パンチの独り言

(2012年4月23日〜4月29日)
(改革、微笑、転嫁、流言、糺す、再訪、愚説)



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4月29日(日)−愚説

 赤子の手を捻る程に、簡単なものとでも思うのだろうか。愚民政治において、大衆の心をつかむ為には、各人の利益になることを並べ立て、如何にして得になるかを説けば良い。損得勘定では、同じ器の中身を競う場合、得になるものが居れば、損をする人が出るという、当然の摂理も愚かな人々には見えない。
 そんな手法が社会全体に蔓延し、ものを深く考えぬ人々が大多数となると、全ての事柄に、場当たり的な思いつきが並ぶこととなる。本来、核心を突くことを役目とされ、それに誇りさえ感じていた連中も、こんな微温湯に浸かりきった中では、本務を見失うものらしい。それほど、心が弱くなり、外からの力に耐えるより、隣と同じであることを選ぶのも、愚かなる民と殆ど変わらぬ状況で、皆一緒が一番の安心と言うのだろうか。画面のこちら側では、瞬間的に耳を疑った人も居たと信じたいものだが、子供たちに突っ込んだ事故の後日談として、加害者の親族が被害者の携帯に電話をかけたという問題が取り上げられた。憤慨する人々の姿を映すのは、最近の傾向として当然のこととしても、その情報が何処から漏れたのか、とする追及に関しては、取り締まる側の不手際が露呈し、それを糾弾する姿勢が露となった。では、何が耳を疑わせたのか。その報道では、もたらされた情報は、被害者家庭の固定電話とされていたのだ。普通に話を聴いていれば、すぐに気付く矛盾に、原稿読みの人々は、何の疑いも無く、無思慮に作成された矛盾だらけのものを、冷たく読み続ける。何処に無能が現れているのか、全てなのかも知れないが、それにしても、と思う。翌日に流されたものでは、携帯の番号は学校からもたらされたとされ、矛盾は解決された。相変わらず、自らの問題を取り上げること無く、他人の責任のみを問う姿に、何も感じないわけにはいかない。体制批判を責務とする人々にとって、批判対象であれば何でも良いとは、愚かとしか思えぬ話ではないか。

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4月28日(土)−再訪

 チュルチュルという声が空から聞こえる。春の風物詩と言ってしまえばそれまでだが、その通りの光景が広がることに、何の違和感もない。不安や心配を口にする人が居る一方で、自然の移ろいには何の変化もない。知る術をもたない鳥たちにとって、そこに大きな変化があったことなど、分かる筈もない。
 知らないから心配はない、と書くと、それはおかしいとの指摘があるだろう。知る権利を奪われることは、何よりも重要なことであり、全ての情報を知る権利が、自分たちにある筈、という考えからすれば、おかしいとの結論になるのだろう。その情報を知らなかった為に、何かしらの被害を受けたとなれば、知らせなかった責任があるということなのだ。確かに、物事を深く考え、理解の上で行動を決めるという、人間の特性からすれば、これは当たり前のことだが、その一方で、不安や心配に苛まれ、別の形の不調を訴えるとなると、どうしたものかと思える。新型爆弾の炸裂の一年後、焼け跡に新芽を出した植物に、驚きと喜びの入り混じった感慨を抱いた話には、人間の理解を超えた展開があっただろうし、一年前の事故の直後にも訪れた渡り鳥たちが、再び戻って来た姿を見て、不安感に苛まれる心は、どんな変貌を遂げるのだろう。癒しという言葉は的外れ以外の何ものでもないが、恐れるばかりで何も出来ない人間に、野生の動植物の行動は安心を与えるのだろうか。いずれにしても、鳥たちは人間の世界の混乱など知る由もなく、ただ、以前訪れた場所や風景が大きく変わったことだけに、何か思うのかも知れない。

