咲き乱れる花々に、心が浮き浮きしてくる。といった季節なのだが、どうにもそんな気分になれない。浮ついた気持ちを押し潰すように、様々な問題が押し寄せ、悩みの淵に押し込まれるような感覚がある。悩もうが、どうにもならないものとも思えるけれど、押し付けられた問題には、自分の将来へのものもある。
確かに、様々な問題がある。だが、その多くは、個人の力で解決できるものではなく、心配の種となり、不安に苛まれたとしても、何も変わらないものが殆どだろう。にも拘らず、報道に耳を傾けると、自分たちの問題として、真剣に考えるべき、といった意見が聞こえてくる。だが、その声の主さえ、心底からそんなことを思っているとは見えない。問題があることに異論を唱える訳ではないが、それを解決する手段に、自らの力が必要とは思えないのだ。考えることが無駄とは思わないが、例えば、規則の制定や制度の構築などが必要となる場合、今の国の仕組みから言えば、上から降って来たものをどう受け止めるかの方が、遥かに重要なものとなる。明らかなことと思う一方、評論家たちの意見を聞く限り、別の方法があるかのように思えてくる。彼らが意図的に嘘を吐いているかは、定かではないものの、自分たちの範囲では、受動的な振る舞いを続けるしか無いようだ。無駄とも思える戦いを続けることに意味があるのか、はたまた、諦めにも似た心境でも、現状の中で生き抜く努力を続けるのか、どちらを選ぶべきか。
そろそろ新しい仕事にも慣れて来た頃か。こんな時期に思うのは、仕事と自らの適性の関係なのかも知れない。長く同じ仕事を続けている人から見れば、ほんの短い期間で、そんな所まで思いを馳せるのは、未熟な証拠となるかも知れないが、何も知らない状態から、様々なことに触れた結果、そんな思いに至ったのだろう。
確かに、少ない情報でも、その中で様々な判断が出来る。それを一概に無駄なことと片付けてしまうのは、当人たちにとって嫌な思いを残すばかりで、別の形の対応をとって欲しいと思うのかも知れない。十分な経験をした人々にとって、初心者が陥り易い状況は、大したことにはならないとの判断もあるが、渦中の人間にとっては、そんなことでも一大事となる。もう一つ、忘れがちなことは、初心にかえることの重要性だろう。同じ仕事を続けると言っても、その内容は徐々に変化し、新しいと感じられる課題に取り組むこともある。その際に重要となるのは、経験のみを頼るのではなく、それまでとの違いを明らかにし、新たな対応を模索することだろう。その中では、十分な経験も時には役立たず、あらゆる可能性を検討する必要が出てくる。こんな時に、経験が役立つかどうかは定かではなく、初めての取り組みに臨む姿勢こそ、重要になるかも知れないのだ。そんなことに触れたことが、実は、初心者たちの心境の理解に、繋がることになるように思える。表現し難い不安についても、久しぶりの経験から、思い当たる所が出てくるかも知れない。頼りになる経験者と言っても、相手を理解する力を失ってしまえば、助言も何もありはしない。時代は働きかけが中心となり、背中を見せるだけでは十分とされない。そんな中では、こんな手立ても必要となるということだろう。
民主主義とか、合議制とか、多数決とか、兎に角物事を決める上で、色々な仕組みがあるように見える。その組織を構成する人々にとって、自らの決断が反映される手法は、歓迎の対象となり得るが、自分たちのこととして考える人々が、必ずしも正しい答えに至る訳ではないことも、事実なのではないだろうか。
自分たちのことは自分たちで、という考え方が間違っているとは言わないが、主観的な見方が、ある場合には著しい偏りを産み、間違いを繰り返すことに繋がることも、事実だろう。渦中の人々が、客観的な見方を優先し、私利私欲に走らないことは、こういった体制では不可欠であるが、人間とは、そうなり難いものとの認識は、大きくずれている訳ではない。この部分にも問題があるが、最近顕著になって来たのは、かなり症状が重いものである。皆で決めるということから、合議を最優先と見なす人々は多いが、この仕組みにおいて、最も大きな問題を生じるのは、議論の沸騰ではなく、議題の欠乏にある。