛ける言葉は見つからない。
正確、精密な測定を行い、事実をそのままに伝えるという姿勢が、批判されてしまうと、次の手立ては見つからないだろう。流石に、そのような状態に陥りつつあることに、危機感を催したからだろうか、冷静な態度を評価する動きが高まりつつある。だが、迷える子羊に喩えられる庶民たちに、この動きがどんな反響を及ぼすのか、全く見えてこない。身勝手な論理を、自信たっぷりに展開する一方で、何の理解もその為の努力もする気の無い人々に、どんな働きかけが意味を成すのか、見えてこないのが当たり前かも知れない。そういう人々を相手にする必要があるかどうか、ここまでやってくると、かなり真剣に論じる必要があるのではないか。直感的な表現が好まれるのは、考える意欲が無い為だとしたら、今の風潮はそれを更に高めることになりそうだ。一つ一つを丁寧に説明することは、我慢強く聞くことが出来ない人にとって、単なる雑音としかならないし、直感的で分かり易い表現は、情報の欠落を招き、誤解を産み出すことに繋がる。本来は、丁寧なものが正確な伝達に繋がる筈であり、それらを優先することが重要な筈が、そうなっていない所に最近の問題がある。理解できないのは送り手の問題、と断言されるに至っては、憤りを隠せない。相互の問題とされる意思の疎通において、何時からこんな断定が罷り通ることとなったのか。確かに、一部の知識人が、傲慢な態度を繰り返すのには、腹立たしさを覚えるが、互いに歩み寄ること無しには、真の理解は有り得ないのではないか。
夢か幻か、一瞬見間違いかと思う程、異様な文字が並び、主張の強さばかりで、意味が成立しそうにも無いことに、驚くばかりとなる。非科学的な言動や論調に、呆れを通り越して、諦めるしか無いと思うことは、これまでにも屡々あったが、これ程の非常識は驚きを通り越し、罪深いものとしか思えない。
画面の向こうでは、普段ならば冷静な分析を披露し、厳しい論調で批判を繰り返すことで、人気と信頼の高い女性が、無知を曝け出し、愚民の代表たる立場を貫く。問題となる文字列は、その中で紹介されたある大手スーパーの取り組みにあり、そこに大きく映し出された張り紙には、「放射性物質”ゼロ”を目指す」と書いてあった。例の話題に関することであるのは、クローズアップと名付けられた番組の題を見ていれば、当然理解できるが、問題となるのは、「放射性物質」と書かれた部分にある。科学者たちが、御用だの、嘘吐きだのと、無知な人々から、謂れなき罵声を浴びせられたのは、冷静な分析が、彼らの理解の及ばぬ部分にまで及んだからなのだろうが、それを助長させるような論調が、この張り紙から感じられたからだ。あの事故に端を発する「放射性物質」に、注意を払うことに異論を唱える人は居ないが、「放射性物質」には別の種類のものが存在することに、注意を払うべきことに目を向けない人が多いのは、こんな社会背景があるように思える。視野狭窄に大きな問題があると論じたように、ここでも一つのことにしか目を向けられない、庶民の姿が目に浮かぶ。番組で専門家として登場した人物が、何度もその点を指摘したにも拘らず、例の女性は無視するが如くの原稿読みを繰り返す。あそこを眺めるだけで、高かった筈の番組の評価も、地に堕ちたとすべきだが、このままで良いのかと思う。科学は彼らの不安を解消するには至らないが、過剰反応の無意味さを明確化することは出来る。要は、それらの言葉を冷静に受け止める心の問題なのだ。
信用できる人かどうか、見極めるにはどうしたら良いのか。何度騙されても懲りない、と言ってしまうと、厳しい言葉を浴びせることになるが、見極めが確かでないことだけは言える。それどころか、同じような芝居に何度も、となると、そこには人の見極めではなく、何か別の要因があるとしか思えなくなる。
そんな事例は全くの的外れと受け取る向きもあるが、現実には人の見極めにおいて、自らの利害との関連性は、無視できるものではない。利益がちらついた途端に、目が曇るという話は、昔からよく聞く所だが、うまい話に乗るかどうかは、人の見極めと強く結びついている。利害を脇に置いて、その人となりを見極めようとすれば、随分違った展開に結びつきそうだが、人は欲に左右される存在のようだ。利害抜きにして、相手を値踏みすることは難しく、ついついちらつく褒美に惑わされる。人間関係においても、こんな話は数えきれない程出てくるものだが、どんな手立てが冷静な判断に結びつくのか、多くの人々が悩む割に、これといった決定版は出てこない。欲との関わりから考えれば、様々な欲の存在があり、それぞれに違った心境へと繋がる訳だから、それを押さえ付ける手立ては一つでは無さそうだ。簡単そうに見えて、意外な落とし穴に嵌ることは、こんな多種多様な展開によることなのだろう。本来ならば、幾つかの失敗の成果として、冷静な判断が芽生えることになるのだろうが、そうでもない所に複雑さがある。まあ、いずれにしても、欲に駆られることの危険性は、我が身を滅ぼすことにあると、常に考えながら、目の前の人を見る必要がある。
新しい環境に適応できるかどうか、この国ではこの時期に必ず取り上げられる話題の一つだ。だが、これを一気に変えてしまおうという動きが、此処彼処で起きている。本質的な問題というより、ご都合主義の権化のような対応に、既に嫌気がさしている人も居るだろうが、当事者は必死の様相を見せる。
社会制度は国毎にかなり大きく異なることは、既に良く知られているが、逆風や衰退という言葉が頻繁に使われる国では、そのずれを最も大きな原因と捉えたい人が多く居る。横並びになれば、対等な競争に加わることが出来、真の実力での勝負が可能となる、といった論法が使われるものの、対等な競争の意味は、殆ど取り上げられることが無く、更には、実力とは何を指すものか、論じられることは全くと言っていい程無い。変化は一概に悪いことではない、と書いたことも度々あるが、目先を変えるだけの変化では、迷走を繰り返すだけのことだろう。本質的な議論を省き、不利な点を列挙するだけで、目標達成を目指すと、一見正しい道を歩んでいるように感じられた後に、一気に奈落に落とされることが多く起こる。様々な変更を絞り出し、苦労の末に成功へと結びついた過程は、高い評価を受けることは確かだろうが、変更の意義や意味付けには、それなりの飾りが必要となる。思いつきの繰り返しはもってのほかだが、そう見えなくとも、机上の空論としか思えないことは、こんな時に次々に編み出されるものだ。複雑な社会をどう生き抜くかが論じられる一方で、単純化することが全てかのように扱われることは、何とも解せない感覚が残る。変わってしまったら、それをより良くすることが、構成員としての当然の役目だが、変える前には、もっと盛んな議論を促すべきだろう。勢いで実施した変化が、如何なる混乱を招くかは、空白の十年の後を見れば、すぐに分かるのだから。