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4月27日(金)−糺す

 政治家が衆目の的となるのは当然という見方がある。責任を委譲されたのだから、それに見合う存在となるべき、とする考え方なのだろうが、出歯亀趣味に冒される社会では、異常とも思える環視の目が集まる。庶民感覚からのずれを指摘する声も、当然の如く受け取られるが、その存在感こそが役割を果たさせているのではないか。
 一人の人間の存在が、これ程までに大きく取り上げられることこそ、彼の価値を決めている理由と思えるが、忌み嫌う人々にとっては、目の上のたん瘤くらい邪魔なものなのだろう。挙って貶めようとする動きが起き、庶民という名の人々の賛同を得て、さらし者への道を歩ませてきた。通常の手続きには不備があるとし、強引とも思える動きを、庶民感覚という名で強行するに至り、違和感を覚えた人も居たと思うが、その声を取り上げる姿勢は、情報伝達を役目とする連中には全く見られなかった。そんな中で、一区切りを付けた結論は、ある意味では予想通り、別の見方では期待を裏切るものとなった。これ程の騒ぎを招き、これ程の経費や時間をかけた理由には、庶民感覚からの乖離があったとするが、それを主張した人々の姿は、現実には幕の向こう側にあり、誰にも見えないものとなる。この仕組みの導入に対して、意義を主張する人々には、別の考えがあったと思うが、別の使い方を標榜する人々には、思い通りに事を運ぶ為の、一つのステップと思われたのではないか。一方、結論が出たことで、別の手段を講じる動きは早まるだろう。同業者の悪事を暴き、糾弾する為の場は、別の所での判断の最中には、開くべきではないとの考えも、一区切りの後では、無用となる。愈々、自分たちで論じる場が開けるわけだ。結論は別で出たからというのは、詭弁に過ぎず、やるならやれば良い。年金が無くなった問題で、容疑者とされる人間についての捜査が進行中に、喚問をしていること自体に疑問を抱く人間からは、あの場の意味が見えないのだが。

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4月26日(木)−流言

 何も出来ない連中が喚き散らしている。そんな光景が目の前に次々と現れ、無能や無力を棚にあげ、その責任を転嫁しようとする心根に、呆れるだけでは足りない気もしてくる。納得できる情報を要求したり、全てを知りたがる傾向は、この所高まるばかりだけれど、答えの見えない遣り取りには、不毛な様しか見えない。
 知らないことへの不安は、誰しも経験したものだろう。だが、知ることへの責任は、ほんの一握りの人間にしか、理解できないことではないか。情報を得ても、対応策が見出せない時、そこに現れる焦燥感は、経験した人間にしか理解できない。始めに書いた連中は、その殆どがそんな経験が無く、ただ不平不満を並べることを、信条としているかのように見える。どのみち、何の対応もしないし、出来ないのに、相手には情報の提供を求める。一方的な要求には、解決への道など始めから無く、苛立ちを表現することが、唯一の解かのように振る舞う。こんなことで大切な時間を無駄にすることこそが、実は真の目的かも知れず、更なる大事から目を逸らさせることが、彼らの役割なのかも知れない。見えない脅威を殊更に恐れ、それを逃れられぬものかの如く風評を流す。最悪の展開を作り上げ、人々に恐怖を押し付けるだけでなく、その予想が外れた時には、八つ当たりの如く、情報開示の問題へと話をすり替える。飛来する恐怖に関して、正確な情報が提供されたとして、無力な庶民たちが出来ることは何か、こういう人々は考える気など持ちはしない。ただ、自分の間違いを指摘されるより先に、人の弱点を掘り出し、矛先を逸らすことだけに、力を入れたいだけなのだ。情報を手に入れる立場に無い人々は、こんな形で責任転嫁を繰り返し、それを正当な権利の如く主張する。そんな連中の戯言に、目や耳を向ける必要など、ありはしないのではないか。

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4月25日(水)−転嫁

 筋書き通りの展開とは、事実が誰かが画策したものに沿った時に使われるが、別の意味で、使いたくなることがある。的外れのものを筋書きとして提示し、話の主題をすり替えようとする動きに、明らかな作為を感じ、思惑で動く人々の下劣さを感じ取る。何故と問いかける気持ちは、とうの昔に失われてしまった。
 体制批判が最大の武器とされた報道の姿勢は、体制が揺らぎ始めてから、標的を絞り込むことの難しさを経験している。的が揺れるに従って、自らの狙いも絞りきれず、まさに的外れを続けることになる。登校する児童の列に、暴走車が突っ込んだ事故に、その悲惨さを伝えるより、道路管理の問題へと話題をすり替え、自己責任より、他者の責任の重さを強調する。他人のせいにする風潮に、苦言を呈する意見が聞かれる一方で、こういうことを繰り返す姿勢には、信頼という言葉は当てはまらない。驚くべきは、そういう行動を忌み嫌って来たのに、横並びのように各機関が同様の姿勢を示したことで、そこまで来ると、何らかの力が働いたとしか思えず、外圧への反発を信条として来た人々が、堕落を続けた結果と思えてくる。事故を起こしたのが未成年であり、法的な責任が問えないと決まった途端、矛先を別の所に定め、下らない論理を展開する。怒りを向ける先がないから、などという考え方こそ、糾弾されるべきものであり、八つ当たりを正当な行動として振る舞うことには、下らなさのみが表面化する。体制批判で十分とする考えこそが、腐敗を招くものであることに、気付く人が出てこないことが、こんな事態を招いた訳だが、以前の病気によるかも知れないと言われた暴走も同様に、問題の核心を外すこと無く、意味のある検証を続けるべきだろう。