合議の対象とすべき提案は、この制度を成立させる為に、必要不可欠なものだが、組織を構成する人々は、合議への参加を当然と見ていても、その一方で、その材料となるべきものの必要性に、目が向かないことが多い。この状態は、多くの人が経験していると思うが、議論の場が開かれ、話し合いが始まった所で、何時果てるとも知れない意見の応酬に、何を目標としているのか、とふと思い当たることがある。議論の為の話し合い、といった場面では、主題は存在せず、何を議論すべきかを話し合っているという状態が続く。彼らが話し合うべき材料はあっても、合議すべき提案や主題が存在しない。一見盛んな意見交換が行われていても、そこには至るべき道筋も終着点も示されず、ただ漫然と話が続く。究極は、良い話し合いが出来たとして、何の結論にも至らぬ議論を評価する向きだろう。仕事ができない人間の典型だが、それが巷に溢れていることは、危機感の対象ではないか。
何故ああも簡単に騙されるのか、と思うことは何度もあるが、多くの人が話の真偽に思いを馳せること無く、鵜呑みにするのを眺めると、自業自得という言葉が思い浮かんでしまう。騙されたと地団駄踏む前に、やるべきことがあるだろうに、と思うのはこちらの勝手だが、自分で掘った穴に落ちるのはあちらの勝手となる。
数字や言い回しで混乱を誘い、それに乗じて欺瞞を施す。そんなやり方が通用するのは、数字の操作や奇を衒った表現の誤摩化しを見抜く力が、いつの間にか無くなってしまったからだが、社会全体にそんな病が蔓延し、特効薬も見つからないままに、詐欺師共が活躍するばかりとなる。信じることが優先され、疑いの目を向けることを忌み嫌った結果、そんな反応しか出来ない人間が、巷に溢れるようになったとしても、長年に渡って、そんな考え方が浸透した訳だから、すぐに逆転の発想が身に付く筈も無い。そうなれば、今居る人間は、何度も間違いを経験した上で、痛みを感じることしか、薬になることは無いだろうが、これからやってくる人間に関しては、そんなことが起きぬように、何らかの措置を施す必要がある。誰も信じるなとか、疑ってかかれとか、そんな極端な呼びかけをする必要は無く、もっと冷静な対応を教え込むことこそ、最優先で取り入れなければならない筈だが、変な形で整えられた微温湯につかっていた人々は、そこでも深慮に欠ける行動に飛びつくようだ。目の前の人間を疑う前に、どんな心理を確立すべきか、少し考えれば分かりそうなものだが、愚かな人々は、極端な行動を押し付け、自らの立場も苦しくする。新興宗教の教祖の言動にも似た、狂気に満ちた言葉の連続には、論理は欠片も無く、現状と正反対の行動ばかりを選ぶ。吟味を繰り返し、真偽を計る所に、疑いは無用だろうし、信用が先に立つ必要も無い。冷静が嫌われることにこそ、今の社会の病の重さがあるのだろう。
納得という言葉がこれ程頻出することも珍しい。様々な意見が入り混じる中で、最良の選択をすることは、道筋を決める上での重要な段階と見なされるが、納得という作業は、それを根底から覆すものとなり得る。話し合いの上で合意を目指すという過程も、納得を振りかざす意見が登場することで、成立しないこととなる。
いつの間に、頑迷な人間をこれ程気にするようになったのか。そのきっかけが何処にあるのか、さっぱり分からない。ただ、以前ならば押し切っていた勢いが、萎えて来たことだけは確かだろう。民主主義がそういうものとの誤解は、今や社会全体に蔓延し、病的な行動ばかりが目立っている。そんな中で、説明責任は高まるばかりで、理解力の減退は著しくなる。これは社会問題の議論においてだけでは無く、実は様々な所に、その魔の手が及び始めている。納得や理解が鍵言葉となり、受け手の態度の変化が絶対視される。そこでは、受け手の能力が取沙汰されることは無く、単に、送り手の不手際のみが問題とされる。こんな状態が社会全体に広がったのは、何度も取り上げた話題から言えば、所謂安定の長期化と見通しの鮮明化が元凶と考えられるが、その中で育って来た世代は、懇切丁寧な扱いを当然と受け止め、自らの努力が皆無としても、何の疑問も抱かない。無知な人間の扱いが、これ程の変化を見せて来たのは、やはり安定の副作用と思えるが、そろそろ限界に達しているのではないか。説明を求めても、そんな努力をしたことの無い人々には、何から手を付けて良いのかさえ、全く見えておらず、言い訳と文句を並べるだけとなる。同じ仕組みで育てられた、欠陥品としか見えない人間が、互いに罵り合う姿には、甘やかした子育ての結果と、何処か似た所があるように思える。親切や丁寧が悪いとは言わないが、相手を見ずに繰り返すことが、馬鹿げた結果を産むのは、はっきりとして来たようだ。