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4月24日(火)−微笑

 意思疎通に必要なこととして、円満な感情表現とでも言うものがあるのだろうか。にこやかに他人の意見を拝聴し、相手に不快な思いをさせない。その実、腹の中が探られないように、壁を築いていることに、どれほど意識が向かっているのか。笑顔ばかりを強調し、中身が無いと揶揄された国民性は、依然として強いようだ。
 意思疎通の力が減退しつつあるとの指摘から、様々な方策が講じられているものの、大した効果が得られていないと言われる。傾向と対策に馴らされた人々にとって、上辺だけの技術を習得することは、常に第一と考えられ、堅固な基盤を築くことは、殆ど顧みられていない。結果として、始めに書いたような行動を、重要なものとしてとる人々は、増え続けている為、肝心の議論は盛り上がるどころか、微笑みを含んだ沈黙という形で、閉じられることが多い。喧嘩腰の言動が、必ずしも効果を上げる訳ではないが、姿勢に関わらず、議論の主題に沿った意見の交換こそが、意思疎通に最重要の項目となる。その際に、相手の意見を糾弾する態度が見えたとしても、自らの意見の主張を助ける為ならば、態度自体を批判する意味は無くなる。何処をどう誤解したのか、態度こそが第一とする動きには、余計な手間を減らし、思い通りの議論を進めるのに、無用な人間を増やしたくない、といった思いがあるのではないかと、勘繰りたくなる。こんな社会がまともな人間を育てられる筈も無く、一部の人間が特権を得たとしても、当然の結果と見なすべきではないか。一見、当然の措置を進めているように見せて、その実、逆効果を狙っているような方策に、そろそろ乗せられる必要はないだろう。意見の重要性にこそ、問題の核心があるのだという理解を、どう進めるかが肝心となる。

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4月23日(月)−改革

 新聞にはそれぞれに特徴があると聞く。ただ、漫然と読んでいるだけでは気付けないが、そのことを意識して読めば分かると言う。まあ、情報を得たいと思う向きにはどうでも良い事だが、特徴を強調する人々は、それこそが重要だとする。情報への操作の加え方に、特徴が反映され、違った形になる場合もあるという。
 そんな背景もあるからか、正確な情報を必要とする人々は、多種類の新聞を購読し、他のメディアにも接する。時間は幾らあっても足らないだろうが、それでも成る可く多くのものを手に入れることで、正確性を高めようとする訳だ。無駄を承知で収集に熱を上げる訳だが、終着点がはっきりする訳ではないので、無駄は無駄と諦めることが必要かも知れない。そんな中でも、各紙、各機関が挙って取り上げる話題には、論点の違いが著しくなり、特に、事件報道より、今後の展開の予測を含むものに、その差が広がる傾向が強い。例えば、最近の話題として取り上げられるものに、大学制度の改革があり、頂点となる機関を中心として、新たな入学制度の導入が検討されていると言う。その提案に対して、他大学の首脳たちも様々な意見を寄せており、それぞれに期待と不安の入り混じった心境が表されている。こういった議論も盛んになれば、色々な効用が得られそうに思うが、その一方で、議論の広がりという点では、些か不満が残るようだ。確かに、運営する側からの意見は、事細かに伝えられるけれど、実際に入る人々からの意見は、具体性に欠けたものが多く、出た後の受け入れ機関からは、期待ばかりが見えるものが殆どだろう。そんな状況を眺めるに、不況に喘ぎ、打開策を模索する企業の経営者の、果てることのない試行錯誤に似た雰囲気が漂う。市場のことばかりを口にする割に、その実態を知る術が無く、盲撃ちを繰り返す。そんな姿が重なることを思うと、知の塔と呼ばれていても、同じ穴に陥るのでは、と思えてくる。

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