覗き見趣味とは言い過ぎと思うけれど、巷では他人への興味を抑えきれない人々が、沢山居るようだ。その一方で、自分のことを知られないように注意し、他人の話題に入れられないようにする。自と他の区別、と言ってしまえばそれまでだが、個人の情報という意味では、そこに大きな違いは無いのではないか。
保護の対象とされるようになってから、どうもぎくしゃくした感じが強まった、と思っている人は多いだろう。必要とされる情報も、その壁により手に入れられず、煩雑な手続きを始めなければならない。権利の保障は、こんな形でしか進められないとは言え、何から何まで制限をかけることで、肝心なことにまで支障を来すこととなる。以前ならば、天秤にかけることで、どちらを選ぶのかが決められていたが、現行の仕組みでは、軽重の区別無く、全てが妨げられることとなる。個人の問題に限れば、このような制度で権利を護ることは、重要なことに違いないが、公私の入り混じる中では、一概に制限をかけることが、一人の権利を護ることに繋がったとしても、その他多数の人々の権利を奪うことになりかねない。導入当初から、こんなことが何度も指摘されて来たものの、何処からかけられた力なのか、強い圧力がかかる中で、こんな仕組みが構築されることとなった。確かに、社会の中での一番の弱者は、個人であることは明白だが、その個人が何をするかは、本人の自由となっており、それが社会にとっての不利益に繋がることがある。そんな時に、保護を前面に出して、妨害とも思える行為が続くのは、どうしたものかと思えてくる。制度自体が成長過程にあり、まだ成熟していないため、とする考え方もあるけれど、その間に、既に様々な歪みが生じている。ここでも、実は、弱者を待たせる方に力が働く訳で、根底では、常に弱者を蔑ろにする形が出来ている。まさに、保護とは上手く名付けたものだ。
新しい通信手段が導入され、挙って参加する人々が出てくる。その一方で、意思疎通の力不足に関する話題が取り上げられ、意見交換の難しさが問われる。道具はあるが、使い方が分からない、とでも表現すべき状況だが、果たして何を意味するのだろうか。互いに何を伝えたいのか分からぬままに、話題は移っていくのだが。
世の中には意思表示の機会は、さほど多くない。そんな中で、自分の意志を刻々と伝えることの出来る道具は、どんな感覚を芽生えさせるのだろうか。大した変化は期待できない、とする見解もあるが、道具さえ出来れば、後は何とかそれに合わせて、発達する場合もある、と見る向きもある。どのような変化が起きるのか、それとも何も起こらないのか、現時点では判断することは難しい。これまでにも、様々な仕組みが導入され、その度に期待の目が向けられたが、実際には、大きな変化は起きず、人々はそれぞれの生活の枠の中で、留まることとなった。意見発表の場として、随分期待された筈のものも、現実には、誹謗中傷の場となり、身勝手な論理のみが目立つこととなった。冷静な発言は、大多数の下劣な暴言に覆われ、注目を浴びることは殆ど無い。こんな筈ではなかった、と思う人も居るだろうが、周囲を見渡してみると、日々の営みにおいて、これに似た行動をしている人の存在に、気付くことが出来るのではないか。井戸端会議とは、そんな行動を揶揄する表現の一つだが、目の前に居る人間との会話を、そのまま多数への発信へと繋げるのは、何とも無理のある話だろう。仲間内での会話を楽しむ為の道具、と言ってしまえばその通りで、今回もそんな所に落ち着きそうな気配が見える。どうなるのだろうか。